第129話 前途多難の学生生活 2

 教師がやってきたことで、ざわついた教室内の雰囲気はひとまず落ち着く。

 席に着くように指示され、一応なんとなく市内通学組と寄宿舎組でまとまりつつも前の方から長椅子に入り、等間隔に座った。


 前から紙が回される。

 羊皮紙ではなくごわごわざらざらした茶色の厚い紙で、どうやら麻か亜麻のボロ布を利用したものと思われた。


 ――おお、さすが上の学校。安価で軽い紙が普及している……

 少し感動したスサーナだったが、これから配るものと読み上げるものを各自自分で筆記するように、なお、高価なものなので配布する紙はこれだけであり各自工夫するように、と通知されてちょっとがっくりした。日本の学校のようにたっぷり潤沢にプリントが配られるということはどうやら夢また夢のようだ。

 島の講では筆記盤として経木を使ったものだったが、少なくとも今日はその手のものは用意されていないように見える。

 ――まあ、石版に書いて後は暗記しなさいって言われるよりいいですかね……

 学生が授業に際して用意するよう通知されているのは石版と石筆なので、そう言われる可能性もあったのだ。石版は消して書き直すタイプの筆記具なので、いつまでも内容を残しておくことは出来ない。


 スサーナはおとなしく荷物から羽根ペンとインク壺を出し、引っかかりの強い紙に教師の話す注意事項や、羊皮紙で回覧される先の予定やカリキュラムのことなどを書き込んでいく。


 しばらくして教師が一旦教室を出た。スサーナは筆記を終え、ぐっと背を伸ばした。

 見るともなしに横を見る。

 ジョアンはスサーナとほぼ変わらぬ速度で書き終わり、頬杖をついている。


 もう反対を見ると市内通学組の女子がもたもたと筆を進めていた。スサーナの視線に気づいたようで視線がかち合う。

 慎ましく視線を戻したところで、スサーナは彼女にひそひそとした小声で話しかけられた。


「あっ、アナタもう書き終わったの?」

「あ、はい、ええ。」

「ねえ、先生の言ったの書き取れた? ちょっと見せてもらっていい?」

「あ、はい、どうぞどうぞ。」


 スサーナは快く紙を受け渡し、弾んだ声でありがとうと言った彼女がペンを動かすのを眺めた。

 急に手持ち無沙汰になる。


「おい」


 ぽやーっと前の方の他の生徒たちを眺め、おや案外皆書き終わっていないな?などと思っているところに横のジョアンから低い声がかかる。


「はい?」

「……っと。……お前、貴族の侍女なんかやってたのか」

「あ、ええ、はい。講の女の子って大体お茶会に招かれてませんでした? その時にええとですね、向こうの方の条件に合う感じで、雇っていただいたんです」


 なんとなく、同じくヒソヒソ話している生徒たちは所々にいるものの、そこそこ静かな教室で、小声と言っても「髪が黒くて」と言うのは少しはばかられた。スサーナはぼそぼそと端的に説明する。


「あぁ……ふうん。噂だけ聞いた。俺の所は男ばっかだったし」


 ジョアンは一度言葉を切り前を向く。スサーナは横の女の子の進捗状況を確認しにまた横を向き、長机沿いに自分の紙が写されの旅に出ていることが判明したので諦めてまた前を向いた。


「……なあ」


 また声がかかり、スサーナはわずかに首を傾げた。

 ――ジョアンさんも結構手持ち無沙汰なんですかね、これは。

 待機時間だからと言ってあまり活発に私語をするような性格だというイメージはない人なんだけどな、とスサーナは思う。


「はいはい。ちょっと早く書き終わり過ぎちゃいましたかね。」


 ヒソヒソと返したスサーナにジョアンはちいさく目を眇める。

 なんとなく不服の表現かな、という印象を受けたものの、よくわからなかったスサーナが首をかしげると、ジョアンは少し目を逸らし、それからまた抑えた声で言った。


「お前さぁ、ああいうのやめろよ」

「ああいうのといいますと……」

「あのバカとの間に入っただろ。絶対止められるわけないじゃないか。ちょっと考えなくても判るだろ……。なんであんなことしたんだよ。」


 不服の滲んだ声で囁かれ、スサーナはいやあと苦笑した。


「いやあ、すみません……ええと、こう、初日に喧嘩ってまずいじゃないですか……。寄宿舎のみなさんってなんとなくですけど、特待生の方々が多くないです?」


 特待生とは特に優秀という子供を街の有力者なんかが推薦して、学院が受理すれば入学金と学費を免除しての入学資格を与える、という制度だ。

 特に金銭的負担で進学を選択することの少ない庶民の中から有能なものを発掘する、というような意図を持って行われているそうで、貴族の特待生、というのは存在しない。

 というわけで貴族の後押しで入学したスサーナは特待制度からは外れているわけだが、ジョアンは確実に特待生だとスサーナは講の教師に聞いていたし、他の寄宿生たちもなんだかそんな感じはした。

 ポイントは、入学金と学費は全額免除でも生活費は出ない、というところである。


「まあな。そりゃ全員そうだよ」


 ――私、違うんですけどね!

 スサーナは内心そう思いつつ、ですからですね、と言葉を継いだ。


「せっかく学問に来てるのに、喧嘩みたいなことで退学とか停学とかになって勉強できなくなるのってよくないじゃないですか。皆さん凄く頑張って、わざわざこんな所まで来てるのに。」

「まあ……それは……」

「なので、喧嘩はまずいなーと思って、止めないとよくないかなー、と思ったら慌ててですね。……いえ、ちょっとは止められるかなと思っていたんですけど……」


 駄目でしたねー、と言ったスサーナにジョアンはまたふいと目を逸らす。


「だからってさ、やめろよ。お前みたいなちんちくりんのチビ助が下手にそういう事するから怪我しそうになるんだろ。無理だってかれよ」

「ちっ」


 ちんちくりんのチビ助ですと!

 スサーナは微妙に額に青筋を立てた。こちらにちらりと目線を向けたジョアンを睨みつける。


 確かにスサーナはだいぶ小柄で痩せており、二次性徴の気配もまだ薄い。

 しかしそこまで言われる筋合いはあまり無いのではないだろうか。言葉に優しいオブラートを掛けることはどの世界のどの階層であっても重要なことだと思う、とスサーナは憤懣やる方なく考えた。

 ――もしかしたらぐーんと背が伸びてですよ、モデル体型にならないとも限らないじゃないですか! まだ13ですもん!

 発育がいまいちはかばかしくないのは自身でも把握しているので見果てぬ夢ではあるが、まだ諦める気はないスサーナである。


「そ、そこまで言われるほどではないような。成長期ですし……」

「だからって男子に競り勝てるわけないだろ」

「うぐ」


 論点がそこである限りうまく言い返せる言葉は持っていない。完全に正論だった。


「あー、でも、まあ、そういうことなら、うん、ああいう鶏ほどの脳みそもない馬鹿に取り合おうとしたのが悪かったよ。身の程知らずがくそ馬鹿げた理由で人を見くびるのってムカつくんだな」


 ジョアンが自分の羽根ペンの羽の先を手持ち無沙汰そうにむしり、毛羽立っていく羽先から目を逸らさないままでぶっきら棒に言った。


「あ、はい。ジョアンさんもやりたい勉学があってこちらに来てるんですから、あんなことでフイにすることはないですもん。」

「法学」

「はい?」

「俺は法学をやる」


 法学はここでは神学と相互乗り入れする部分がある学問で、常民すべてがその規範のうちであるという、神々の言葉の解釈である神聖法。世俗の法律としての慣習法。そして各国の開祖が国基に定めた後に後継者達が積み上げた国家法の三つの法を学び、またその判断と解釈を可能とするためのものだ。


 判例だの先例だの複雑怪奇でややこしく、さらに国家法は実態があるうえにときにブラックボックス化していることもままあり――これを修めた者は法廷を任されることが可能となり、また法律家として各国の上層部に熱望され、大半の貴族たちより上の立場として王に仕えることすら可能であるという。


「凄いじゃないですか」


 スサーナはヒソヒソと熱を込めて言った。


「裁判官とかとても重要なお仕事ですし、王宮にお勤めして王様に助言したりすることもあるんでしょう?」

「まあ。うん、俺は王の側近くだって仕えられるようになるよ。確かにフイにする気はないから、今後はよっぽどムカつくやつじゃなかったら我慢するけど。……だからさぁ、お前も考えなしにああいう時に前に出るなよ。運良く無傷だったけど次運がいいと決まったわけじゃないのは解るよな?大怪我したら学問どころじゃないのは一緒だろ」

「ああー……いやあ、怪我とかはしないと思うんですけどね? 性分みたいなので、どうなるか……」


 スサーナはちょっと予想外な言葉に目を瞬き、困った笑顔を浮かべる。

 反省はしている、反省はしているのだ。

 ただ、やらかすときには動いてからあっやらかした、と思うので始末に悪い。性分というやつなのかもしれない。普段は結構考え深い方だとは思うし、めったにそんなことにはならないとは思うのだが。


「お前、学習能力無いの? 街で一番勉強できるやつなのに馬鹿なの?」


 ジョアンが眉間にシワを寄せ、目を眇めて言った。


「辛辣に過ぎません!?」

「はぁー……もう、忠告して損した。」


 ジョアンはインクの付いていない紙の余白にでんと顎を乗せ、ため息をつくと目を閉じて反応しなくなった。どうやら教師が戻るまで仮眠するつもりらしい。


 スサーナの紙は教室の中をぐるぐる回っているようで、まだまだ手元に戻っては来ないようだった。

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