挿話 寒雷 4

 渡された飲み物はフレーバー入りの温かいミルク、というようなものだった。出てきた後で、ハッとした顔で短く好みに合うだろうかと問われたので、定番のおもてなしとかそういうことはなさそうだとスサーナは思う。

 その後魔術人形だと説明された仮称ロボメイドに第三塔がなにか言いつけるのを聞きながら、それの飲み方にスサーナは少し苦慮する。

 器がどうも保温素材らしく、ちょっと待った程度では冷めないのだ。

 こちらの常識では淑女は飲み物を啜らないし息だって吹きかけない。


「……礼儀を気にする必要はない。飲みなさい。」

「そ、そうでしょうか。ええと」

「思うに、温かい飲み物でなんとかしてもらえるとあとあと保温の心配が減って助かる」

「あっなんとなく気づいてましたけどやっぱりそういう」


「浴槽に湯を張れ」と聞こえたので薄々そうではないかというような気はしたのだ。


 低体温に対する対処として温かい飲み物もお風呂も基本だ。

 その鉄則は世界が違っても一致しているらしい。まあ人体のつくりが基本的に同じようなのでそれはそうだろう。

 つまり、あれだ。救助活動。


「そこまで冷えているわけではないんですけど……」

「その顔色でそれを言う相手には判断力の低下を疑う」


 ――いえまあ、ちょっとまだ爪が紫色のような気はしてましたけど。

 ――知ってる。自発嚥下が出来ない場合は温水胃洗浄を噛まされるんですよこのパターン。

 スサーナはおのれお医者様め、と謎の憤りを浮かべつつ行儀悪くふーふーしてカップの中身をすすった。


 焦がした砂糖の風味を伴なったミルクは甘く、喉をやや焼き加減で下ってみぞおちあたりで落ち着いたのが熱でわかる。鈍い痛みを伴っていた背筋の深みのこわばりが薄れ、スサーナは我知らずため息をついた。

 ――おいしい、気持ちいい。

 ふにゃんとなったスサーナは、少し離れた位置でそちらを見ている魔術師が「それみたことか」としか解釈できない目をしているのを視認し、特に効果的な反論も思いつかず知らんふりをして開き直ることにした。


「……一応お聞きしておこうと思うんですけど、ご用事って本当にあるんですか?」


 都市部降雪遭難者一名救助が主な用事だと言われてもさほどの不思議はない。スサーナはカップの縁から不機嫌な子猫みたいな目つきをして第三塔を見上げた。


「ある」


 魔術師が柳眉を寄せる。なんだか思い出すような疲労したような表情を一瞬浮かべたのでスサーナは首を傾げ、すこし考えてぱっと思いつく限りでの一番気まずい可能性を潰しにかかった。


「数日内にそちらに行こうと思っていた矢先でね、渡りに船だった。」

「……ええと、何かご注文をしていた、ということはないですよね? こう、例えばですよ。何か変な注文がそちらに回ったりとか」

「いや、そちらから何かあって、ということではない。何かまた依頼の予定でも?」

「いいえなにもまったく。」


 目を逸らしたスサーナは話を叩き切り、カップの中に視線を据え、残りを飲み干すのに集中する姿勢を見せた。

 飲み終わり掛けたところで魔術人形が浴室の準備ができたと抑揚のない言葉を上げた。あっやっぱりロボっぽい、とスサーナは微妙に印象を深くする。


 確かにミルクのおかげでみぞおちのあたりと上背部がはっきり熱を持ったのを自覚したので処置に文句を言う気は失せていたが、一応ささやかに抵抗しておく。


「ミルクだけでも十分温まりましたし、ええと。お風呂だと時間が掛かっちゃうような。ご用事の方は大丈夫なんでしょうか。」

「申し訳ないが、準備に少しかかる。君が温まっている間に支度しよう。」


 なるほど効率的だし、子供が支度に移動した主の不在に妙なところに入り込んだり触ってはならないものに触ったりするような行為も防げる。5歳児扱いなのでそのぐらい危惧されていてもおかしくない。

 なんだかスサーナは思いついてしまったその邪推が高確率で当たっているような気がしてならなかった。


「とはいいましても、ええと、その、着替えとか……」

「用意させる。……君のいま着ているものもよければ洗浄させておこう。上がってくるまでに乾くよう取り計らっておく」


 ――うっ、普通にありがたい。

 雪の少ない地域の降りはじめの雪は、綺麗なように見えても埃が多く、ぐっしょり濡れた後にそのまま乾かすと盛大な染みになりかねない。

 スサーナがおうちに帰った時に、髪覆いと服が雪染みだらけだったら、雪の中濡れるまで外に居たことがおうちの人たちに判ってしまうかもしれない。

 それは、なんだか駄目だ。駄目だった。


 スサーナは諦め、ペットトリマーで丸洗いされる猫を見送るような顔をした第三塔が呼び寄せた魔術人形に付き添われて浴室に案内された。



 辿り着いた浴室はだいぶ島のスタンダードとは違うもので、そしてまた予想外のハイテクがふんだんに盛り込まれている様子だった。

 と言っても形状自体は日本の風呂場や、ローマ風呂に比較的近い。

 脱衣所の先に浴槽と洗い場があり、浴槽には湯が張られている。

 島で普段行う、中で湯を沸かして温めた部屋でたらいにお湯を張り体を洗うというのよりもスサーナの好みには合致するぐらいだ。


 それでもスサーナは少したじろいだ。

 ――これ、私使っていいやつなんでしょうか。


 どう考えても塔の中層、上には別の階があるはずだというのに天窓があり、どう見ても自然光に見える光が差し込む――外は今ひどい雪のはずだ――その下に、大理石らしい重厚な石の浴槽が半ば床に埋まって設置されており、壁に設置された多分術式付与具らしいプレートのわずかに手前の虚空からちょっとどうかという量の湯がどうどうと浴槽に流れ込んでいる。


 ――湯船だけでこれ3畳間ぐらいないです?

 水資源を何だと思っているのかという曖昧な感想が浮かんだが、よく考えれば既存の水ではなく彼らは自分の魔力で発生源を賄っているのだから問題はないのか。スサーナはとりあえず気後れとツッコミを棚の上に上げて風呂に入ることにした。温水浴をしろ、浴槽に入れと念を押されたのだから、使わないほうが怒られるはずだった。



 着衣を脱いで魔術人形に告げる。一体が服を持って出ていくのを見送り、もう一体に伴われて浴室に入る。


 オンオフの仕方がわかりやすい作りだったのをいいことに流れる湯を止め、まず簡単に体を洗うことにした。

 人形に渡された瓶入りの甘い花の香のする液体石鹸を泡立てて手早く体を洗い、掛け湯をする。

 肩から掛けた湯が足にかかる頃にはやたら冷たくなっていてスサーナは眉をしかめた。


 つま先から浴槽に滑り込む。

 どうやら確かに自覚以上に冷えていたらしい。

 ――あー、これは、確かにお風呂に入れって言われるかも……

 端っこで座って動かずにいると明確に体の周り数ミリのお湯の温度が冷えていくのがわかるのだ。

 スサーナは水流と落ち着きどころを求めて浴槽の中を彷徨い、最終的に縁に顎を乗せるような姿勢で脱力した。


 ――お風呂あったかいなあ。

 スサーナはぼんやり考える。

 ――あったかいなあ。気持ちいいなあ。いいのかなあ。


 眼の前に人がいて対話をしている状態なら考えることが多くてよかった。

 だが、体を覆う不調の気配もさっぱり消えて、たった一人で熱い湯に指先まで暖められているこの状況は、だめだ。

 ――いいのかなあ。わたし、こんな心地いい事してたら駄目なんじゃないのかな。

 ――あそこに残ってもっとしっかり考えてなきゃ駄目だったんじゃ。

 悄然とした気持ちがじわじわと戻ってくる。

 だから一人になるのは嫌だったのに、と八つ当たり気味に考えてスサーナは顔を伏せた。


 湯船の外にぱちゃんと右腕を投げ出す。

 ――今からでも何も知らないことに出来ませんかね!

 詮無いと解りながらも思考する。

 何も知らなくて、おうちに帰って、お針子の修行をして。徒弟が終わったら正式にお店に雇ってもらって、他の家族のみんなと生活していく。それはとても素敵な想像だった。


 ――でも、駄目ですよね。……まだ、まだ万が一ということもあるかも知れませんけど、そうじゃなかったら。……知ったんだから責任がある。


 自分が血縁ではないのなら、自分はあの家にとって邪魔だ。スサーナはそう思う。

 お店は叔父さんが継いで、ブリダと一緒になって、それでブリダの子が継ぐべきだ。そうなのに叔父さんは妙に遠慮してしまっている。

 それにレーレ叔母さんにもルブナ叔母さんにも旦那さんが居て、おばあちゃんの孫はきっとちゃんと増える。


 失踪した長男の子、しかも混血の、なんていうものがいつまでも居座るのもよく考えたら本当は非合理だった。それでも血縁で家族たちの大事な人の子供だというならそれだけで迎え入れられていてもいいような気がしたし、いることが許されているような気がしていた。

 ――私、ぜんぜんそんなのじゃなかったみたいですけど。

 スサーナはずるずると鼻まで湯の中に沈み込む。嗚咽が湯に溶けて響かずすむのでとても都合がいいと思った。


 家族はみな優しくて、失踪した長男のベンジャミンのことを皆愛していたようだった。だから、スサーナがそうじゃないと判ったらみんな悲しむだろう。

 わざわざ教えて悲しませたくはない。半分以上自分に都合のいい言い訳だと気づきながら、気づかないふりをしてスサーナは思う。

 でも、このまま騙し続けるのはもっと駄目だ。

 優しいおうちの人たちはみなスサーナを気遣って、便宜を図って、そうすべきではない居場所分の場所を開けて、そうして損をしつづけるだろう。

 ――私、考えるまでもなく役立たずですもんね。この髪じゃ姻族を増やすのにも使えないのは前からわかってたことですし。

 スサーナは自嘲する。だからスサーナは叔父さんとブリダに雇ってもらってお針子でやっていこうと思っていたのだ。


 苦しくなって身を起こす。

 軽い酸欠で泣きたい気持ちが何処かに紛れたのでスサーナはすこし安心した。

 スサーナは泣くのは苦手だ。何の解決にもならないくせに、泣いている間は考えなくていいことまで次々に想起するし、泣くと近くにいる人を困らせる。無責任だし、虚しいばかりでなにもいいことがない。


 仰向けになって天窓を眺める。穏やかな青から春の日だまりみたいに調光された自然光再現照明が降り注いでいる。

 スサーナはあんまりの光の穏やかさに、今が春のさなかで実は自分は中庭で昼寝をしていてこの光を浴びている、さっきまでのことは全部夢だった、というような夢想をしてみたが、あまりにも都合よい妄想で現実逃避極まりないのでやめにした。



 ――どうしたらいいのかな。

 スサーナは目を伏せる。

 自分が居なくなるのがたぶんおうちのためには一番いい。

 でも、あの優しい人達はそれできっと悲しんでしまう。


 本当のことをいうのも駄目だ。

 スサーナの都合はともかくとして、おばあちゃんも、叔父さんも、叔母さんたちも、きっと「お父さん」の子供がいるということに安心している。ある種の形見として。戻ってくるかも知れないアンカーとして。


 それが偽物だと判ったらきっととても悲しむし、混乱するだろう。もう結構な年のおばあちゃんが精神ショックを受けるのは心配だし、ショックを受けた叔父さんがお祝いごと、そう、例えば結婚を取りやめてしまったりしては意味がない。そうでなくてもきっと家族みんなギクシャクするだろう。

 スサーナは家族に波風を立てたいわけではないのだ。


 ――それに、実は漂泊民だったらしいです、と言って……そちらに行くことになってもきっとうまくいかない。

 こんな局面だというのにちらりと心をよぎった保身も、言うべきではない、という気持ちを後押しした。

 スサーナは鳥の民のことを何も知らない。母の親族がいて、もし家族の誰かが連絡をつけられるとして。そちらの文化を一切受け継いでいない子供など困るばかりに違いない。どころか、スサーナは母の人柄も、外見も、なんなら名前も直接聞いたことはないのだから、そちらの親族がいたとしても馴染めやしないだろう。

 こちらでも、向こうでも。綺麗で凪いだ池に投げ込まれた邪魔な石くれになるのは嫌だった。


 ――独立したいとか、勉強したいとか、そういう怪しくない理由で他所の島に出て、お家と距離をおいて、それでおうちがちゃんと回るようになったら、それで。それで次善の策になるでしょうか。


 それなら黙っていても許されるかもしれない。発展的解消というやつだ。

 その場に居ない人のことをずっと気遣って生きていくのは難しい。素敵なわくわくする理由で家を出た相手ならきっとなおさらだ。

 そのうちおうちに居ないのが当たり前になって、何かの折に思い出すぐらいになって、遠い人になる。

 相手が綺麗さっぱり消滅したわけではないから、願掛けとか願いを託すみたいな気持ちは打ち砕かれたりしない。いいことずくめだ。


 思いついたスサーナは一応の解決に辿り着いたような気がして、許されたような気分になってほっとした。


 仕切り直しに、せっかくだし。みたいな、相手を待たせる悪女ムーブな気持ちでもう一度体を洗い、しっかり顔を洗ってからもう一度浴槽に戻る。もしかしたらもう待っているかも知れないけれど、女性のお風呂は時間がかかるものなのだ。洗剤をくれたのだから体を洗うのは含み損というか、予定に入ってはいるだろう。

 浴槽で手足を伸ばし、ワカメになったような気分でしばらく脱力して、それから上がる。

 栓を抜いたほうがいいとは思ったものの何の指示もされなかったし、どうやっていいかわからなかったので失礼ながらそのままにした。



 やたらフカフカのタオルを使い、人形に着替えを渡される。元の服はまだ乾いていないのか、あちらの部屋に直接持っていかれたようで見たことのない衣装だ。

 ――これ、魔術師さんたちの服ってことですよね。

 そう考えて、上がりかけたテンションに意識してしがみつく。

 渡された着替え一式に几帳面そうな文字のメモが結び付けられていたのを読む。


「……身につけた後で右のタグを二つに切る……?そのあと外す……」


 着替えを広げるとタグというのはすぐわかった。

 スサーナのサイズとはどう考えても違う、ちょっとサイズ目測を誤ったにしてはブカブカなんじゃないか、という下着セットらしきもの端に植物紙らしいタグが縫い付けられている。


「男物……? いえでも流石にそのまま男物を着ろとは……。 ……銀インク……と、読めない文字……ということは術式付与品? なにがどうなるんでしょう」


 下着らしき組み合わせの主は大体長めのノースリーブシャツとボクサーパンツの組み合わせ、と言っていいようなものだった。布自体は織り布のようだったが、全く縫い目がないのでどう作ったかもわからない。


 首を傾げつつ身につけ、ずり落ちないように抑えて書かれたとおりにタグを切る。チッと音がして、ブカブカだったものが一瞬で縮み、体ピッタリに変形した。


「わっ、これは……」


 仕立て屋要らず! スサーナは一瞬感心し、その後いやいや普及を願ってはいけないと競合他社の顔で首を振った。うっかりこれが一般化してしまうと商売上がったりなのは間違いがない。


 その後広げた着替えは一応女性ものに見えた。

 白から銀灰色に推移する光沢のある生地で、スーパーマイクロフリースを思わせる毛足の長い布地のワンピースだ。

 柔らかく、革部分がないことからフリースみたいな添毛織とスサーナは判断したが、普通の常民なら毛皮だと判断することだろう。織物だと思うには毛が細すぎるのだ。

 例えるなら、手のひらぐらいの生き物からとった見事な毛皮を精緻につなぎ合わせて衣服を作ったらこんな具合になるに違いない。

 ――前世を覚えていてよかった、というか……これ、普通の子だったら気後れして着られないやつでは?

 スサーナは内心突っ込んだが、よく考えたらドレスはもとよりサイズ可変下着からして前世基準であってもヤバい一品で、それこそ機能もお値段も警戒して着られない人が出るやつだ。

 ――……結局、慣れですかね。


 同じように身につける。予想通りすっと縮んで体に合ったそれは、ハイネックの長袖でわずかに肩が膨らんでいる。他は腰まではきれいに体に沿った作りをしていて、腰からは島の倫理観を反映しているのかふわっと広がって足首までを覆うつくりだった。

 ――わあ、これ座るとスカートのシルエットが正円になるやつだ。

 スサーナはちょっと乙女心がうずいてくるりと回り、後ろにあった鏡にはたと動きを止めた。

 ――あっこれ見たことある。なんだっけ、なんだっけ。

 スサーナはしばし記憶をかき回し、しばらくして辿り着いた回答に力いっぱい叫んだ。


「ああーーっ松本零士のアレ!!!!」


 よりもスカート部分は襞が多くふわりと広がる形をしており、シンプルなシルエットでケープもポンポンもない。全体的な形状はそこそこ差異があるのだが、パッと思いついてしまったものは仕方がない。


「う、うわあ。黒じゃなくてよかった……。というか、島では見ないデザインですよね……魔術師の皆さんの流行りなんでしょうか。え、じゃあ魔術師の女の方ってみんなこういう恰好? ……いやでもこの間見た方はそうじゃなかったですし。いやそれより男の方のお宅になんでこういう服が……。 ……じゃあ、その、……趣味?」


 うわあものすごく似合う。

 想像してはいけないものを鮮明に想像したスサーナは真顔になった。


「いやちょっと長身すぎますかね、あっでも青春の幻影さんの身長185cmって何かで……うわあ、うわあ、丁度ぐらいでは? それは見たい……」


 抑えたノックに声に出して思考を垂れ流していたスサーナはぱっと口をふさぐ。


「支度が完了したので連絡に。……何か叫び声がしたようだったが」

「いいええ、なんでも。すぐそちらに行きますので」


 外から聞こえてきた低い声に、見えないのはわかっていながらきまり悪く目をそらす。

 わざとテンションを上げすぎるのも気をつけるべきだ、とそっと反省しつつ、スサーナは扉の向こうの気配が消えるのを待って魔術人形に戻りますと声を掛けた。

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