第191話 変容、もしくは変容のように思われるもの 1

 あるじと、一応見知った顔の学生の無事――学生オビの方は足の打撲と骨が数本やられていたが、命に別状はない――を確認した後にネルは魔獣に向き直る。


 普通ならこれほど街の近くに出るとは思えない魔獣だ。

 混乱の極みにあったヤロークであってもこの類の魔獣が街側に出たとは聞いたことがない。もし万が一現れたなら騎士団総出で対処にかかるようなものだろう。


 それを、彼の指導役である少年は十分に余裕を持って相手取っているように見える。

 少し面白くなく舌打ちする。それなりに刃の扱い方には慣れているネルだが、このような魔物を相手どれるなどとは思ったことはない。


「なにをしてるんです」


 魔獣の動きを大きく飛んで避け、太い触腕を切り飛ばした指導役殿から声がかかった。


「見てないで手伝ってください。やり方は教えたはずですが?」

「とはおっしゃいますがね、こんな魔物――」


 言いながらネルは肌の下、見えぬ場所を通した糸を意識する。

 深く呼吸し、全身に張り巡らされたそれに血潮が巡っていくさまをイメージした。


「基本は何でも同じです。重くて力が強い分当たったときだけは怖いですが、殺気がわかりやすいだけ人間より楽だ」

「簡単に……言ってくれるっ!」


 魔獣に向けて駆ける。

 彼の方にも飛んだ触手を避け、足元から盲撃ちだろう生え出し方で突き出した触手を踏み込んで潰す。


 側面に回り込むと、肉に埋まった死体を杭の代わりに、掌底を叩き込んだ。


「ア゛――」


 破裂音とともに魔獣の肉にびりびりと波紋が広がる。

 魔獣が身を捩り、土中に生え広がらせていた触手が縮む。

 この魔獣は「根」を張るタイプだ。総じて大地に根を張る不定形の魔獣の駆除はやりにくい。先程何事でもないように指導役が言っていたのを反芻する。

 セオリーは、大地と結線する余裕を奪うこと。


 同時に、背から生えては伸ばされる触手を避け、あるいはその硬質化させた先端を足場にしながら指導役ヨティスが跳んだ。

 超自然の真紅の爪を長く伸ばし、触手の合間を縫って魔獣の背を引き裂く。


 のために他所に逃がすことも出来ずにそこに留まっていた核が露出する。

 続いて生命の危機を察したか殺到する触手を反対の爪で薙ぐ。ネルのための攻撃の死角が作り出された。

 ネルが飛び込みざまに力をまとわせた手刀を核に突き込む。


 魔獣は震え、揺れ、痙攣すると、だらしなく広がった死肉へと変わっていった。



「いや、手数の多い化け物は面倒ですが、二人いれば楽になるものですね」


 ヨティスが笑う。粘液とだらしなく崩れた死肉を浴びたネルは渋い顔だ。


「なあ」

「なんでしょう? 殺せるということはこれで分かったと思いますが。」


 自分に花を譲ってくれたのは有り難いはずなのだが、ネルは身ぎれいなままでスサーナの方へ歩いていくレミヒオヨティスにそっと突っ込まざるをえない。


「……もしかすると、汚れたくなかっただけなんじゃないのか」

「それは邪推ですよ」


 ネルは舌打ちをすると頬に垂れてきた腐肉を乱暴に拭い取った。




 少し離れた場所に置いた彼女のもとに戻ってみれば、少女は地に倒れ伏した血まみれの少年のもとにかがみ込み、必死でその傷を押さえていた。


「レミヒオくん」


 娘は怯えるような救いを求めるような声を上げる。顔色が失せた頬を上げて側に立った少年を呼んだ。


「どうしよう……血が、血が止まらないんです」


 上着は脱がれており、飾り気のない、女子が晒すには問題ないとは言い難い薄手のシュミーズがあらわになっているが、彼女は気にする余裕もないようだった。

 上着はぐったりとした少年の傷をきつく縛るのに使われている。

 その上から数枚のハンカチを纏めて押さえつけ、必死に止血をしているようだったがどんどんとそれが赤に染まっていく。

 それどころか、周囲に散った血の量だけでも相当なものだった。


 ネルは小さく眉をひそめる。

 その少年はよく彼女彼の主と、もうひとりの少女と一緒に行動しているのを見た相手だった。

 きっと、仲のいい相手であるに違いない。


 レミヒオヨティスは少年の側にかがみ込み、容態を見て、そして首を振った。


「ここまで傷が深いと……僕にも、もう、どうしようも……」

「そんな!」


 黒曜石のような瞳が見開かれ、掠れた声で哀願される。

 レミヒオは沈痛に目を伏せた。


「どうにか、どうにかならないんですか、お願いします、街まで……街まで運んでください、お医者様なら……!」

「……無理でしょう。この血では森から出るまでに……。」

「そんな……そんな! 何か……、そうだ、第三塔さんならきっと……!」

「……魔術師ですか。呼べたとして……魔術師がここに来るまでにこの人は保たないでしょう」


 娘はいやいやと首を振った。血の気の引いた瞼が瞬くと大粒の涙がこぼれ、噛み締めた唇から抑えた嗚咽が漏れる。



 何か言ってやることもできず、少し離れてその光景を眺めていたネルのもとにもう一人の同族がそっと歩み寄ってくる。


「あん、終わったか。ガキどもは森から出したよ。……何?」


 彼女は鼻を鳴らして愁嘆場を見ると何か納得したようにうなずいた。


「まだ残りが居たんだ。駄目だったやつが居たわけだね。こりゃご愁傷さまで」

「そうか。黙ってろよ、先輩」

「へえへえ。お優しいことで。」



 絶望的だ、と告げられても、スサーナは止血を止めるつもりにはならなかった。

 ――なんとか、なんとかしなきゃ。だって。

 だってこれは私のせいだ。

 私が、もっとうまく立ち回っていれば。私が、もっと有能なら。

 私が、もっとちゃんとしていたら。

 こんなことにはならなかった。


 死んでしまう。私のせいで。

 頭の中でそう自分の声がする。あまりに当然のように思考はそう帰結して、何度も私のせいだ、と繰り返す。


 手が冷たい。血の気が引いて体が震える。焦燥感ばかり募るのに、何も思いつけない。

 私が代われたらいいのに。代わらなきゃいけないのに。スサーナの思考はそこをぐるぐると往復する。


 ――なにか、何かできないといけないのに! こんな、ただ抑えてるだけしか……なにも出来ない……!

 命が手の間をすり抜けていく気がした。


 ジョアンが震え、咳き込んで血の塊を吐き出す。


「ジョアンさん、ジョアンさん、駄目」


 スサーナは救いを求めて周囲を見回す。


「レミヒオくん、ネルさん……どうしようもないんですか、私、何も出来ないの?」

「お辛いでしょうが……」

「嫌だ……嫌……、レミヒオくん、お願い、鳥の民は人の傷を治すような力があるんですよね? 本で読みました。どうか……私に出来ることだったらなんでもするので……」

「……無理です。僕にも彼にも。それは女手で……」


 言いかけたレミヒオがはたと言葉を止めた。


「いえ……そうだな。本当に何でもすることができますか?」


 意味ありげな問いかけにスサーナは目を見開き、頷く。


「ひ、他人に類の及ばないことなら……なんでも。」


 そのうなずきを受けてレミヒオヨティスはその様子を傍観する女性に向けて鋭く声を上げた。


「エレニ。確か命脈分けのやり方を知ってましたね」


 彼女は片眉を上げ、スサーナの前までやって来る。


「そりゃ知っちゃいるけど……なんのつもりよ。」

「彼女にやり方を。僕らは解説すら出来ませんから。」

「あんた、秘蔵っ子でもやっていいことと悪いことが……いや、違うか。なんなの? この子。伏せ子置いてあったってこと? それとも逸れ?」


 女性が自分を指差し、きつい口調でよくわからない用語を問いかけるのをスサーナは見上げる。

 レミヒオが返答を少し思案する間に、それに応えたのはネルだった。


「俺の係累だよ。妹……みたいなもんだ。」


 女性は納得したように大きく首を縦に振る。


「はあーん。逸れハグレか。んで、この子どんぐらい秘術知ってんの?」

「いえ、何も」

「……ちょっと、そりゃ無茶ってもんでしょ。はぐれもんに第一出来るはずがないっての置いといても、結構な確率で死体が2つになるだけよ? いいの兄ちゃん?」

「……やりたいのなら試させてやってほしい。」


 ネルの言葉にはあーっと面倒くさそうに息を吐いた女性は、スサーナの前にしゃがみこんだ。


 ジョアンの傷を抑えるのに意識を取られていてほとんど話の流れとその場の人間に注意が向けられていなかったスサーナは、初めてまともに相手を認識する。

 黒いウェーブのきつい髪を頭頂部で結び、頭の周りに広げた形をした髪型に、青いアイライン。ぽってりした唇に垂れ目という愛らしい容姿ながら気が強そうな、16か7ぐらいに見える女性だ。首には鮮やかな青帯。


「黒い髪の……ええと、魔法を……使える方、なんですね? ……すみません、お願いします、どうか、助けて……」

「ああん? あー、アタシには無理無理。だって使えないもん。やるのはアンタよ。アタシはやり方を教えるだけ。」


 懇願したスサーナに彼女は首を振り、スサーナに人差し指を突きつけて値踏みするようにジロジロと見る。


「わ、私です……? でも……」

「アタシもね、アンタみたいな逸れ者のお子様に出来ることだなんて思ってないし。でもま、火事場の馬鹿力で一生に一回ぐらいはなんとかなるかも知んないし、きばれば? ま、下手打つとアンタも死んじゃうやつだけどね、これ。」


 ほらとりあえずさっさとする、まず何の役にも立たないその手離しちゃって、と言われ、スサーナは傷を圧迫していた血まみれの手をそろそろと離した。

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