第228話 ユーモレスクへの供物 3
通されたのは二層吹き抜けの天井の高いホールだった。
吹き抜けの周りに廊下を配し、所々、うちに張り出して室内を見下ろす形のバルコニーと小規模なオーケストラボックスが二階にしつらえてあり、演奏会側とは趣が違う室内器楽の楽隊が静かに演奏を響かせている。
一般に貴族の家の一部である舞踏室や大広間とは違って、対象を定めず人を収容することを主の目的とした空間は大貴族たちの居館に比べれば簡素であったが、構造柱を極力廃して広い。シャンデリアには明かりが惜しみなく点けられ、深夜近くというのに揺れる温かい炎の色で彩られたホールは招待客達のざわめきで溢れていた。
馬車を待つ間の食事、という趣向上、気軽な雰囲気で緩やかに階層も立場も入り交じる立食会の様相を呈していたが、それでも上位貴族達と王族は会場を見渡せる一段高い場に誘導されているようだった。
スサーナ達はミランド公に伴われて上位貴族達が集められている高い席に案内された。
周囲からの好奇を含んだ視線に流石のミアもそれなりに緊張をしているらしい。ジョアンは頬を引きつらせながらも背を張り、虚勢を張っているようだった。
ねえ、私達おかしくないかな? ちゃんとして見えるよね、ミアがスサーナの耳元でそう囁く。
それどころではないスサーナはそれでようやく残り二人がガチガチになっているのに気づき、強いて笑顔を作って頷いた。
「あれ、珍しいな。スサーナも緊張してるんだ!」
「ええ……。そうですね。」
「ここ、落ち着かないけど……確かにお料理は下のテーブルよりぜったいイイから、頑張って食べよう! 下を通る時に確認してきたもん」
「お前、メシと楽器についてだけいつも目ざといよな……なんでこの雰囲気で食べ物が喉に通ると思えるわけ?」
ひそひそとしたやり取りを耳にしたジョアンが小声で呆れ、肩をすくめる。
「だって美味しそうだもん。あ、でも大丈夫だよ。……よく見ると知ってる皆いるもん」
心強いよね、というミアが指差す先にはいつもの面々だ。
家族らしい男性と一緒にいるテオ。流石にいつもどおりに一緒にいるというわけにはいかないらしいアルは国の人間らしい衣装の人々と一緒に談笑している。
そしてもちろん、一段高い席には他の王族たちと一緒にレオカディオとフェリスが。
夢と同じ配置にスサーナの胃はぐっと痛んだものの、護衛らしい人間は夢よりもずっと多く見えるので色々状況は違うのだ、とそっと唱える。
父親と兄といるエレオノーラがきょとんとした目を向けてきたのすら心強いらしく、ミアが小さく手を振っている。
それはそれとして、第二王子がミアに気づいたとしてもちょっとナンパはしづらい状況だな、と考えてスサーナは少し心を慰めた。
あとは軽く食事をして、馬車に乗ってホテルに戻るだけだ。一応公式の式典の出席者である第二王子は多分この後王宮へ行くのだろうし、ミアをナンパできる余裕は一切なさそうだ。
――もしかして、ミランド公が席に呼んでくださったのも、今こちらの席に入れていただいたのも第二王子がふらちなことをしようとされるのを防ぐ意図なんでしょうか。
貴賓席の真横のボックス席も、上位貴族達の居並ぶ今の立ち位置も、どちらも非常にその手の行為をしづらくする場所だ。
よく考えてみればありそうな話だ。レオ君、もといレオカディオ王子の後見という立場なのだから、ミアを懐に入れて守っておこうというのは思えば当然かもしれない。
スサーナはそう考えて納得することにした。
ある程度人々がホールに誘導されたところで給仕達が乾杯用の飲み物を配りだす。
スサーナはそっと緊張しながらそれを眺めた。
ミッシィの証言で、この時に毒を入れる計画だった、ということは対策側に共有されている。
――夢でも多分、これが原因……だったはず。これさえなんともなかったら後は大丈夫……ですよね?
瞼の裏に浮かぶ惨劇。そう、薄いガラスのグラスが配られて、いや、エレオノーラ達は違っただろうか。ともかく、まず貴族達が血を吐いた――
手元に渡されたゴブレットをぎっと握りしめる。
どうやら銀製らしいそれは蝋燭の光を反射して、薄金色の液面に淡い光を散乱させている。見ただけではなんの違和感もなく、ただの乾杯用の飲み物だ。
ぽんと肩を叩かれる。
すごい目でゴブレットを見つめているスサーナに気づいたのだろう、ミランド公が一つ片目を瞑り、それから目線で階下を指した。
その目線を追うと、招待客の合間をセルカ伯が歩きまわっているのが見える。
壁際や、参加者たちの間にさり気なく立ったどうも素人ではないな、という雰囲気の人達と時折言葉を交わし、会場内を見回している。よく見れば他にも同じように動いている人々がいて、会場内に気を配っているのだと知れた。
安心させてくれようとしたのだと察してスサーナは小さく頭を下げ、笑顔を作った。
このことを知っているのは自分だけではない。危険性は周知されて、専門家達が動いている。
そう考えると、不安は消えないがそれでも叫びだしそうな焦燥感は薄らいだ。
なんとか肩の力を抜く。
国王陛下が一段高い場所に用意された豪奢な椅子から立ち上がり、よく響く声で演説を始めた。今日の参列を労い、今後の力添えを呼びかけた後に簡潔に締める。
万雷の拍手。
乾杯の音頭が取られ、一斉にゴブレットが差し上げられる。
それでもスサーナはその瞬間ぎゅっと目を閉じた。
数秒。
和やかな談笑の雰囲気にそろそろと目を開く。
――何も……ない。
開いた目に飛び込んでくるのは貴族達が談笑する風景だ。血を吐いているものも苦しんでいるものもいない。
ほーっと脱力したスサーナは、迷わずに円卓の料理に突進していくミアにふにゃふにゃした笑みを向けた。もう一度ぽんぽんと肩を叩いてくれたミランド公がゴブレットの残りを飲み干して笑みを浮かべる。
「貴女」
怪訝そうな表情をしたエレオノーラが歩み寄ってくる。
「エレオノーラお嬢様。ご体調にお変わりはありませんか?」
半ば駆け寄るように問いかけたスサーナに彼女が首を傾げる仕草もなにか異常があった、という様子はない。
「やっぱり、スサーナでしたのね。……ありませんけれど、一体どうしたのです? いいえ、そんなことより何故貴女、いいえ、貴方達がこちらの席に……」
問いかけてきたエレオノーラにやあエレオノーラ嬢、と笑顔のミランド公が声を掛けた。慌ててエレオノーラが淑女の礼を取る。
「息災かね、母御によく似てまたお美しくなられたようだ。」
「ミランド公閣下。閣下こそご健勝でなによりに存じます。」
「ドレスをお貸しいただいたと聞かせて貰ったよ。本当は私が用意しなくてはならないものだが、華やかなところに縁のない爺なもので用意のつてがなくて困っていたところでね。助かったよ。」
完全に予想外のところから予想外の物が飛んできた、という表情で一瞬エレオノーラが目を白黒する。これはどういう駆け引きなんだ、と疑問に思った――ミランド公が用意しなくてはいけない、だなんてものはなにもない――スサーナだったが、状況がわからないのでそっと黙っておく。どうもミランド公の感じがさり気なく周りに聞かせている、という雰囲気を感じたためだ。平民だとバラさないために気を使ってくれたのかも知れない。
「わたくしの裁量で用意できるものに過ぎませんが、助けになれたのでしたらなによりですわ。」
少し迷ったあとでエレオノーラがそう答える。
エレオノーラの後ろについてやってきたオルランドがミランド公に小さく会釈した。
「ミランド公閣下。」
「オルランド卿。卿も早くからよりご苦労だった。お父上はあちらかね」
数言言葉を交わした後で並んで去っていくオルランドとミランド公をスサーナは見送る。
横に立ったエレオノーラがふうと小さく息を吐いた。
「驚いた……。」
「ええと、すみませんエレオノーラお嬢様、いたずらが好きなお方で……ええと、こっそり私達をこちらに混ぜたのを隠しておかれたいみたいで……」
そっと弁解したスサーナにエレオノーラがふんと鼻を鳴らす。
「いたずらが好きなのはよく父からも聞いていましたが、ええ、貴女はまだいいとして、平民をこちらに入れるとは。あまり風紀を乱されては良くないでしょうに。警備に関わっている方なのですから今日ぐらい最後までちゃんと襟を正していただかないと……」
ぶつぶつ言った声がちゃんとしっかり潜められていて、不正を訴え出ようという様子は無いらしいのにスサーナはすこしほのぼのする。
「ああ、やっぱり警備に関わっておられるんですね。ええと、色々訳ありかもしれなくて……色々お考えがあるのだとは思いますけど……。」
「普段は警備に関わることが珍しい方なのですよ。でも、今日は……。……。今日はなんなのでしょうね。わたくしのエスコートをしてくれると言った癖に、父も兄も急に警備を見直すとかでずっとああして動き回っているのです。一体何があったのでしょう。魔術師まで呼び寄せるだなどと」
「魔術師を?」
「ええ。父は勇み足だと言っていましたが。」
朝からのことにどうやら不安を感じていたのだろう、エレオノーラは小声で言う。
どうも、スサーナがここにいることについて文句の一つも言わず、むしろ好都合だというような表情をしているのはその所為もあるのだろう。
「式典に魔術師を呼ぶなんて、例のないことです。それに、後は馬車を待って帰るばかりだと言うのにむしろ警備の人間が増えるばかり。なにか悪いことが起こりそうで……ああ、あそこに。」
エレオノーラが向けた目線の先、二階のバルコニー付近。いつの間にか上に上がったらしい国王陛下と会話をしているらしいのは蛋白石の輝きをした髪を長く流した世にも美しい女魔術師だ。後ろには供らしい魔術師が二人、静かに随従している。
わたくしも兄もお役目がありますからもはや馴染みましたが、いかにも不吉だと思うものもいるでしょう、とエレオノーラは呟く。
「でも、テオも、殿下達もそれぞれお忙しいのですから。こんなことを申し上げて心配をかけるわけにはいきません。平民とはいえ、ええ、その、貴女がいて居ないよりまだマシと言えないことも……」
エレオノーラの言葉をほとんど意識の外に聞き流しながら、スサーナは今度こそ完全に全身の力がすとん、と抜けたような気持ちを味わっていた。
――よし、これは100%安泰というやつでは!
乾杯の時もなにもなかったし、その上で安心材料がここまで積み上がったのだ。無事に済まないわけがない。
「恐れ入ります、エレオノーラお嬢様」
「ええ?」
「お腹がお空きではありませんか? お腹が減っていると不安になるとよく申しますでしょう。よろしかったら何か食べるものを頂いてまいります」
え、ええ、そういえばそうね、と目をぱちぱちしながら頷いたエレオノーラに一礼して、スサーナはいい気分でミアが陣取っている料理を満載した円卓に足を向けた。
自分もなんだか空腹であるような気がする。そういえば朝からほんとうに何も食べていないのは久々だ。これはバレたら後で叱られるに違いない――
そう考えながら料理を物色する。
中にたっぷりとチーズと干し無花果を詰めたウズラのロースト。たっぷりスパイスを入れたお湯で茹で、クリームソース仕立てにしたらしい貝と海老。岩塩とザクロを散らした鵞鳥のレバー。金色に脂の浮いた焼いた子豚の皮を削いでマッシュルームを包み、バターを染みさせて炙った発酵パンに載せたもの。若い野兎の
基本的にとても豪華で、そして一口の割に重たいものばかりだ。
――お腹を締め付けてる服装の人に満足感を持ってもらう、というんですからこうなるのもわかりますけど。
これは先に口を湿らせておかないと口の中がツラくなりそうだ、とスサーナは飲み物を持った給仕人を目で探す。
彷徨わせた目線に美しく赤を透かした酒がよぎる。
時間が鈍化した気がした。
きらきらと蝋燭の火の色をはねかして散乱させるその器は珍しい透明度の高いガラス製だった。
金象嵌でチューリップか百合に似た花とザクロの枝が細工されている。その細工はスサーナには確かに見覚えのあるものだった。
夢で見たグラス。そして同時に、百合に似た花の象嵌は誘拐された時に見かけた紋章のものによく似ていた。
思わず駆け寄ったスサーナに、盆の上に酒を載せた男性は困ったように笑う。
「すみません。これはこれから
細工を凝らしたトレイは丁重に一つだけグラスを保持する作りだ。
そのまま背を伸ばして行き過ぎた給仕の男性の顔。
夢の中で冷たい、見下す目線で歩いているのをはっきりと見た。誰かが伸ばした手を踏んで。
「っ……」
ヤロークのなまりなどどこにもない言葉。給仕とはいえ格式の高いお仕着せを着ていたのだから、身分の高い、重用された人物なのだろう。奉膳だとか、そういう立場の人間だ。凡百の使用人などではなく。
――どうしよう。
裏切るはずのない、裏切るなんて思われていない人間だ。網から漏れた。スサーナは直感する。
飛びつく? 阻止する? 裏切り者だと叫ぶ? 駄目だ。証拠が無い。
魔術師達は
男が歩いていく。にこやかに声を掛けた給仕の男に頷いたのはレオカディオ王子だ。うやうやしく渡されたグラスを彼の手が受け取る。
他の王族たちにはあのグラスはもう渡っているのだろうか。フェリスにも? もう口にしてしまっただろうか。
注意喚起する? いや、間に合わないかもしれない。なにより他の手段をあの男が持っていないとも。
スサーナは身を翻す。駆け寄って、その腕に飛びついた。
「レオくん!」
できるだけ無邪気な顔をして笑う。
「えっ?」
驚きを表情に浮かべたレオカディオの手をその上から握る。グラスを掴む。
「珍しそうなお酒ですね。一口分けていただけませんか? 私、喉が渇いてしまいました!」
――護符はないですけど。……でも、私はきっとすぐには死なない。毒でも、お腹が溶けるような劇薬が入っていたとしても、きっと。
なら。
スサーナは笑う。
――……もし駄目だったら、その時は、家族達は誇ってくれるだろうか?
望まれた役目を果たせたと。
一息にグラスの中身を飲み干す。
けほ、と小さく咳き込んだスサーナにレオカディオが目をまんまるにした。フェリスがぽかんとしたような表情で何か言いかけた。
「えへへ、美味しい」
食べ物を口に詰め込んだミアの顔を思い出して出来るだけ、出来るだけ満足そうに笑う。大丈夫、うまくやれる。そう唱える。
「……あっ、ただいまお代わりをお持ち致します。」
一瞬ぽかんとした給仕が盆を持って、調理場かどこか、食べ物が用意されていると見える裏手に下がっていくのを見送る。
――まだなんともない……。毒じゃない? でも。
スサーナの顔に目を留め、誰なのか気づいたのだろう。怒りを目に浮かべて歩み寄ってくるプロスペロをミランド公が腕で止めたのが目線の端で見えた。
そのまま歩み寄ってきた大貴族にスサーナはひくく抑えた声を上げる。
「今の方……!! 今の方、見張って! 絶対グラスに何かを……何か良くないものを入れます! 早く!」
「ちょっと、何がどうしちゃったのさ……いい、彼女は知り合いだよ。抑えるな」
「スサーナさん? あれは長く仕えた者で……」
「君は昨日の……毒の心配? 我々には毒は効かないよ? レオ、フェリクス、お前たちの知り合いだったの?」
声を掛けてくるフェリス、レオ、それから第二王子――それでも皆声を抑え、スサーナを内側に、周りから目立たぬようしてからというところが場慣れているというべきなのだろうか――を他所にすっと目を鋭くしたミランド公が周りに控えていたらしい者達に短く指示を飛ばし、彼らが給仕の後を追って静かに人波を縫っていく。
スサーナは短く息を吐いた。
あれは悪いものだ、という確信ばかりがある。身体にはまだ違和感はないけれど、何か。
「ご気分が悪いんですか? 待って、予備の解毒の護符を……」
首を振る。
王子の手をグラスごと握りしめた手がガタガタ震えているのに気づいたのだろう。レオカディオ王子が庇うように肩に手を回す。
「ええと、落ち着いて。大丈夫、いま兄が言ったように僕らには毒は効きませんし。護符があります。大丈夫ですから。」
手の力を緩める。とっさにうまく力を入れられなかったのだろう、グラスが彼の手から落ちて床に転がった。王子らしい傷のない綺麗な手に真っ白に握った痕がついてしまったのは申し訳ないな、とスサーナはぼんやりそう思った。
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