第210話 野猿とマンネンロウ

 そのまま彼女はベッドの脇にあった陶器の瓶のコルク蓋を歯で抜き取り、ごくんと飲んで景気のいい息を吐く。


「っはー! んー、冷や汗をかいたあとのお酒ってばサイコー!あ、アナタ飲む? 結構いいヤツよこれ」


 なんとなくまだ状況についていけないスサーナはふわふわ首を振った。


「あ、そう? あぁ、まだ調子悪かったら寝てっていいわよー。アタシってばこの後仕事あるけど、多分夜からだしぃ……あ、この服どうしよっかな。こういうの好きなお客もいるだろうし貰っちゃっとこっと。」


 なにやら一人で思案し、一人で解決したらしい彼女……どうやら話に聞いたオルランドの恋人だったらしい女性に、スサーナはとりあえずええと、と声を掛ける。


「あのう……助けていただいたのは解るんですが、ええと、一体どのような経緯で助けて頂けたのでしょうか……?」


 聞きたいことは意味のあることからないことまで――例えば、あの、服を着ませんか、とかだ――山のようにあったが、とりあえずまずは現状の把握だ。

 それに応えてメリッサ……ミッシィはコケティッシュに小首をかしげ、んふ、と笑ってみせる。


「経緯ってほど複雑な事はなあんにもないわよ。主に偶然。一昨日ね、アナタがガラント公がどうのって話してるのが聞こえて、ちょっと気になってたのよねぇ。ええ、ロビーで。それでさっきアナタが廊下を歩いてるの見かけて、それで服が見覚えがあったでしょお、それであのクッソクソ真面目なプロ君の部屋の方に行くし? ちょっと様子を見に行ったらなんだか揉めてるみたいじゃない? それでああ次のお気に入りの子なのかーって分かったわけ。」


 もう一口豪快に酒を飲み込んで唇を舐め、それで、と彼女はきれいに塗った爪を揺らした。


「それで出てきたかなーって思ったら、ちょっとまあ有名な? 色々遊んでるって話の泊り客さんのお部屋にアナタ入っていくじゃない? ちょっと立ち聞きしてみたら、同時攻略にしてもちょっと不味そうかなーって感じがしたからちょちょっと、ね? だいたいそんな感じよ。迷惑じゃ……なかったわよね?」

「ええと、はい。とても助かりました、ありがとうございます」


 スサーナがきっちり頭を下げるとミッシィはあら丁寧、と手を叩いて喜んだ。


「やっぱり貴族相手にするならそのぐらい出来ないとってことねー。ねえアナタ、どのぐらい本気なの? 妾働き希望にしても奥様希望にしてもオルランド、あれでマメだし優しいし、結構まだ有望株だし、一本に絞ったらいいと思うのだけど。」

「妾ばたらき……いえあの私、ええとですね、オルランド様となにかあるとかそう言うことはなく……このドレスも別宅に泊めていただいたので貸していただいているだけと申しますか、その」

「あっらー純情なの! んふふ、いいコト聞いちゃったわー。アタシってば最高に運がいいかも!」


 何やらはしゃいだミッシィにスサーナはいやいやと首を振り、


「いえあの純情とかそういうことでもなく……! あの、メリッサさん、私もお聞きしたいことがあるんですけど……ええと。オルランド様の恋人……ご婚約者だった方ですよね?」


 そう問いかけた。


「そうよぉー。元、ですけどね。あと、メリッサじゃなくてミッシィって呼んで欲しいわ」


 ミッシィはひょいと肩をすくめる。


「ええと、あの……あの、そのですね。私、別にあの、オルランド様とどうこういうことは無いんです。それよりもオルランド様はメリ……ミッシィさんにまだお気持ちがあるような感じがあるので……。プロスペロ様が色々言っていましたけど、そのう、濡れ衣とかなら……訴え出れば名誉回復とかを申し出られると思うんです。それで……あの、一体なにがあったんですか?」


 九割ぐらいプロスペロがなにか勘ぐって濡れ衣を掛けたか追放を強いたか、と予想していたスサーナは、せっかく顔を合わせる機会があったのだからとまとめて名誉回復を申し出られやしないかと水を向けてみる。どうせこの後エレオノーラやレオ王子に切々と勘違いを訴え出る予定なのだ。

 それに対してミッシィは口元だけを曲げて笑った。


「んー、それは無理かなー。大体プロ君の物言いも合ってるもの。やっぱり、ね? いろいろあったのよ。逃げるにも先立つモノも必要だったし。」

「さ、然様でしたか……」


 ――少なくとも金品略取? 泥棒? は濡れ衣じゃなかったのかあ……

 そう遠い目になるスサーナに、うんと伸びをしたミッシィが肩をぽんぽんと叩く。


「そぉねぇ。アナタに迷惑かけるのも良くないし、アナタにはちょっと話しとこっか。よくあるつまんない話よ。最初は、ほら、ちょっと見栄えがよく育った貧乏人を買い取ってどこどこの坊っちゃんを垂らしこめ、っていう――」


 話しだしたミッシィの向こう、扉からノックの音が響いた。まず三度。それから二度。間を空けて四度。

 ミッシィはふっと口を噤み、ベッドの上掛けをはぐとスサーナの上にばさっと覆い被せた。


「ひゃっ!?」

「あ、ごめんなさいね、ちょっと寝てて? 静かにね」


 そう言ってからあぐらをかき直し、扉に向かって大声を上げる。


「開いてるわよ! 勝手に入ってきたらいいんじゃないの!」


 スサーナはマットレスと上掛けの合間に挟まって扉が開く音を聞いた。靴音が続く。

 ――この靴音の感じ、男の人でしょうか。私が居ると不味い人?

 靴音はベッドの前で立ち止まり、男性らしい声が響いた。

 ミッシィがぐっと布団の上から寄りかかってくる。


「何だその格好は。ここで客を取ったのか?」

「あらぁ、駄目だったかしら? そのための部屋でしょ、ここ。決まった人だけ、ってのも良くないでしょ?」

「ふん。シンミア、あまり勝手な行動は取るなよ。……すぐに次の客だ。屋敷まで行く。確認して支度をしておけ」


 ――シンミア? 『手乗り猿』?


「あーはん、そお。ここは使わないのね? じゃ、ルチェルトラ、出ていってくださらない? 女の着替えで興奮するタチっていうなら別だけど、違うわよね?」

「恥ずかしげもなくそんな格好を晒しておいて淑女気取りか?」


 スサーナは布団の向こうから漏れ聞こえる会話にそっと疑問を覚えた。

 シンミアもルチェルトラもヴァリウサの言葉ではない。近隣諸国の単語をスラングや愛称として使うことは珍しくもないが、なんとなくの違和感がある。「シンミア手乗り猿」は活発な女性の愛称に使わないこともない単語だが、声色も語調もなんとなくたのしく愛称で呼び合う相手という感じはしなかった。

 ――ルチェルトラなんて、「蜥蜴」ですよね……響きは格好いいですから愛称に使うこともありそうですけど……

 シンミアもルチェルトラもヤロークあたりの言葉だ。

 スサーナは顔の側に上掛けの隙間があるのをいいことにそっと目を凝らし、ベッドの横に立った相手を覗き見ようとする。

 ――この角度なら気づかれないでなんとか顔が見えるような。見てどうするとも思いますけど、なんだか変な感じですし、気になる――


 そして会話の相手を布団の隙間から覗いたスサーナは驚きの声を反射的に上げかけたのをそっと飲み込んだ。


 さほど特徴のない痩せた男性。服装もそれなりに富裕な市民か、休みの日の使用人という感じで特徴がない。

 しかし、スサーナはその男性の顔に妙な見覚えがあった。


 ――知らない……人ですよね? これまで一度も会ったことがない、はず。

 それなのに、なぜ。スサーナはとくとくと早く打ちだす心臓を宥めた。

 それなのになぜ、夢の中に出てきた相手にそっくりだなんて思うのだろう。

 ――いえあの、偶然だとは思うんですけど……。ホラーめいた夢の中に出てきた人にそっくりだから怪しい、だなんて最大級にどうかしているいちゃもんつけだとは思いますよ……?


 そう思いながらも先程の一瞬で見た不吉な夢の登場人物によく似ている、というよくわからない不吉さは消せぬ。

 スサーナは息を潜め、彼がまた数言ミッシィと会話して部屋を出ていくまでピクリとも動かずに気配を消していた。



 扉が閉まり、5分ばかりしてからミッシィが寄りかかっていた姿勢から動き、上掛けが剥がされる。


「ごめんごめーん、他所の子入れてるって解るとうるさい奴だったから! あ、それでね、ここでゆっくり休んでて貰ってもいいかなあって思ってたけど、用事の時間、早まったみたいなのよね。ごめんなさいねーー。」


 彼女はそう言うと立ち上がり、クロゼットや旅行かばんから幾つも衣装を引き出して寝台の上に投げた。


「あの、ミッシィさん、ご用事って……」

「んー? 」


 問いかけたスサーナにミッシィは赤絹の長靴下をぐっと太ももまで引き上げながらベッドに投げた衣装を示して微笑む。


「イイドレスだと思わないー、これ? お貴族様の用意するやつとはぜんぜん違うけど」


 デコルテどころか胸を半分以上露出する形の胸元に、二の腕に引っ掛ける形の袖とぐっと締めた腰。あやうい胸元の前には大きなリボンを飾るデザインのようで、胸元を隠すのはほとんどこのリボンに任されている、という気もする作りだ。動きにつれて揺れることを思えば、男の目をどれほど惹くことだろう。

 つまり、スサーナは服のデザインや流行、という形でしかほとんど知らないが――高級娼婦達が身につける流行りのドレスのようだった。


「最新流行の型ですね! ミッシィさんは胸の形がおきれいですからとても映えそうです」


 とりあえずそう答えたスサーナにミッシィは豊かな胸を張る。


「んっふっふ、そうでしょー。あとこれ、高いネックレスを着けさせたくなるデザインらしくて、それがイイとこなのよね。というわけで、高いネックレスを気前よく買ってくれそうな素敵なパトロン様の所に行くの」

「なるほど、ええとご武運をお祈りします」


 言いながらスサーナはそっと疑問を胸に浮かべる。

 ――高級娼婦? にしても……多分罪に問われて逃げておられる……んですよね? もしかしたらあちらの裁量で罪にも問わず、探してないのかもしれませんけど。でもプロスペロさんは見つけたらいじめに来そうなのに。なんでわざわざこんな所で……。いえ、プロスペロさんが本気の節穴で絶対気づかれない自信があるのかもしれませんけど。


「ええと、でも、大丈夫ですか? プロスペロさんに見つかったりしたら酷い目に遭わされたりするんじゃ。」

「ふふ、心配してくれちゃう? でも大丈夫。三年あれば女は変わるのよ。背も伸びたし体型も変わったの。髪型も髪の色も違うものね。女の子の顔を見られないクソ真面目君にはバレないバレない」


 ――これはその、節穴確信寄りかなあ……

 問いかけにどうとも判断できそうな返答を返されてスサーナは少し遠い目になった。

 なんとなく何かが不穏な気がして、それがうまく形にできない。

 ――貴女の目的はなんですかとかそういうことを聞ける仲でもなし。……第一悪い夢に出てきた人とそちらのお知り合いの方が似ているから、なんて理由でそんな事を言われても困りますよねえ。


 普通に稼げる場所に出てきて糊口をしのいでいるという可能性もあるのだ。というより、普通に考えればそれでしかない。少し変わった愛称で……多分取り持ちの男性と呼び合っている、などというのは怪しいうちに入るかと言うと微妙である。


 その間にもミッシィは衣装を身に着け、スサーナが折ったものよりもずっと最新流行で過激なデザインの――前世で言う厚底サンダルに近く、足の甲と指をほとんど露出するものだ――厚底靴を履く。


「じゃあアタシは出るけど……あ、ねえ。実はね、アナタに一つ大事なお願いがあるのよ。……助けたよしみだと思って聞いてもらえない?」

「私に出来ることでしたら……」


 彼女はスサーナの前にぺたんこの木靴を一つ置くと、真剣な目をして手を取った。


「あのね、明日、オルランドがどこにも出かけないようにして頂戴。ベッドから出られないように甘えて、疲れて寝ちゃうようにしたらいいわ。彼、押しには弱いからきっと上手くいくはずよ」

「ふえ」


 スサーナは言葉の意味を考えて、それからあわてて首を振った。


「えっと、あの、ですから私。オルランド様とは何も……」

「そう、じゃあ初夜ねぇ。……これをあげるわ。飲ませちゃえば絶対イヤって言わないはずだから。後は夜まで……ううん、朝まで相手してあげたらいいの。簡単よね?」


 手の中に押し込まれたガーゼの包みからは嗅いだことのある匂いがする。

 ――強壮蘭サテュリオンを使った薬だ、これ。

 明らかにちょっとやそっとのお値段の品物ではない、ということはなんとなく理解できる。


「あの、どうして……」

「どうしても。絶対。お願いね」


 それからさっと扉から首を突き出したミッシィに部屋の外に押し出される。

 彼女はもう一度お願いね、と言うと色気たっぷりの仕草で廊下を去っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る