第219話 メリッサの花束を貴方に 1
別邸に戻る。
プロスペロによって追い出すように指示がされているのではないか、と少し考えていたスサーナだったが――冷静に考えれば別の家なのだから、いくら貴族でもそんなことは不可能だ――そういうことは全く無いようで、むしろメイド達が待ち構えていた。
「まあまあ、どこに行ってらっしゃったんですか! 仕立て屋を呼んで明日のお召し物の最終調整を致します!」
スサーナはたじろいだが、確かにこの手のドレスの場合前日か前々日にごく細かい部分のサイズ合わせをするのが上流階級の嗜みというやつだと知ってはいたので、すっかり失念していた自分が悪い、といえないこともない。
――なんか、朝からそれどころでない気分でいっぱいでしたからね……
ほとんど心ここにあらずであっちを締め付けられこっちをピン留めされ、それでもなんとか最終調整を済ませたスサーナはあてがわれた部屋に戻り、目立たない服に着替えて夜が更けるのを待った。
夜半少し前に合図があり、そっと部屋を抜け出す。使用人が少ないのが幸いして、外に出たのは見咎められることはない。
屋敷の庭、スサーナの部屋の窓の下に夜闇に紛れて現れたのはネルのほうだった。合流して屋敷の外に出る。
「ネルさん。収穫はありましたか?」
「ああ。……半日で集めきれる範囲としちゃマシなほうだろ。……指導役……レミヒオももうすぐ来るはずだ」
「それじゃ、レミヒオくんと合流し次第、経緯を――」
真夜中過ぎ。
ホテルの部屋に戻ってきたミッシィは着ていた衣装を脱ぎ落とし、薄いシュミーズ一枚で寝台に倒れ込んだ。
寝台の脇においてある酒瓶を手探り、強い酒をぐっと煽る。
「はぁぁー、んー、骨身に染みるわー」
彼女の仕事は貴族の男たちに取り入り、その内懐に入り込むことだ。
流行りの遊技場で、催しの場で、男に声を掛けて親しくなり、腕を組んで歩き、腰を抱かれて踊る。
そして、彼らの寝室にまで入り込み、心を許されて、必要なものをかすめ取ってくる。それが彼女の主人から課せられた役目だった。
最初のうちは泣くほど嫌だったが、今はもうすっかり慣れた。
どれだけ厭おうとも、これは彼女にとっては向いた仕事だった。天職と言ってもいいかもしれぬ。
いくら彼女のような女を連れ歩くのが流行りだ、といっても、貴族の男たちは品というやつを求めたがる。例えば、手づかみで食事をしないだとか、手鼻を
一応にも貴族の奥方となれるように半年の間教育されたことや、何のやる気もなかったにせよ、高級官僚を目指す貴族の子弟達と共に
うろ覚えにせよ、古典の台詞を引用したり、貴族の女達が見せるような礼儀を垣間見せ、平民育ちの他の――
それに加えて平民らしいあけすけさを感じさせながらも自分の身の上を話すことがないミステリアスさ。伸びやかな肢体に、とろんとした庇護欲をそそる目つきとぽってりと厚みのある唇を備えた男好きする容姿も相まって、これと狙って声を掛けた相手は彼女に溺れなかったことはなかった。
今もそんな相手の一人に「ダンスの個人レッスン」という見え透いた口実を与えて呼び出され、舞踏室へ、そしてもっと屋敷の深いところまでお伺いしてきたところだ。
もう一口ぐっと強い
貴族の屋敷で供される澄んだ上質のワインではもう随分前から酔うことがない。酒に慣れたせいか、酔えないほどに気を張っているせいなのかは彼女にはよくわからない。
いつまで、こんな。
強い酒で強引に曇らせに掛かった脳裏に言葉がこぼれる。
――馬鹿馬鹿しい。
そう胸の中で呟いて目を閉じた。それは彼女の主の意向次第で、彼女自身に決められることではない。
いつまでこんな汚いことをつづけるんだろう。そう考えてもなにかいい事なんてありはしない。普段はなるたけ考えないようにしていることだ。
それが、どうしてもそこに考えが戻ってきてしまうのは、オルランドの新しい恋人と出会ったせいだろうか。ミッシィはぼんやり考える。
オルランド。彼は幸せになったろうか? だったらいい。
『取り澄ましたご令嬢たちより僕にとっては平民のほうがずっといいみたいだ』
そう笑った顔を思い出す。
あの新しい恋人はどうやら自分と同じ平民だったようだけど、随分と上品そうで初心そうで、男を騙してなにかしようというタイプには見えなかった。
彼の横で、よい心の慰めになるだろうか。
オルランドとあの少女が並んで笑い合うさまを想像する。
じくりと胸が痛んだ。
もし、愚かだった幼い自分が命じられたことの意味を理解して、オルランドに全部話していたら。まだあの場所は自分のものだったろうか。
ともすると意味のない自問自答に落ち込みかける思考を振り払い、跳ね起きて洗面台に水瓶から水をあけて手荒く顔を洗う。貴婦人のように施されていた化粧がぐしゃぐしゃに溶けて流れた。そのままざぶんと洗面器に顔を漬ける。
――たすけて。こんなことしたくない。あそこに帰りたい。……だなんて!
ろくに何も理解していなかったとはいえ、やっていることは今もあの頃も、結局そう変わりないことだというのに。あそことここではぜんぜん違うだなんてどうして厚顔無恥にも思えるのだろう。
彼女は道理を知らない小娘めいてむずがる我と我が身をあざ笑い、体を起こしては麻布でごしごしと顔を拭った。
「起きてても変なこと考えるばっかりだし、流石にもうこれからアタシのお仕事は無さそうだし、寝ないとね。もう少し飲んで……」
ここでの「仕事」は明日限りだと聞いている。
求められた仕事を果たさないことには非常に厳しい雇い主たちだが、そうでないときは無関心と言っていい。彼女が何をしていようが何の興味も持たないだろう。
ミッシィは寝台に腰掛け、もう一度酒瓶を引き寄せた。明日の予定をそっと思い返す。
静かなノックの音が暗い部屋に響いた。
――誰? こんな時間に。ルチェルトラじゃ、無いわね。
忌々しい蜥蜴にしてはノックの回数が違う。
昼間ルチェルトラにはああ言ったが、男たちにこの寝床を教えたことは一度もない。調べたり後をつけたりするものもいるだろうとは考えていたが、戻る際には細心の注意を払っている。
ミッシィはすっと緊張すると一応ガウンを羽織り、扉に近づいた。
「どなた? お部屋をお間違えじゃなあい?」
硬い誰何の声に扉の向こうから応えたのは予想外の声だった。
「あの、すみません。ミッシィさん、もう寝てらっしゃいましたか?」
まだこどもの気配を強く残した、高く、どことなくか細い雰囲気の少女の声。
確かにそれは先程まで彼女がオルランドと笑い合う響きを想像していたものだった。
「えっ、アナタ、どうしたのこんな夜遅くに。」
きっと細めに扉を開ける。扉の前に立っていたのは間違いなく昼間助けた相手で、少なくとも後ろに騎士を伴うなどということはないようだ。
昼とは違ってシンプルなデザインの
「すみません。ご迷惑だろうとは思ったんですが、お話したいことがありまして……」
娘が細い肩を申し訳無さそうに小さくして胸の前で指を握った様子に、ミッシィはろくに熟慮を伴わずにドアを開け、手招いた。
――あんまりもう人を入れたくないんだけど。でも、……あの人に関係する大事な用事かもしれないし。なによりこんな夜中に部屋の外に立たせておくものじゃないわ。
「いいわ、入って頂戴」
少女がドアの隙間から滑り込んできて、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。」
「別に、いいのよー? えーと、とりあえず座って。お酒しか無いけど、飲む?」
「ええと、お構いなく。」
ミッシィの手の動きに従って彼女は寝台横にある丸椅子に掛けた。なにか物言いたげな雰囲気を漂わせてミッシィを見上げる。
月のない夜の空に似た目にじっと見つめられて、ミッシィはなんとなく落ち着かないような気持ちになった。
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