第237話 まさかの辺境スローライフ 6
9日目。
とうとう礼儀作法のレッスンにダンスの練習が入ることになり、スサーナは大変難儀していた。
ヴァリウサ社交界ではダンスは一般的な行為である。
淑女は14歳からのお披露目以降、「公式な」舞踏会、私的に王都の各私邸で行われるもの、領地で行われるもの、さまざまな舞踏会に招かれては交友関係を広める、というのが通例だ。
勿論、場に応じた礼儀作法を覚えるということが一番重要で、踊れないと言って壁の花になる、というのも選択肢のひとつ。ダンス自体は二の次なのだが、公の令嬢ともなると断れないダンスというのも出てくるらしく――たとえば王族からのお誘いなど――お父上に恥をかかせない、という観点から見ると習熟しておくべき行為だと強く侍女たちは主張したのだ。
ステップは、流石に上位貴族と言えども一般的なダンスと同じ動きをするらしく、一応講で教わったものとほぼ共通なので覚えられないということはない。むしろ島ではなんの役にも立たないと皆思っていた貴族流のダンスを真面目に補講しまくった成果が今更出ていて、動きだけはそれなりに追えるのが余計まずかった。
何故だかは本当によくわからないが、スサーナがある程度出来る、と察した教師役はスパルタ教育に燃えだすというジンクスがある。
今回もそれだった。
「背筋をぴんと伸ばしてくださいまし! そう! はいいちにいさん、翻す裾の形をもっと気遣って!」
全身運動だ。
「眉を寄せない! 表情は優雅に、夢見るように!」
「ステップはお相手に合わせるのです!殿方を生かして!」
男性役のダンスを踊る侍女は入れ代わり立ち代わり変わるのに何故自分は一人なのだ、とスサーナは後半内心で突っ込み続けていたが、それも仕方のないことである。
侍女ばたらきで体幹はなんとかそれなりに鍛えられたと思っていたのだが、なんだか求められる水準が滅茶苦茶に高い気がするのだ。
例えば腕から先はそっと相手に任せる感じで脱力しつつも二の腕の内側は体に引き付けるよう意識し、体幹は保ち、末端まで意識を保って意識的に筋肉を動かす。
例えばダンスを踊り終わるまで頭をフラフラ揺らさず、視線に応じて頭を動かすときもなめらかな位置移動を行う。
例えば膝の曲げ伸ばしの際に上体を揺らさない。
スサーナ自身は気づいていないが、男役が侍女であるため、本当なら男性に支えてもらえるはずの局面でも当人の筋力が必要になる、というおまけ付きだ。
――ダンスってこんなマッチョなものなんでしたっけ?
貴族のご令嬢という生き物は皆こんな続けているとドレスの下でインナーマッスルがムッキムキになりそうな行為を涼しい顔で行っているのだろうか。
スサーナは大体一年ぶりぐらいに思い出した疑問を頭の中いっぱいに浮かべつつ、内心ぼやきぼやき、なんとかダンスの練習の今日の分を終えた。
なんだか非常に同情するというような目でネルに見られつつ、休み時間は糸紡ぎ部屋に向かい、出来るだけ魔法に使える糸を紡いでおく。
「……お嬢さん、今日は休んだらどうかと思うんだがな」
「ええ、でも、自由になる時間は多くないですし……出来るだけ糸をここで作っておいたほうがいいと思うんですよね……」
「まあ、アンタがそのつもりならいいんだが……」
疲労困憊のせいで昨日よりも無念無想時間が圧倒的に長く、だいぶぼーっとしていたのでもしかしたらこれは駄目かもしれないな、と紡ぎ終わったあとで少し反省したスサーナだ。
いつもどおり晩餐会のマナー指南を受けつつ夕食を終える。
夕食後はサロンでの望ましい受け答えの仕方を講義され、今日の学習が済んだところで体を引きずるように寝室に入る。
眠らないように必死に待ちつつ、ふと気づいたら顎の下に猫が丸くなって寝ていたスサーナは、目をしょぼしょぼさせながら今日のノックにドアを開けた。
今日はまた糸紡ぎ部屋で講義を行うらしい。
ネルの先導で部屋に行くと、待っていたカリカはスサーナの疲労困憊した様子に何があったのか聞いてきた。
「ダンスの……練習がありまして……。」
「まあ、ダンスですか。苦手なのかしら。」
ええまあ、言ってみれば比較的……と頷いたスサーナに何がおかしいのかカリカがふふっと笑みを漏らす。
「ああごめんなさい。いえ、常民もワタシ達も子供の頃は似たような事で悩むのですね、と思って。……そう、ワタシ達にとってもダンスはとても重要なものなのよ。」
あれ、話の方面的になんだか不穏なにおいがするぞ、と思ったスサーナの予感はど真ん中に的中していた。
「そうね。アナタには氏族の踊りのやり方も教えなくてはいけなかったわ。巫師の素質ある者ならば当然。」
やっぱり。
その後彼女が一節分踊ってみせたその踊りは、ある種のベリーダンス、前世で近いものを上げるなら
侍女たちに見られたら卒倒されそうな、身分ある女性としては言語道断の姿勢で床と仲良くなる。
「ふふ、ひよっ子ちゃんに聞きましたけど、アナタグリスターンびとという触れ込みなのでしょう? グリスターンの王宮ではこの形式の踊りはとても重要視されるのよ。勿論氏族の踊りよりずっとお粗末なものですけど。動きの基礎は常民に紛れるにしたって覚えておいて損はありませんからね。」
「ふぁ、ふぁい……」
疲れている時にやらせたのは良くなかったわねと微笑んだカリカが、さ、それでは糸の魔法のおしえに入りましょう、と言ったので床にへたり込んでいたスサーナはひょろひょろと首を上げる。
「さ、しゃんとして。氏族の秘技ですよ。」
「ふぁいぃ……」
なんとなくこのひとはいわゆるS気質というやつなんじゃないか、という片鱗をふんわりと感じていたスサーナであったが、なんだかそれが正解のような気がしはじめていた。
カリカが染めてきてくれたスサーナの糸は、薄青から紺までゆるやかに色むらのある風合いに染め上げられている。
「糸を染める理由は、まず一番大きなところはイメージのしやすさの補助よ。無彩色の糸で綴った形象でも世界をうちに呼び込める方は居ますけど、慣れないうちは対応した色にちゃんと糸を染めるのが肝要。」
目の粗い布と、太い糸を使える針を渡されて、まずは水を刺繍してみるところからです、とスサーナは言われる。
「水を……」
「ええ。この布を土、青い糸をそこにある水だと考えるのよ。アナタを助けるためにこの世に現れる水。」
カリカは水を刺繍するのは一番の初歩なのだと笑う。鳥の民で素質があると見込まれた者達は皆大体一番最初に刺繍するのはちょっとした水の模様だと。
「単純な話、ごく簡単な刺繍で済みますからね。どんなぶきっちょさんでもすうっと通せば水の流れを作れるの。勿論、細かく刺繍しても構わないけど。」
それに、と続ける。
「水に触れたことのない人はいませんし、イメージもしやすい。いい事ずくめ。水は一番応用が効くの。形の定まらないものですものね。月の民とことを構えるのでも無ければ水を使って失敗することは少ないわ。」
スサーナは、カリカの言葉にん、と少し引っかかる。
「ええと、それはどういう?」
「ええ、イメージ次第で色々なことが起こせる、ということ。水が起こす出来事は多いでしょう。」
「あ、いえ、その。そうではなく……月の……」
「ああ、恐れることはないわよ。得手不得手の問題ね。月の民という種族は水に好かれるの。ワタシ達の呼んだ水のあり方に手を加えられるぐらいに。そういう権能ね、あれらも神々の血を引いたものですから。……ただ、道理もなく支配できるものはそう多くはなくて、水は強い。草木は五分五分かしら、現世のものに強く寄るからこれは気を強く持てば奪われるほどではないわね。……だからそういう時は水は使えない、とおぼえておけば十分。」
――そういうことでもないんだけどなあ。
スサーナはちょっと思い。サクッとバトルの選択肢が入ってくるとはこれはカリカ先生は魔術師があまり好きじゃないんだな、と悟る。突き詰めても誰も幸せにはならなさそうだったので、そっと黙っておくことにした。
カリカの指示に従って念じながらすうっと布に糸を通す。
鳥の民はどうも刺繍をするのに刺繍枠を使わないのか、それとも簡単なものだけやらせるつもりで省いたのかはわからないが、少し取り回しが悪いかな、と思いながらも、水に見えると思えるまで刺していい、と言われたのでスサーナはとりあえず手のひらに乗るぐらいのしずく型に、糸の濃淡を生かしてくるくる内側を埋める形の刺繍を入れる。
糸が太く、毛糸じみているので案外早く空白を埋め終わる。
「出来ました。」
「はい。ええ、ではこれをこの世に現す方法を教えるわ。泉か池ね、これは。」
スサーナが最後の糸の始末をし終わったのを確認して、カリカはすっと厳かな声を出した。
「これは、アナタの内側にある水です。」
「……アナタは水に触れるとき、これは水だ、と思って触れるでしょう。それは何故?」
「水を知っているから……でしょうか?」
「ええ、そうね。では、それをアナタはどんなものだと思っているの?」
「冷たい……とか。圧……重みがある、とか……透明で、キラキラしているだとか……。」
「では、その手に触れる、目に見える、冷たい、重みのある、光を反射して輝くものを何故水と感じるのかしら。」
「それは……そういうものが水だと思っているから……?」
「よろしい。」
カリカの声を聞きながら、その指示に従ってじっと布に刺繍した青い糸を見る。
「さあ、それは水よ。アナタが水だと思う要素をすべて備えている。ほんの少し離れた場所にあって、まだ触れられないだけの水。」
――イマジネーション、とかそういうことなんでしょうか。
水の感触を出来る限り克明に想像せよ、と言われてスサーナは思う。
「世界と隔てられているからここに外側が見えるだけ。でも、アナタの手の代わりにアナタの魔力がそれがここにあることを知っているわ。アナタの目の代わりにアナタの心象が。」
カリカの手が背を押す。腰、背、首の後。胸元。そして額。触れられたところがぼんやり温かい。
目を閉じてもいい、と言われ、まず手の中の刺繍の重みを意識するよう言われる。
アナタの水を思いなさい、と繰り返される。それは一歩離れたところにある水と同じものだ、と諭すように言う。
一歩離れた場所の水を思うようにその水を想起せよ、と言われ、触れた感触、匂い、水音、温度、とカリカの声は問うていく。
「さあ、アナタの手の中に重みがありますね。あなたのイメージする水の形もそのそばにあるわ。重みと形の先に手触りがある。匂いも。揺らせば音がするわ。指先も冷たいはず。アナタの望みのままにここと重なる。アナタの手の中に水の形象がある。それはあるのだからどこかに具象がなくてはいけないわ。」
幾度も繰り返す声は単調で、何かの歌のような響きを持っている。
多分これは鳥の民の技術なのだな、と頭の隅によぎらせつつスサーナは声に逆らわず大人しく水のイメージを浮かべた。
――水。冷たい水……。そういえばしばらくお水飲んでないな……。
あれだけ全身運動をした後なのに、夕食に出たのは酒精が多分ビールと同じぐらいの晩餐用のりんご酒で、しかも女性は一口分を上品に、なんて暗黙のお行儀があるせいで喉を潤せた気がしない。
水筒があれば侍女たちの目を盗んで水を飲めたのだが。
喉が渇いたなあ、と一瞬気をそらす。
ぴん、とオルゴールのピンが跳ねるのに似たような音がした気がした。
手を伸ばして、と言う言葉に上に刺繍を載せた手をのばす。目を開けて、と指示されてそれを見た。
灰色の布に形作られた刺繍の水が、すこしずれているように一瞬見える。
ふわりとそれが中空に浮き、さあ、と指の間を冷水の感触が流れた。
両手でほんのひと掬いした量の清水が中空に浮いている。
カリカがふふふ、と笑った。
「ええ、始めてにしては上出来。とても飲み込みがいいのね。こんなに早く出来るとは思いませんでした。」
スサーナが手を引き戻しても水はそのままそこに浮いている。
「これは……どうしたらいいんでしょう」
「アナタがもうここでは必要ない、と思えば行ってしまいます。ここにあるうちはアナタがイメージした水が毒沼でもなければ普通の水と同じよ。触れることも、口に入れることも出来るわ。」
スサーナはとりあえずその水を差し招いてみた。中空に浮かぶ水、というものについては実のところ見たことがあるので違和感はそこまで感じない。
ふわりと水が目の前にやってくる。口元に浮いた水が滑らかで心地よさそうに見えてなんとなく唇を当てると、まるで霧に似たかそけき感覚の一瞬後に確かに冷水を飲み込んだ感触がして喉が潤う。
ん、と満足感を覚えた次の瞬間、残りの水は霧散して散った。
ぱさっと手の上でわずかに浮いていた灰色の布が落ちる。
「その感覚をよく覚えておきなさい。一度出来れば後は応用。難しいことではないはずだわ。」
カリカは非常に満足げな顔をした。
「泉を思ってあれだけの水というのは少し少ないのですけど、慣れてくればもっと力をふるいやすくなるはずですから、残念がることはないわ。……逸れ者だという出自を思えば大変に優れた成果よ。」
――泉、というわけでもないんですけど……。まあいいか。
スサーナが最初描いたのは、北欧テキスタイルなんかにあるしずく模様に近いイメージのものだった。先にしずくのイメージがあり、そこから連想した水のイメージなのであまり大量に現れるのも変な気はするが、今言っても変な負けず嫌いの言い訳めいているのでやめておく。
結局、魔法が働いたのには違いない。
世界の助けがあるとは言え一番最初、呼び寄せる時に使う魔力は自前のものだとか言うことで、魔法はそう連続して使うものではないらしい。
疲れたでしょう、……いえ、体は最初から疲れていそうだったけど、それだけではなくて。とカリカに労られ、ネルが台所からそっとハーブティーのポットを失敬してきてくれたので一緒にいただく。魔法の実践の前後でそう疲れが増したかは解らなかったものの、喉はまだ少し乾いていたのでとてもありがたい。
お茶を飲みながらカリカの注釈を聞く。彼女が言うには、「門」である刺繍をその度に消費する魔法と形象から概念を呼び出すため刺繍が消えない魔法があり、前者がスサーナが今日働かせたもの。後者はマントに使われていた技術で、長老たち以上の鳥の民が刺すものであるそうな。
この日の残りの時間は、糸の魔法について、そしてその使う際のテクニックについて。体が覚えているうちにまた口頭で語られる講義の時間となった。
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