挿話 追想幻想曲(読む必要はない話)

【注:本編とは時間軸上無関係であり、読まなくとも展開に問題はありません。人によっては苦手と思われる描写が存在します。ご気分ご体調など不安がある場合は飛ばして頂けますと幸いです。】








 夢を見ていた。

 杉材の一枚板の廊下。これに顔が映り込むよう磨くのが伝統なのだと言っていたのは確か祖母だっただろうか?


 幼いはその突き当りに立っている。突き当りの扉を開けた所は母の寝室だ。

 気配を殺して、耳を済ませる。扉越しに遠く寝息が聞こえる。

 深く吸って吐く、規則的な呼吸音。

 私は暗い廊下に立ち尽くしている。その音が乱れぬように、途切れぬように、祈りながら。



 ――――――――――――――――――



 幼い頃からずっと、母が死ぬのが恐ろしかった。


 美しくて弱くて、誰かが守らなければいけないひとだった。

 少なくとも、皆がそう言って――信じていた。


 守らなければいけなかった。私のせいであの人はそうなったのだ、と皆が言った。

 あるべき私の代わりは永遠に失われてしまったのだから。




『双子だったのですって』

『男の子の方は駄目だったって』『大奥様も大旦那様もとても残念がって』

『奥様の予後も良くなくて……次は望めないだろうって』




 私は、母のために生まれてきた。母が父と一緒になりたくて作った子供、それが私だった。

 それなのに、私は期待ハズレで。本当に生まれてくるはずだった――だれもに望まれていた――健康で、快活で、父によく似た男の子はこの世に生まれてくる機会を永遠に失ってしまった。


 あの人は本当にそれを気に病んでいた。

 もう子供は望めない、と言われるたびに。出来損ないの私が理想的な――そう、父の為に働ける人間であると信じたがって。


『紗綾さん。紗綾さんはお父様のお役に立ちたいでしょう? ちゃんとお父様のお役に立てますね?』


 声に私はいつも一も二もなく頷く。微笑んでいる時間は稀有なものだから。


 あの人が泣くのをどれほど見たことだろう。身も世もなく泣いて、私を詰るのを。

 どうしてなの。娘なんてろくに役にも立てない。可哀想な幸隆さん。


 可哀想な人だった。肉を削いで骨を割っても、なんでも差し出して、傷を埋めてあげなくてはいけない人だった。

 皆が。そうすべきなのだと、そう言ったのだから、きっと間違っていないことだった。


 ああ、でも、だから。

 高校の時に新しく母の主治医になった医者が、不妊治療が可能だと言ったことでどれほど希望が生まれただろう。

 母ははっきりと幸せそうになって。

 私がやらなくてもよくなった。私はお役御免で。


 私が果たさなければいけない義務はそのとき急に何もなくなった。

 皆母と希望に満ちた話をしたがって、私が何をしているのかは誰も気にしない。


 ああ、なんて気楽なんだろう!

 上の学校に進むことも許された。それがどこかを選ぶのも。どんな風に父の役に立てるかを考えに入れなくても良い。自由だった。

 体面だけは十分満たせばそれでいい。寝息に耳をそばだてることもない生活。


 幸せだった。


 それがただ、目を逸らしているだけだと早く気付けばよかったのに。



 ――――――――――――――――――


 私は母の寝室の前に立っている。


 3つだろうか。4つ? 手を見て思う。短い子供の四肢。

 真っ白に血の気を失った手。冬の夜中。手足が冷えて、ドアが見上げるほど大きくて。

 母を起こしてしまうのは思いやりのない悪いことだったから、中に入ることは許されていなかった。



 母の寝息を聞く。

 この呼吸が止まらずに、明日の朝まで大丈夫だと信じられるようになるまで。



 ――――――――――――――――――



 母は最後のチャンスだと言っていたそうだった。

 母と父の本当の子供息子。望まれた家族を得るために。

 それでようやくあの家族はちゃんとした形になって、私は要らなくなる。


 目を逸らしていた。何もせずによくなったことに甘えて。義務を果たすのを怠った。



 死産だったと伝えられてなお私は家に戻ろうとしなかった。

 他の人たちが支えられるだろうと甘えて。父との関係も良かったのだからと。

 私は。



 ――――――――――――――――――



 私は母の寝室の前に立っている。


 ふと不安な予感に駆られてドアノブに手を伸ばした。

 中を確認しなくてはいけない。寝息を。うまく聞こえない。聞かなくちゃいけなかったのに。


 視界が塞がれる。


「見てはいけない」


 声がする。優しい声が。

 目を塞いだ手は温かくて大きくて、胸が詰まるほど慕わしい。


 後ろに立った誰かの手の優しさに縋って、ほんの少し立ち尽くしていればこの光景は消えるのだと、頭のどこかで私は理解していた。

 でも何故だろう。私はそっと首を振ってその手を振り払う。

 振り向いて見た後ろには、もう誰も居なかった。


 自分で振り払ったくせに、私は怯えて周りを見回す。


 夢を見るたびに、を垣間見る度に。

 誰かがいて、本当はそんなことなど絶対無かったはずなのに、怒っていて。

 多分。それで少し楽になっていた。そんな気がしていたけれど、本当にそうだったのかわからない。

 廊下は静かで、冷たくて、どれだけ探しても誰の気配もしなかった。



 扉は変わらずそこにある。

 私はドアノブに手をかけ、そっと押し開けた。


「……おかあ……さま?」


 細く開けたドアから覗き込む。

 薄暗い部屋。衣装箪笥と鏡台。畳の部屋だったけれどベッドが好きな母は洋室のように使っていた。


 寝台の上の布団が膨らんでいて、きっとそこで眠っているのだと思った。


「お母様」


 よくわからない焦燥感に駆られて揺すろうとした手が止まる。

 寝台で固く目を閉じた母は土気色の頬をして、まるで冷たい置物か何かのように、息を、していなかった。


「あ……」


 誰か、と叫びかけながら私は頭のどこかで冷静に考える。

 ああ、これは違う。これは願望だ。だって、私はこの光景を見ていない。


 後ずさりかける。

 母の上に掛かった毛布が白い掛け布に変わる。


 十字に組まされた手。守り刀。顔の上に掛けられた布。



 気づけば、私は家の奥座敷で座り込んでいた。喪服ではない、大急ぎで呼び戻された、大学用の普段着のワンピース。

 一四畳の三間続きの奥の部屋。部屋の奥に急ごしらえの祭壇があって、母の遺骸はその部屋の真ん中にぽつんと安置されている。



 主治医の先生にお出しして頂いた薬を沢山隠していて、一時に飲んだのだとか。

 血圧の上がり下がりに心臓が耐えられなかったのだとか。

 眠ったままで吐いて、それが喉に詰まったのだとか。


 お手伝いさん達が噂していた。原因はそのどれかか、全部だったのだそうだ。


「私が……」


 じゃあ、私が家に残っていたら、こんなことにはならなかった?

 私がちゃんと気をつけていたら、私が見ていれば?


 吐き気がする。視界がぐらつく。ああ、そういえば決定的な不調を自覚したのはこのぐらいだったか。誰もそれには気づかなかった。当然だ。他に気づかわなくてはいけないことが本当にたくさんあったのだから。


 逃げ場を探して見回した部屋に人の気配が満ちた。


 父が目を赤く腫らして、母の死に顔を覗き込んでいる。

 命を失ってなお、母の横顔は完璧に美しかった。


 涙ぐむ弔問客。葬儀は少し先になるという話だったけれど、急いで訪れる人々は多かった。

 私の横でくずおれて泣きじゃくる誰かが私の手を取った。


「紗綾さん」

「お祖母様……」


 母方の祖母。優しい人だった。

 年に一度も顔を合わせることは無かったけれど、よく懐いていた人だった。幼い私は彼女の口調を真似て、まるでおばあさんみたいな喋り方だ、なんてお手伝いさんたちに笑われるぐらいに。


「紗綾さん、どうして。どうして貴女が側にいてあげてくれなかったの、貴女が見ていてくれれば、緋沙子さんは……」


 どうして、と私の袖を掴んで泣き崩れた祖母をどうしようもなく支えながら、私はただ、ごめんなさいと繰り返した。


 ――何故こんなにも望まれているこの人が死んで、私がまだ生きているのだろう。

 私のせいだ。私がもっと気をつけていれば。

 私が、楽しさにかまけていたから。


 足りなかった。まだ、全然。


「ごめんなさい、お祖母様、ごめんなさい――」




 ――――――――――――――――――



 ごめんなさい、と譫言を叫んでスサーナは目を開けた。

 薄暗い部屋の明かりに伸ばした形で固まった腕が見える。

 13歳の、細い少女の腕。


「ゆ……め?」


 身を起こす。

 目覚めればもろもろと外形を失い、手触りだけが残る普段の悪夢とは違って、目を覚ました後でも夢の記憶はまだそこにあった。


 そこは豪奢な部屋だった。

 高い天井の下、蝋燭の光に照らされて異国でしか採れぬ珍しい木で作られた家具が陰影に沈んでいる。


 喉の痛みも、はらわたの痛みもない。

 なんなら歯が当たって少し切れたはずの唇の傷すら跡形もなく癒えている。


 何故か喉に包帯が巻かれていて、強い薬草の香りがしていたのだけ魔術師の処方ではなさそうな雰囲気だった。


「ゆめ……夢? 夢、じゃない……です、ね。」


 呟けばしっくりとその認識は胸に嵌る気がする。

 薄ら鈍く痛む頭を押さえる。


 思えば、最初からおかしかった。スサーナはそう思考する。自分は最初からとても甘かった。


 せめて家族のためになるよう、なんて言いながら取ったのは、一番楽で甘っちょろい手段。

 学者になって栄達して、だなんて言って。家を離れて富ませる手段はそんな迂遠な方法でなくても……そう、そうだ。目の前に、よりどりみどりにずっと転がっていたのに、無理なことだと言い訳をして、それを使うだなんてことすら思い至らなかった。


 鳥の民の魔法も、そう。

 なにかがあった時に対処できる手段があるとわかっていたのに、なぜ自分はそれを知ろうともしなかった?

 今思えば、見知らぬものへの畏れとか、ただの常民のままで居たいだとか、本当に意味のない思考だ。


 今回の事態だってそうだ。

 多分、もっとやりようはあった。間に合ったから良かったようなものの、レオやフェリスの命を危険に晒した。

 彼らだけじゃない。王や、第一王子。自分よりずっと守られるべき人達の命を。


 何故忘れていたのだろう。


 ――義務を果たせ。


 役に立たなければ、生きている意味なんかないのに。


 スサーナは胎児の姿勢に小さく丸まって、長く息を吐いた。





 ◆  ◆  ◆




「そういえば、これは何なのです」


 第三塔は師の問いかけに顔をそちらに向ける。

 事態の収拾の為の作業の最中。


 彼ら魔術師もいかな特権ある立場だからとはいえ、そのまま帰る、ということは許されなかった。

 一人出た被害者は消化管の治癒を行った後に、後は王家の所管であるとして横から攫われ、もとい引き上げられていった。常民の薬師達は――特に王家に仕える者達は――魔術師に対抗意識を持ちがちなのがなんともわずらわしい、と第三塔は内心考えている。


 王族たちが飲み込まされた魔獣の卵は孵化せぬまま無効化され、もはや生きたままはらわたを破られる心配はない。

 彼らの診察と治療を終えた後、魔術師達は皆、当初王宮魔術師が呼び寄せた中位の魔術師が行っていた護符の確認作業に手を貸す手筈となった。


 護符を点検し、物によっては刷新。すべて効力のあるものとして各家に戻す。また、の護符を大量に――とはいえ、上位貴族の係累たちに行き渡るか行き渡らぬか、という量だが――配り、緊急事態に備えるというのが王より望まれた助力だった。


 本来はそこまで力を貸すことはないものだが、王権に関わる問題と、王宮魔術師とその縁の者という立場上大典に背く行為ではない。


 それ故に集められていた護符を確認する作業の最中の問いかけだった。


「これはお前の手でしょう。……護符に組み込むには疑問のある術式が混ざっているようですが。」


 彼女が白い指先で持ち上げたのは腕輪の形をした護符の一つ。

 第三塔は低く息を吐いた。


「それは……」

「見覚えがあるもののような気はしますが。単純な防護の術式にしては随分と込めた魔力も組んだ式も多い。なにより気に掛かるのは」


 王宮魔術師は蛋白石の目でじっと護符を見上げ、指先で弾く。


「思考制御の術式など、護符に組み込んで一体何を? 防護の護符に必要あるものとは思われませんが」

「……脳に関わる式は常動させるとがついて、患者に悪影響が出るものがありますので。その点、条件を定めてその都度発動させる事の可能な護符ならば影響を最小限に抑えることが可能になります。」

「ふむ、理論の実証実験ですか? 成程。しかし、安全マージンを些か組み過ぎです。この系統の術式ならば瞬間的に発動させる場合被験者の脳にダメージが出る可能性はほぼ否定されている以上、もっとシンプルに――」


 第三塔は僅かに目を伏せ、師の手から護符を受け取った。

 持ち主の腕から外されて長いらしい、体温を感じない金属の感触が指に冷たかった。

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