第190話 災難の化身、もしくはおぞましいもの 2

「この――!!」


 ジョアンが息を呑むと、オビの足首に巻き付いたに、杖にしようとしていた枝を突き立てる。


「オビから離れ、うわっ!」


 たたらを踏み、魔獣側に転びかけた彼を後ろに居たスサーナが慌てて掴み、支えた。

 杖は肉に吸い込まれるように埋まり、触腕らしき部位に沿って強く引っ張られたのだ。


「ウ、フゥ、フ、フゥ――」


 魔獣が身を揺らした。

 ずっ、と杖は吸われるように本体の方に流れていく。同時に、ずる、と引っ張られかけたオビの手や袖をジョアンとスサーナは慌てて掴み、ジョアンは半ば反射的に反対の手にした松明でオビの足に絡んだ部分のすぐ横の肉を叩いた。


 流石に火は苦手だったのか、おぞましい肉がびゅっと縮み、オビの足から一時離れる。


 希望を見出した表情でジョアンが叫んだ。


「オビ、走れ!」


 ベルトからむしり取った革袋を魔獣に投げつける。酢と唐辛子の混ざった刺激臭。スサーナがオビの手を引き立ち上がらせる。


「ジョアンさんも!」


 そのまま松明を手に立ち向かいそうに見えたジョアンの袖をスサーナは有無を言わせず引き、先に走らせた。


 ジョアンがオビに肩を貸し、その後ろをスサーナが走る。

 も子供たちの後を追ってずるりと首を伸ばし、大きく伸びては縮むやり方で這いずりだしたが、移動する速度はさほど早くはない。せいぜい大人の男性が早足で歩くほどで、足をくじいたオビを支えながら走っているとはいえ、だんだんと距離が開き始めた。


「逃げ切れるぞ、オビ、頑張れ! 火も怖がるみたいだしなんてことない!」


 ジョアンがオビを叱咤激励する。

 このまま逃げ切れるのだろうか。スサーナは少しホッとしつつなんとなく腹の底にじわりと冷たいものが溜まったような心地がしている。


 視線、と言うべきだろうか。少しづつ離れていく死肉の塊のような魔獣から、強烈な「見られている」という感覚を背に感じていた。


 数瞬。

 ばちばちっ! という感電でもしたような音とともに青白い閃光が自分の背側から走ったのをスサーナは見る。

 思わず走りながら振り向いた彼女は少し離れた地面に、半ばで千切れ、断面を焼け焦げさせつつびちびちとのたくり踊る生白い触手を見た。


 本体ではなくその触手が直ぐ側まで来ていたのだと悟ってスサーナはひやりとする。

 腕にはめた護符がまるでカイロか熱を持った電子機器かという具合に熱い。

 ――これ、お守りの効果です? 普通のものはこんな風にならなかったのに……

 明確な害意の差なのか、それとも魔獣だからそうなるのか。スサーナは足を止めず護符をなぞる。


 千切れたのはスサーナに巻き付こうとしたらしい僅かな部分で、半ばから焼け焦げた触手の残りがずるずると本体に吸われていくのが視界の端に一瞬映る。

 ――うぐ、うどんが食べられなくなりそうっ……でも、私が殿しんがりに居ればこれなら、なんとか……

 呑気といえば呑気な感想を一瞬脳によぎらせ、スサーナは袖の上から護符を掴み、走る速度を上げた。


 子供たちは必死に走りつづける。

 オビのふくらはぎの傷が開き、鮮血が流れ始めるが抑えている暇はない。ジョアンはオビを励ましつつ半ば担ぐように肩を貸して地を蹴った。


 走りながら、スサーナは胸騒ぎが止められずに居る。

 この短い間だけでもそれなりに距離は開いた。後ろに視線を流せばまだ魔獣は見えてはいるが、追う速度が上がったという感じはしない。もう少しこの速度で走り続けられればきっと撒けるだろう。また後ろから触腕が伸ばされてもきっと後一発や二発で使えなくなる、ということはないはずだ。

 それなのに、じいっと見られている、という感覚と不吉な胸騒ぎが消えない。


 刹那、前の方でジョアン達が姿勢を崩した。


「ジョアンさん、オビさん、大丈夫――」


 すぐに距離を詰められるほどではない、命取りではない。

 そう判断しつつ、起こさないと、とスサーナは駆け寄りかけ。


 オビが魂消るような悲鳴を上げた。

 その片足、傷ついた方の足に土中から生えでた生白い触手が絡みついている。

 動きを止めたスサーナの前、オビの足から点々と落ちた血の痕を残した地表から、蝋の色をした指か隠花植物の蔓のようなものがほそぼそと土を割って幾本も伸び、ひらひらと死者の手の手招きのように揺れている。


「なんっ……」


 ジョアンが呆然と声を上げた。


 島の子どもたちは知らないが、魔獣について語られるもののうちには「魔獣は血を視る」というものがある。視界の悪い真夜中でも、水中でも、実際に視野が遮られるような場所であっても、鮮血を流せば魔獣はそこを的確に察する、という伝説。

 ――俺の血を目印にしてるんだ。それで土の中から追っかけてきてたんだ。

 オビだけが今起こっていることを理解し、吐くような後悔と恐怖に身を捩る。


 一瞬後。地表が割れ、丸太のような青白い触腕が現れる。それは一瞬後にたわんで強く引き戻った。

 オビが跳ね上がりながら引きずられる。


「あっ、う゛わぁぁぁぁーっ!」


 スサーナがとっさに飛びついてオビの体を掴んだ。

 ――発動してっ!

 自分も引きずられながら、死人の指の集合のような細い触手の寄り集まりの中に腕を叩きつける。

 数本の触手が絡みかけ、焼き切られて跳ね上がる。

 ――やっぱり、これ、焼けるっ……!

 しかし、それでは丸太のように太い主枝までは焼くのに及ばない。


「ウ、フ、フ、フゥ――」


 這うよりずっと高速に、土中に埋まった触腕を支点に本体を引き寄せる形でうねり、近づいてきながら魔獣が虚ろな笑い声のような音を上げた。


「もう、少しっ……!」

 ばちばちと青白い閃光が湧き上がる。

 オビに抱きつき、横手を高速で行き過ぎていく木の幹に向かって頭を差し出すという荒業で護符を発動させたスサーナは――創り手がそれを知ったら頭を抱えるに違いない――足を突っ張って無理に制動をかけ、オビの足に絡んだものを焼きながら引き離そうと試みた。



「畜生、このっ……!」


 ほぼ同時に、一瞬の呆然から立ち戻ったジョアンが松明を構えて魔獣に向かって突進する。


「っ、ジョアンさん、駄目!」


 下手に近づいちゃいけない!

 そうスサーナが上げた声は遅く、ジョアンは松明を槍のように構え、魔獣の顔のように見える凹凸の中、口のように見える穴に突き出した。


「ウ、ア、ォ――」


 声らしき音がくぐもる。


 オビの足が触手から離れ、スサーナが押す動きに従ってオビがヨロヨロと駆け出す。

 それはほぼ同時に起こり、たぶんそれで少しジョアンの注意は後ろに逸れた。


「効いた……! ざまみろ! 焼け爛れやがれ――!」


 ジョアンが毒づきかけ、途中でその言葉が止まる。


「ジョアンさん!」


 スサーナが悲鳴を上げた。


 ジョアンの背、やや腰に近い位置から先がよじれ尖った生白い触手が生えだしていた。

 それこそ槍のようなつくりの触手の周りからじわりと赤黒い色が滲み、布地に吸われて色褪せながら広がっていく。


「か、は――」

「ジョアンさん!」


 火が嫌いだ、ということは間違いなく正解だったのだろう。突き刺したジョアンを持ち上げた魔獣はそのままうるさい虫でも払うように、手にした松明ごとかるがるとジョアンを投げ捨てる。


 嘘みたいにジョアンの体が飛んだ。

 あまりのことに息を呑み、ジョアンのもとに走るべきか、オビが走って逃げる間前に立ちふさがって妨害すべきかの判断が一瞬遅れたスサーナは、目の前の光景に呆然と固まった。


 魔獣が、跳ね上がる。

 まだそれでもスサーナとオビのいた場所からは10m以上は離れた場所に居たは、強く引かれた芋掘りの芋が蔓に従って跳ね上がるように大きく跳ねたのだ。


 避けようもなくスサーナとオビは巨大な魔獣の下敷きになる。

 魔獣が伸し掛かってくる衝撃と同時に護符が発動し、青白い光が体の周りを取り巻くのをスサーナは見た。


「オビ、さん……!」


 護符が発動したとはいえ、大質量に地面に押し付けられることまでは護符には防げないようで、体が動かせない。

 ほとんど首まで魔獣の下敷きになったスサーナは少し先で半身を魔獣の下に入れた形で倒れたオビを呼んだ。


「う……」


 ――良かった、生きてる。

 オビが呻くのを聞き、スサーナはとりあえず圧死はしていなかったことを確認する。

 魔獣は一体何をするつもりなのか。スサーナは遮二無二魔獣の下から出ようとしながら焦り、その回答が目の前にあるということに気づく。


 足だけが魔獣の下にあったはずのオビがずるずると魔獣に吸い込まれていく。

 そして、自分も。


「嫌!!」

 スサーナはもがいたが、すぐに視界が全てぬめる灰白に占拠された。


 地面に押し付けられていたはずの体はどうやら魔獣の中に吸い上げられたらしい。今や周り中すべてを魔獣の肉に囲まれている。

 死臭に似た湿った生臭さが鼻を襲う。


 体の周りを光が覆っているのが僅かな救いだった。


 スサーナを中央において扁平な卵型をして護符の防護が働いているようだ。光の薄膜一枚を隔てたようにして魔獣の内側が見える。スサーナの視界には、まるでカタツムリの裏側をガラス越しに見たような光景が広がっている。

 光に触れた部分ははぜ、焼け縮むような様子を見せたが痛みなどはないのだろうか、排出される様子はない。

 ――食べられた……?

 消化などはされていないようだが、どうなるのか。スサーナはなんとか肉をかき分け移動しようとする。

 ――どのぐらいお守りは保ってくれるか……

 お守りを嵌めた腕を意識する。先程から熱を持っていた護符は、今やチリチリとした痛みを伴うほどの熱を持っていた。


 護符を腕から抜き、袖の上から手に絡めて持つ。

 腕にはじんじんとした痛みが残ったのできっと低温やけどをしているだろう。しかし、ともすればパニックに陥りそうな頭をなんとか引き止めるのにはむしろそれは有用だった。


「オビさん……ジョアン、さん……」


 ――なんとか、なんとかしなきゃ。

 なんとかしなきゃ、きっと二人共死んでしまう。

 串刺しにされたジョアンの姿が浮かぶ。広がる血。

 もしかしたら、もう、という思考をまだ生きているはずだと打ち消す。

 スサーナは恐ろしさと閉塞感に泣き叫びそうになる気持ちを抑えながらオビが居ただろう方向に向けてもがいた。


 魔獣の肉はどうやら非常に柔らかく、体内は流動性のある硬めのゼリーのような状態になっているようだった。

 きっと普通に足を動かしたりしても徒労だったろうが、護符に守られたスサーナは泡の中に封入されたように肉の中に浮いた状態になっている。

 腕を一杯に伸ばしてそちらに倒れ込むことでなんとか少しだけ移動は叶うのだと、試行錯誤した後にスサーナは理解した。


 二度。三度。体を投げ出すように移動する。

 吸う息が生臭くて、一度意識しだすと一息ごとに吐き気が襲ってくる。

 それなのに、体を倒すごとに肩で息をしなければいけないほど息苦しい。

 ――そう、か。酸、素……。

 護符が魔獣の肉に直接触れずに居させてくれるからといって、魔獣の体内に違いない。不自由なく呼吸できるほどの酸素があるわけではないのだ。

 権能とやらは酸欠には対応していないのか、となにかに八つ当たりしながらスサーナはもがく。

 ――はやく、しなきゃ。はやく。はやく、でなきゃ。

 一緒に取り込まれたオビも障壁付きのスサーナでこうなのだから、長くは保たないだろう。それに、ジョアン。早く手当をしてこの場から離さないと。でなければ死んでしまう。


 数度それを繰り返した頃、障壁に隔てられた肉の中に、オビの服の一部が現れた。

 なんとかそれに手を伸ばし、障壁の中に引きずり込む。


 彼はぐったりと脱力し、よくわからない粘液に覆われてはいたがスサーナが障壁の中に引きずり込むと、ひゅ、と息を吸い、ごほごほと苦しげな咳をする。

 ――いき、てた。

 少なくともぐちゃぐちゃに潰されてもいなければ、まだどろどろに溶けたという様子もない。


 スサーナはふらつきながらもオビを抱え、呼吸を阻害している顔の粘液を払い落とそうと、ハンカチを求めてポケットに手を入れた。


 指先が何か硬いものに当たる。

 半ばぼんやりとハンカチと一緒に掴みだしたのは、サウンドドロップのような小さな道具だった。


 ――あ、これ。そういえばポケットにいれましたね――

 オビの鼻と口から粘液を拭き落としながら、スサーナはクーロの言葉を思い出す。

 確か、ヨドミハイが嫌う周波数の音波を発生する、だったか。


「もしか、したら、効かないか――」


 この魔獣は明らかにヨドミハイではないが、魔獣と言う点で共通項はある。もしかしたらこの魔獣もその音が嫌いかもしれない。

 そうしたら、体の中で嫌いな音が響いたら、それを排出しようとしたりはしてくれないだろうか。


 出来ることはあまりに少ないのだし、やったところで損はない。

 スサーナは腕を一杯に伸ばし、なるべく魔獣の肉に押し付けるようにしてブザーのボタンを押し込んだ。


 耳をつんざくような音が響く。

 キィンとした耳鳴りを感じながらスサーナは肉壁を眺め――


「やっぱり、無理か――」


 苦笑する。

 何の変化もない様子に苦笑しながら意識を取り戻さないオビを抱え直し、ふらつきながらも多分外皮のほうだろう方角をめがけてもがいた。



 瞬間。ひゅっ、と、弦鳴りのような音が響いたような気がしたが、耳鳴りが続いていたので定かではない。


 目の前の灰色の肉が消え失せる。

 ごうっと風が吹き込んできて、空気が顔の周りに満ちたのを感じた。


「ふ、あ――」


 ぼやけた視界に森が見える。一体何が起きたか理解しきれずいるスサーナの耳を声が打った。


「いた! お嬢さん、大丈夫か!!」


 体がぐっと斜め上に引き上げられる。


「ネルさん……?」


 声の主を呼んだスサーナの耳に、また別の声が届く。

 憮然とした、やや高圧的な声色。同年代ぐらいの少年の声。


「制御が甘い。スサーナさんまで傷つけていたらどうするつもりだった? 障壁があったから良かったようなものの。付与品かな? 月の民に感謝するんだな。」


 スサーナはぼんやりした頭で瞬きする。

 はて。居るはずのない人物が見える。実は昏睡していて夢とか幻覚を見ているのだろうか。


「れ、レミヒオくん?」

「はい、お久しぶりです。すぐ終わらせますから少々お待ちを。」


 スサーナを腕一本で持ち上げた黒髪の少年はにっこりとにこやかに笑い、腕の動きだけでスサーナ達を魔獣の中から抜き出すと腕を振って投げる。


 わあ、と姿勢を保とうとする間もなくドサッと誰かに受け止められる。一瞬遅れて飛来したオビが空いた腕一本でガッと横で抱えられるのが見えて、見上げると心配げな顔のネルに覗き込まれている。


「ネルさん」


 一体何が何だか分からないが、どうやら助かったらしい。

 その証拠のように障壁の光が消え去ったのを透かし見て、スサーナはなんとかようやく大きく深呼吸をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る