第189話 災難の化身、もしくはおぞましいもの 1

 オビは大木の枝の上で幹に張り付いている。

 かちかちと歯が鳴って止まらない。どこかで捻ったらしい足首が腫れ上がってずくずくと鼓動している。棘のある藪で傷つけたふくらはぎから滲んだ血で靴下がじっとり濡れてこわばる。

 がむしゃらに登った時に木の皮で傷つけた爪の間がじんじんと痛む。


 アレはどうやら木には登れないらしい、木の根元をぐるぐる何回も回って、それからどこかへ行ってしまったのを見てそう判断した。

 他の二人はどうなったんだろう。そう考える。生きていればいいが、もしかしたらアレに食われてしまったのかもしれない。


 涙をこらえながら考える。生きて無事に帰っていれば待ってさえいれば助けがくるかもしれないが、もし駄目だったのなら、ここで木の上に居てもきっと誰も来ない。アレが木に登ってこないとしたって、ここで弱るのを待って襲ってくるかもしれない。

 アレがどこかに行っているうちに、一か八か、逃げるべきだ。夜になる前に。


 だが、恐ろしい。

 あんなおぞましい物がこんな場所にいるなんて思わなかった。まるで、悪い夢のようだ。

 指の隙間に刺さった棘が、藪で割いたふくらはぎが。挫いた足首が傷まなければ夢だと信じていたかもしれない。


 彼はしばらく前のことを思い出す。

 目にしたその瞬間、それが一体何なのかオビには理解が出来なかった。

 木々の間にぼってりと盛り上がる生白いもの。

 一体何か、いつからそこにあったのかも解らず、しばらく注視したあとで、ずるり、とそれがこちらに進んできたことでようやくそれが何かおぞましいものだということを悟った。

 灰白い、まるで死人の肌のような色をしたそれは茹でた芋団子めいた奇妙な透明感を持っていて、これまた芋団子、肉を混ぜた芋団子のようにその側面に何かが浮き上がっていた。


 

 オビにはそれが叫びの形に口を一杯に開いた人の顔のように見えたし、その横に肉を透かして突き出して見えるものはもがいて伸ばした形の人の手のひらのようにしか思えなかった。


「あ……あ……」


 残りの二人にそれを知らせたくて開いたはずの口からは意味がある音は漏れず、ふっとガスパールが振り向いたのは、それがまるで大きなナメクジのような形に首らしい場所を伸ばして、ずるり、と、また近寄ってきた時にカサカサ鳴った落ち葉の音と、それから、


「ウ、フゥ、フ、フゥ――」


 ナメクジの首先のような場所に浮かび上がった、小さい子供が描く絵か、出来の悪いお祭りの仮面のような、滅茶苦茶にバランスの狂った顔みたいなものが立てた風の音か、笑い声のような音が耳に届いたからだったのだろう。


「うわぁぁぁぁっ!」


 ガスパールが叫び、まろびながら走り出したおかげで凍りついたようになっていた体が動いた。

 呆然とそれを見上げていたランドのほうへそれが動いていったのを知覚しながら、それを止めよう、なんてことは情けなくも思いつかなかった。


 それから離れる方向にめちゃくちゃに走って、座り込んで息を切らせて。

 ようやく、残り二人は大丈夫だっただろうか、と後ろめたく考えるぐらいに息が整ったところで、また、


 フ、フ、――


 音の安定しない笑い声のようなあの音が響くのを聞いたのだ。


 それが自分に近づいてきているのだ、ということはなぜかはっきりと分かった。

 木々の間からちらりと見えた生白いものが近づいてくるのを見て、動かぬ足を叱咤して、手近な大木の上にがむしゃらに登り上がった。

 樹の下までやってきたそれは、どうやら木には登れないらしくて、オビにとっては永遠のように感じられる間、木のまわりをズルリズルリと周り、出来損ないの粘土細工みたいな顔をぐねぐねと揺らしながらこちらに向けていたようだったが、いつの間にか視界から消えていた。


 逃げるべきなのだ。オビはもう一度自分を鼓舞する。

 魔獣は夜になると活発になるという。きっとあの魔獣だってそうだ。

 アレが視界のうちにおらず、まだ日がある今なら行きに来たように走れば逃げ切れるかもしれない。


 ああ、でも。

 もし、木から降りて、周りにまた登れる木の見つからない場所でまたあの声がしたら?

 今度はうまく逃げられるだろうか。そう思うと体が震える。

 足はくじいていてそう早く走れない。なにより、アレが近づいてきているのがわかって、冷静で居られる気がしなかった。

 おそろしい。熊や狼と出会った、というのでもきっと恐ろしかったろうし、命の危険があるということも同じことだったろう。だが、獣に喉を食い破られるよりもあのおぞましさがずっと恐ろしい。


 きっと、アレに捕らえられたら。あの横腹に浮かんだ苦悶する顔がきっとそうだったように、すり潰されるのか、溶かされるのか。もしかしたら窒息だろうか。アレの中で動けないまま、長く、長く苦しんで――そうして、死ぬのだ。きっと、生きている事に何の希望も抱けないようになってから。



 どれほど枝の上で震えていただろうか。

 疲労と限界を超えた恐怖でぼんやりとなったオビの耳にかすかな声が届いた。

 一瞬、が戻ってきたのではないかと身をこわばらせる。

 だが、そうではないようだ、ということはすぐ分かった。


「オビ、オビ! どこだ!!」


 ジョアンの声だ。

 一瞬、あの化け物が人の声を真似ているのではないか、と恐れたが、そうであってもあの場に居たわけではないジョアンの声を真似られるとは思えないし、オビの名を知っているとも思えなかった。

 それに、遠くの木々の間にちらちらと揺れたのはおぞましい白いものではなく、オレンジ色の光、火のように見える。


「オビ! 返事しろ!」

「っジョアン!!」


 叫ぶ。

 遠くの火ははっと動きを止め、それからがさがさと草を踏み分ける音とともに近づいてくる。

 やってくるのはまごうことなき人影で、近づいてくればそれはこの秘密の草刈りには誘わなかったジョアンで、なぜか後ろには硬い表情のスサーナも着いてきている。


 オビは喜びで泣きそうになりながら枝の上から二人に手を振り、彼らが自分に目を向け、ホッとした顔をしたのを見て、もどかしく痛む足を庇いながら、もたもたと枝から降り、木の幹を滑り降りた。


「ジョア、うぉっ、つっ!」


 大木の幹から飛び降りざま、片足にばかり掛けた体重を柔らかい地表が支えきれず、横ざまにべしゃりと転ぶ。


「オビ、何やってんだよ」

「怪我してらっしゃるんですか?」


 呆れた感じのジョアンの声に照れ笑いをして、オビは腕を付いて起き上がった。

 手のひらをついた地面も妙にぶわぶわと柔らかい。


「いや、足をくじいてるだけ。ここ変に柔らかくて……」


 スサーナに応えながらなんとなく訝しく思う。

 ――さっき登る時、ここってこんなだっけ? そりゃ、湿地の側だから柔らかくてもおかしくないけど――


「うわ、挫いてるだけじゃなくて、ひっどいなふくらはぎ。ズボン血まみれじゃないか。ランドもガスパールもそこまでじゃなかったぞ。……立ち上がれるな? とりあえず肩貸すから帰るぞ。手当はそれから。えーと、この枝杖になりそうだな。」


 杖になりそうな太い枝を拾い上げたジョアンがそのまま手を差し出してくる。オビはその手を取り――足元がぐっと後ろに引き込まれるのを感じた。


「え?」


「オビ、さん、それ」


 スサーナがこわばった声を上げる。お化けでも見たような顔にオビは自分の後ろ、足元を振り向く。


 前に進もうとしながら足元を見ると、ただでさえ痛む足首に、が巻き付いているのが見える。

 なにか。死体みたいに灰白けた肉質のもの。


 舌打ちしたジョアンが掴んだ手を強く引く。足の後ろの土がぼこぼこと盛り上がり、ぬらりとした白っぽい肉が現れる。


「ウ、フ、フ、フゥ――」


 土の中からナメクジがいっぱいに伸ばした首みたいな肉塊が現れ、ぽかんと開いた口みたいな場所から、確かに、あの笑い声のような音が響いた。


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