第223話 王の後継者のための協奏交響曲 2
東ホール。「芽吹きの葦笛のホール」という正式名称を持つその場所は、西にある「実りの角笛のホール」よりやや簡素な内装をもち、天井桟敷とバルコン席に直接通じる通路がある、ひとつ位が落ちる、と考えられている大広間だ。
普段は気軽な音楽鑑賞を求めてやって来る紳士達や流行りの娯楽としてやって来る洒落者達が思い思いに寄り集っているその場所には、今はあまり音楽慣れしていなさそうな者たちが一張羅に身を包み、表情に興奮と誇らしさを乗せてわやわやとざわめいていた。
そのうちいくらかは何らかの功績のあった地方の小貴族達であり、いくらかは町々村々の代表として呼ばれた無位の
「あのね! 後ろの方でよく見えないけど音はいいんだって! こっちの席のほうが残響音がよく響くって昨日ね!」
「分かったから跳ねるなよ、あと声量抑えろってば。見られてるから。見られてるからな? ……スサーナのやつまだなのかよ……俺じゃ開演まで押さえきれないってこいつ……」
その中には公学院の初年度の学生たちも混ざり、主に下位の貴族の継承権のない子供たちだという彼らは、物珍しさと微笑ましさからちょこちょこと挨拶を受け、また構われている。
「あいつ……こっちの席だって言ってたけどな、流石にちょっと遅すぎやしないか?」
はしゃぐミアを押さえきれずぼやいたジョアンはうろうろと場内に視線をさまよわせた。面白がって声を掛けてくる、地方の名士、という雰囲気のオッサン達を彼女の代わりに相手したり失礼がないようにフォローしたりするのにそろそろ疲労しきっている。
昨日、『合流できると思うので詳しい相談をしましょう』だなんて言っていたスサーナは結局現れず、その代わり、観光先には御偉い貴族のご子息達が入れ代わり立ち代わり現れ、案内を買って出たり、食事を(しかも全員にだ!)なにやらいい店で振る舞ったり、招待された学生たちはだいぶいい思いをした。
他の参加者たちは何やら人気者らしい彼らの心の広さと気遣いの深さに感じ入ったり、良い成績を取ったことに対する褒美と受け取り、これから良い成績を取ることで上位の貴族の目に留まる証左なのではないか、と興奮気味に互いに語り合っていたものだが、ジョアンは早々に一つのことに気づいていた。
――あいつら、ミアから距離を取らない。
側に侍らすでも、特に親しげにするわけでもなく、せいぜい一言二言挨拶する程度。しかし、彼らがその場にいる間は彼ら自身か、そのお付きと思われる大人の誰かがミアの方に目を配っている気がした。
何も知らなければ気の所為かと思っている程度のもの、でなければ秋波を送っているのかと判断したところだが、スサーナの「第二王子がどうこう」という奴を思い返せば、確かに慮外の相手を近づけないようにしている、という動きに見えないこともない。
――いくらちょこっと顔がいいからって、ミアだぞ。あの音楽馬鹿だぞ。第二位の王子殿下がって、ちょっと出来過ぎじゃないのか? そんな玉の輿に乗れるタイプじゃないだろ。
そう内心思いつつも、聞いたときには何を馬鹿なと一笑に付していたスサーナの妄言をジョアンは否定しきれなくなっていた。
――あれがまあマジだとして、だったらスサーナのやつ、来ないはずないと思うんだけどな。
寄宿舎から彼女が離れた今でもスサーナとミアはやたらと仲がいい。
ジョアンからしてみれば、ベタベタした女友達、と言うよりもなんだか姉と甘ったれた妹、というような関係に似ているように見えるのだが、それこそスサーナはミアをそんな状況でほったらかしにしておいたりはしないだろう。スサーナのやつの判断基準は大体ゆるゆるの癖に、妙なところで頑固だ。例えば、男女関係においては双方の合意と長期的維持の心積もりが必要だ、とくにミアに関するなら、とか先日息巻いていたように。
「……じゃあ、道に迷ってるのか?」
ミアとスサーナの関係を見るなら姉と妹、と言うジョアンだが、だからといって「しっかりした姉と甘ったれた妹」ではない。
ふわふわ能天気お気楽お人好しな姉と甘ったれの妹、だ。
というわけで約束の場所にスサーナが現れない、となると、来られない予定ができた、でもすっぽかした、でもなく、まず「道に迷ったのではないか」と想定するジョアンである。
「おい、ミア」
「まだかなー、入れるのまだかなぁ」
「おいミア!」
「わっ、何ジョアン。耳元で叫んだらびっくりするよー。それにこんなところで叫んじゃ迷惑だよっていひゃい、いひゃいって!」
完全にたがが緩んでぽわぽわになっているミアの耳を鬱憤半分ぎゅいっとつねり、ジョアンは耳打ちした。
「スサーナのやつ、まだ来てないけどさ、道に迷ってるんじゃないかと思うんだけど」
「あ、ホントだね。スサーナが予定に遅れるの、珍しいなぁ。……むー、最初から聞かないと絶対損なのに。よし、探しに――」
「お前も迷うやつだろそれ。俺、ちょっとそこら辺見てくるから、大人しく――」
その時、戸惑いを含んだざわめきが二人の耳を打った。
振り向いたジョアンは廊下に通じる入り口周りの人々が波が引くように下がったのを目にし、すぐにその意味を悟る。
西にある貴族たちの
やってきたのは皆どうやら貴族のようだ。
一人はジョアンにも最近多少は判断がつくようになってきた下級貴族であるようで、威厳がある、というふうではなく、やや猫背で飄々とした風情で、どうやら官吏らしく見える。それなりに涼しげに纏めた格好をしており、その上に正装用のマントを着けている。
そういう人物がこちらのホールに来るのは違和感がない。ずっとこのホールで待機していた下級貴族にも大体同じぐらいの装いの人間はいる。
特大の違和感を放っていたのはその下級貴族が人好きのする笑顔で会話をしている人物だ。
ジョアンには実のところ、よくそんな事を飽きず話しているスサーナと違って衣装の良し悪しというのはよくわからない。先の人物の服装も、まあ小綺麗で高そうだな、と判断する程度だ。
しかし、もう一人の貴族らしい男はそんな彼でも明らかに高価だと理解できる鮮やかな色の布地のたっぷりした服に細かい刺繍を施し、マントの上からずっしりと重そうな純金の丸板と大粒の赤い宝石に細い緑の宝石を散りばめた飾りを交互に連ねたメダルチェーンを重ね、それ以外にも宝石ピンやらブローチやらをたっぷりと身に着けている。
それほど豪奢な格好をしながらも普段からさらっと着慣れている、という雰囲気で、下品にならず、格好が威厳をいささかも傷つけてはいない。
50にはわずかに届かないというぐらいだろうか。筋骨隆々という様子ではないが、まっすぐ立ち慣れているらしいピンと張った背筋。手入れのいい頭髪を後ろに撫で付け、鷹揚とした態度で談笑しながら、小柄な少女に腕を貸してエスコートしている。
明らかに階層の違う人物の登場に戸惑ったように居並ぶ大人たちはざわめき、抜け駆けて挨拶をしよう、という者は出ないようだった。
招待客のうち、心当たりがあるらしい下級貴族らしい者たちは困惑と緊張の混ざる口調で各々囁き合っている。
――あいつ、絶対上位貴族だろ。なんだってこっちのホールなんかに……
そう思い、まじまじと観察しかけたジョアンの目が少女の上で止まる。
居心地悪げにわずかに目線をさまよわせる娘はジョアンたちと同年代ぐらいのようだった。
華やかな袖から伸び、エスコートする腕にかかった手首は手袋越しであってさえ華奢で白く見えた。襟飾りから続く細い頸と、髪飾りが重そうにすら見える、淡色の髪から覗く繊細で冷ややかな輪郭の線。人形めいて端整で作り物めいた顔立ちの中で、長いまつげの下に目が伏せられている。
遠目にもよほど温室育ちだろう、と思わせるような雰囲気をした娘はこんな場所へ連れてこられて戸惑ってでも居るのだろうか。どことなく憂い顔に見える。
豪華なドレスはサイズこそ合っているようだが、華奢で小柄な体躯に大作りで派手な装飾のデザインは――貴族の流行りからすれば違うのかもしれないが――ジョアンの目から見たらそこまで似合っているという気はしない。居心地悪げに見えるのはその贅を凝らしておきながら印象を裏切るちぐはぐめいた装いの所為もあるだろう。
――やっぱ貴族のカッコってよくわからな……んんん?
ジョアンは目をしばたたいた。ついで腕を上げ、ごしごしと目をこする。
「ジョアン? どしたの?」
「……とうとう目がヤバく悪くなったのかな、俺」
なんだかどうにもその貴族の娘の顔に見覚えがある気がしてならない。
入念に化粧を施されているものの、どうにも知り合いの面影があるような――
娘の目が囁きあったジョアンとミアを捉える。
不安げな気配をたたえていた目にホッとしたような雰囲気が流れ、上位貴族らしい男性のエスコートの腕から腕が引き抜かれ、一直線にこちらに向けて早足で歩いてくるものだからジョアンはたじろいだ。
「ジョアンさーん、ミアさぁぁん」
「……」
ほけほけした、とジョアンが常々形容する声がその口から聞こえるに当たり、ジョアンの自意識は流れるように認識と形容詞を書き換えることにした。
あれは華奢で上品とかいうものではなく、ちびすけやせっぽちというのだし、表情だって貴族的な冷たい落ち着きとかではなく、ぽやっぽやと称するべきだ。ついでに言えば動きだって洗練されて柔らか、というのは間違いで、てろてろと呑気というべきだろう。うんそうだ間違いない。ちょっと騙されかけたのは化粧師の腕というやつだ。なんたるスキル。
「何だよお前スサーナ! くっそ紛らわしいな!!! なにそれ、カツラ?」
「わあっスサーナ、すごく綺麗なカッコ! どうしたの!?」
「エレオノーラお嬢様にお貸しいただいたんです。どうですかね、貴族みたいです?」
「うんうん、びっくりしちゃった!」
「服に着られてるじゃん。平民の着るもんじゃないよね。ぜんっぜんっ似合わないからな。ぜんっぜん。」
再開を祝し合う子供たちをしばし眺め、ひとつ髭を撫でたミランド公は子供たちに向かって身をかがめ、親しげに話しかけた。
「ふうむ。君たちはこれから演奏を聞くのかね」
ぴっと棒立ちになったミアとジョアンがこくこくと頷く。
「はい。閣下、こちらまでエスコートありがとう存じます。私達もバルコン席で祝賀の演奏を聞く栄誉に預からせていただく予定になっております。」
一礼したスサーナにミランド公は楽しげにふうむふむ、と頷き、楽しい内緒話をしよう、という風に口の横に手を当てて手招き。つられて廊下の方にぞろぞろやってきた子供たちに、こっそりという感じで囁いた。
「何たる偶然、ということは……ま、私も招待客だからして、ないがね。一つ提案があるんだ。私はこれから仕事でね。取ってある席が無駄になりそうなのだ。このままでは席が無人になってしまって見栄えが悪い。どうだろう、ここで会ったのもなにかの縁。私の席で鑑賞しないかな。」
もちろん、学生さん皆を招待するということは出来ないので、秘密で……ボックス席だから四人までだな、と片目をつぶってみせたミランド公にスサーナはまず丁重にお断りをしようと考えた。
しかし、そこにセルカ伯の声がかかる。
「閣下。閣下の席とおっしゃいますと、
それでミアの目が輝いた。王族たちが座る席は正面の中央に大きく開いたバルコニー状の座席である。もちろんそこが一番音の通りがよく、楽団を正面に見る最高の席だ。
そして、今セルカ伯によってさりげなく提示された席はその横に位置する小部屋状の一つ。音楽を鑑賞する、という観点から見れば、ほぼ最高の条件、という点では変わりない場所である。
「い、いいんですか!」
ミアが上ずった声を上げ、キラッキラに目を輝かせる。
ジョアンがその口をばっと抑え、どうにか止めてくれとスサーナに目で訴えかけた。
「閣下の格別のご厚意、ありがたくお受けさせて頂きたく存じます。」
しかしその目線をスルーして微笑んだスサーナにジョアンが信じられないようなものを見るような目をする。
スサーナは目線でジョアンに謝りつつ、考え直せという目線を華麗にスルーし直した。
それには彼女なりに一応理由はある。
まず、ご招待のバルコン席は確実に席番号まで第二王子殿下に把握されていることだろう。なにせ席をとったのが王子本人。もしくはその息がかかったどなたかなのだ。
どのタイミングでアプローチをしてくるつもりかはわからないが、むざむざ把握されている席にいるよりもこの場でポップした新しい席にいたほうが第二王子の目からは逃れられる。
第二に、確かに王族たちの居る席の真横であるならそれは接触しやすい。しかしそれは他の王族の目がある、ということでもある。流石にもっと偉い現王や第一王子の目の届くところで流石にナンパはしたくなかろうし――なんとなく、そのぐらいには繊細そうな人に見えた――ナンパ行為を問題視するレオカディオ王子、もしかしたらフェリスちゃんもそこの席には一緒にいるだろう。それなら多分、先に気をつけると言ってもらった以上、妨害をしてもらいやすいはずだ。
第三に――これはミア達は関係のないことだが、柱を一本、壁を一枚隔てただけの場所なら――とはいえ、王族の席に向かうなら「窓」側からバルコニーを乗り越える必要はあるが――、何かあったときに……もしくは、夢で見た怪しい人間が近づいた時にわかりやすい。
それに、該当の席は構造上、座席の中でも会場内を視界に収めやすい場所だ。
夢の光景を信じるなら、何かが仕掛けられるとしても演奏の鑑賞中ではなく、終わった後に供される会食の席だ。とはいえ、気をつけて損はないだろうし……セルカ伯が声を掛けてきた、ということは多分、事情を知っており、さらに怪しまれづらい子供である自分がそこで張っていることに意味があると伯も判断したのだろう、と思われた。
王族たちの席には護衛も同席するようだし、そうでなくとも手練の者たちを色々な所に伏せ置いているのだろうからスサーナが気を張ることもなさそうだが、まあ。セルカ伯に目配せを受けたことだし、ついでに出来るならまあ、という気持ちである。
「ようし、はっはっは、重畳重畳。おい、この子等を席へ案内せよ。」
公は満足げに笑うと、廊下の奥、数歩離れた場所に控えた侍従に声をかける。
スサーナはセルカ伯とミランド公に一礼すると丁重に礼を言い、そこそこ離れた場所に固まって一体これは何がどうなって、という具合にぐるぐる混乱した目を見合わせているメイドたちを招き寄せた。
そして先に立ったスサーナに続き、ジョアンは引きつった顔で、ミアはキラキラと今にも飛び上がりそうな顔で、ボックス席に向かって歩いていくのだった。
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