些事雑談 こじつけごはん ~無い物ねだりでもワサビが食べたい~

 島ではほとんど生魚を食べない。

 しかし、冬が始まってからの一時期だけは火を通さない魚が食卓に並ぶ。

 サクを氷水で洗い、ワインを使った酢で締めて冬にとれる甘くない柑橘を散らし、漬けたオリーブとケッパー、ぶどう種のオイルを掛け回して「魚のサラダ」に仕立てるのだ。


 それによく使われる美味しい白身魚……スーバと呼ばれていてスサーナにはタイみたいに見える……が沿岸に寄ってくるのが冬のはじめ。

 その時期だけは市場のどの魚屋にも生で食べるための処理のされた魚がたっぷり並ぶ。活かしたもの、氷に入れたもの。鮮度十分のやつを選び、自分で捌きたくない時は、頼めば魚屋さんが捌いてサクを取ってくれる。


 大騒ぎから数日、スサーナはブリダと一緒に市場に買物にやってきていた。

 仕事の進捗の兼ね合いで、今日は仕事場で皆で夕食を食べるのだ。

 出来合いのものをよそで買うのでもいいけれど、仕事場にもお家ほどではないもののちゃんとした台所がある。

 魚を商う店の間をそぞろ歩き、ひやかしながら一番ちょうど良さそうな魚を探す。


「あらいいタコ。お嬢さん、タコをオイルで煮たのも付けましょうか。」

「いいですね。おばあちゃんも叔父さんも好きですもん。」


 ブリダはお目当ての柵取りした切り身と一緒にタコと丸のままのスズキを買い込んだ。

 スサーナはそれを見ながらぼんやりと考える。

 ――お刺身が食べたいなあ。


 スサーナは毎年この時期になると刺身が食べたくなる。

「魚のサラダ」は見た目の上で比較的刺し身に似ているのでどうにも思い出すのだ。

 この時期の市場の魚は鮮度抜群、処理もいい。生で食べられるのは間違いない。

 しかし、まあ、だからと言って味付けのない魚肉を食べるのでは特に刺し身欲は発散されない。

 絞ったレモンと塩でこっそり頂くのが毎年のこの時期のスサーナの習慣にはなっているが、醤油は夢の夢としてもせめて山葵がほしい。スサーナは無い物ねだりしながら経木で包んだ魚をかごに入れて持った。


 珍しい植物、となると魔術師の独壇場であり、頼めばなんとかなる可能性もないではないが、山葵は確か日本固有種だと言われていた記憶がある。近縁植物をうまいこと見つけても品種改良であの味になるか、と言われると難しい気がしないでもない。

 流石に無から山葵を作り出してくれ、と言われても魔術師さんたちも困るに違いない。雲を掴むような話になってしまう。

 そんなわけで、さすがのスサーナも山葵に関しては無い物ねだり止まり、無茶振りの手紙を出すことはしないのだった。



 帰り道に野菜を見ようとブリダが何気なく言い出した。


「少し遠回りになりますけど、ココの店へ回りませんか。あすこが一番キノコがいいので、お嬢さんお付き合い願えますか」

「ええ、もちろん。」


 ブロッコリーとマッシュルームはタコのオイル煮の定番のお供で、タコを煮るなら欠かせない。オイルに素敵な風味を付けてくれるし、タコのオイル煮につきものの白いワインにもとても合う。


 ところで、ブロッコリーとマッシュルームをたっぷり入れたタコのオイル煮はブリダの得意料理で、更に言うとあんまりお酒は飲まない叔父さんがお酒を飲みたがるお気に入りのメニューの一つで、ブリダもその事を知っている。

 流石にお店での夕ご飯ではちょっとだけしか皆お酒は飲まないだろうけれど――とはいえちょっとは飲むのが普通だ――、いつものパターンを考えると余った料理は皆で持って帰ることになるだろう。


 お店の夕ご飯で使うのには多いんじゃないかなあ、と言う具合のタコ。それだけでも鍋いっぱいになりそうなのに更にそこにキノコとブロッコリーを足す。完全に予定量は大鍋一杯だ。

 ――ブリダ、持って帰るぶんを最初から考えに入れて作ってますよねえ。

 持って帰ったオイル煮を暖炉で温めてほくほくとお酒を飲む叔父さんを想像する。

 きっと同じものをブリダも想像したに違いない。


 スサーナはなんとなくフフッとなりながら遠回りに力強く賛成をした。



 ココの店は大きめの八百屋だ。

 野菜も果物も商っているし、地元で取れた定番の新鮮な野菜、という以外にも、農家の気まぐれで作付けされた珍しい野菜や近隣の国から輸入された、島では殆ど食べないような野菜も取り扱っている。

 売れているのだろうか、とスサーナはちょっと心配になったりもするが、店のおじさんは飽きずなんだか変わった野菜を店頭に並べ続けているし、食べたことがない野菜をとりあえず料理してみようという向上心あふれる料理人が買い占めていったりもするらしいしでそれなりに上手く回っているのだろう。


 スサーナは、ブリダが熱心にマッシュルームを選んでいるのを横目に野菜が並んでいる棚の間をうろうろと歩き回り、なんだか見知らぬ果物でもなかろうかと見て歩くことにした。


 真っ黒い皮のかぶ。スサーナの手首ほどありそうなネギ。巨大なホオズキみたいなもの。ずんぐりしたアスパラガスみたいな花茎を食べるらしい野菜。


 新規導入の野菜は一つの平棚に並べられていて、簡単に特徴を書かれた木の板がその前に飾られている。


「生で食べられる、梨の味のする芋……ほう。苦くない大ナス……あっこれまだ新規導入品扱いなんですか!? ううむ…… ミントの風味がするカボチャの食感? 気になる……」


 スサーナがブツブツ言いながら棚の野菜を眺めていると、一枚の板に目が留まる。

『鼻に抜けるような辛味。摩り下ろしてクリームチーズと和え、ソースに。』

 その後ろにあったのはカラシナ状の葉の下に極太にしたごぼうをつなげたような野菜である。


「鼻に抜けるような辛味……」


 スサーナがたった今、まさに求めている要素、それこそが鼻に抜けるような辛味であった。

 根茎はうす白く、葉っぱの形もハート状の山葵とは似ても似つかぬ。しかし、スサーナはうっすらこの形状に心当たりがないでもない。


「……レフォール?」


 スサーナはそれを持ち上げ、さんざん注視した後にそっと呟いた。


 レフォールとは別名ホースラディッシュとも呼ばれる西洋野菜の一つだ。そして、さらにまたの名を「山わさび」と言った。


 紗綾が大学に入りたての頃、北海道出身のクラスメートが実家から送られてきたと言って巨大なダンボール箱いっぱいのそれを教室に持ち込み、配られた記憶がある。


 自宅でローストビーフなどこしらえたりしない、摩り下ろしてマヨネーズに和えるかバターに混ぜるかぐらいしか使いみちのない一人暮らしの大学生の群れは戦慄し、その山わさびの大多数は担当の教授のもとに押し付けられたものだった。それでもまだ各々の手元に握りこぶしほどもある木の根のようなそれが一つずつは回ったのだからどんな量だったかはわかろうというものだ。思い出そうとすればある種愉快な思い出としてはっきり顛末が思い出せるので、よほど印象に焼き付いた記憶だったのだろう。


 ともかく、これがそれと近い根菜だとするならば、スサーナは知っている。

 香気は日本山葵とはだいぶ違い、どっちかというと大根おろしめいた匂いがするし、本山葵派だった紗綾はそう使うことはなかったものの、しかしまったく山葵がないときの代用ぐらいには、十分使えるのだと――。



「店長さーん。」


 スサーナはそれを持ち、ブリダにヒラタケを熱心に勧めていた店主に声を掛けた。


「なんだいお嬢ちゃん」

「これ、どこの国のお野菜なんです? 初めて見ますけど。」

「クレーンだね。スウェビアのほうでよく作っているものらしいよ。このあたりじゃほとんど見ないけど、強い野菜でほっておいても育つっていうから、冬の間の収入になるんじゃないかって取り寄せて作り出したとこがね」

「へえー、スウェビアの。」


 スウェビアといえばアウルミアの北に位置する国である。ヴァリウサからはだいぶ遠く、気候も寒い。北海道でよく育つ山わさびと条件は似ているような気がする。

 スサーナはよく作る気になってくれたと農家さんに感謝を捧げたい気持ちになった。どうやら一期一会の野菜ではないらしい。それはとても重要なことだった。


「普通に食べるものじゃないんだけどねえ。えーと、あった。この欠片をね……」


 気さくな店長さんがごりごりと金属下ろしで欠片を少しすり下ろしてくれる。

 雑な擂り方なのでさほどでもないが、たしかにツーンとした香りが漂った。


「まあ、なんですこれ。」


 感動するスサーナをよそにブリダが変な顔をして鼻を押さえた。目をパチパチする。どうやら思い切り香りを吸い込んでしまったようで、少し涙目になっていた。


「しばらく置いておくと味が穏やかになるから、そしたらチーズかクリームと混ぜてソースにするといい。少し辛味がついてなんともいえない風味になるよ」


 こういうものは擂りたてに限る。放置しておくなんてとんでもない。スサーナは思ったが、食文化食文化と唱えてスルーすることにした。なんとか目の細かい、出来たら鮫皮のおろしがねを手に入れよう。そう心に決める。


「そうそうそれからねお嬢ちゃん、男の気を引く時に少し吸い込んでおくと、涙がじわっと湧いて、どんな男もこれでイチコロと――」

「ちょっと、お嬢さんに変なことを教えないでくださいよ!」


 店長のおじさんの冗談にぷんぷん怒ったブリダに、スサーナはちょっと買うのを止められるのではないかとヒヤっとしたが、流石にそこまでブリダも大人気なくはない。


 沢山のキノコとブロッコリーと一緒にクレーンを買い込んだスサーナは上機嫌で帰路につく。


「どうするんです、お嬢さん、そんなもの」

「そうですねー、辛子の代わりにするのにいいんじゃないかなーと。」


 訝しげなブリダにスサーナはにこにこ笑ってみせた。



 流石に仕事場での夕食で試す訳にはいかない。スサーナはその日の夕食では我慢し、大人しくブリダを手伝ってオイル煮をこしらえるだけに留まった。仕事場の他の皆は遠慮して、なのか、ブリダの秘密の意図をみんな見透かして、なのかわからないが――スサーナは後者だと思う――ほとんどオイル煮を持ち帰らなかったので結局叔父さんはすごい量のオイル煮をうちに持ち帰ることになって、スサーナは再度ふふっとなったのだった。



 そして、次の日。

 スサーナはセルカ伯のお宅の台所でよーしやるぞーと気炎を上げていた。

 お呼ばれをしたのをいいことに台所にクレーンを持ち込んだのだ。

 攫われ直後ということで、伯の家の使用人がみなスサーナを労るのをいいことに可能となった離れ業である。

 とはいえ、御飯の時間は避け、台所を使っていない時間、後片付けもちゃんとするという約束で料理頭に場所を借りたのだ。そのあたりはしっかりしているスサーナだった。


 持ち込んだ荷物を調理台の上に並べる。


 行きに市場に寄って、新鮮なタイを一冊ひとサク手に入れてきた。

 しかも、すぐに食べないことを見越して、サクの表面に塩を振り、炭火で炙った後に両面を酒で濡らした――白ワインなのが残念だ――昆布で抑えてあるのだ。

 ――比較的完璧では?

 スサーナは意気込むと、クレーンをよく洗い、表面の皮を剥いた。

 それからまずおろし金を借り、それでクレーンをすりおろす。


 弱いながらも鼻に抜けるツーンとした香りがぱっと立った。

 ――よし!辛そう!!

 スサーナは腕を休めずにざしざしとおろし金で結構な量をまずすりおろすことにした。


 島のおろし金はいわゆる西洋おろし金というやつで、目が荒い。

 おろされたクレーンはぼそぼそとしたすりおろしになり、それでも十分食べられる気はしたのだが、スサーナはここで一計を案じている。

 おろしをすり鉢にあけ、すりこ木でごりごりとあたるのだ。

 狙い通り、目がしぱしぱするほどの香気が立ち、スサーナは我が意を得たりとほくそ笑んだ。


 ――あ、先に昆布締めを切っておけばよかったかな!

 手順を少し間違えたかな、と反省しつつもスサーナは昆布締めを薄くそぎ切りにし、その横にねっとりとしたクレーンおろしを添えた。


 醤油がないのが残念だったが、代わりに干し鰹と昆布で出汁をとったものに強く塩を利かせたのを持ち込んで表面を濡らす用途とする。


 だし汁を少し小皿に注ぐ。


「ようし、いただきます!」


 ぱんと両手を合わせたスサーナは、杉材を削って作った自作の箸でおろしを摘み、昆布締めの上に乗せると包むように昆布締めを持ち上げ、ちょんとだし汁に漬けて口に放り込んだ。


 醤油の奥深さは無いものの、昆布締めにしたことで旨味が補填されており、炭火で炙った昆布の香ばしさで醤油の香ばしさの代わりになっている。

 まだねっとりするほどには締まっていない、さくさくとしたタイの身を噛むと上品に甘く、中に畳まれていた辛味と香気が喉から鼻に抜けた。


「きゅーっ、これこれ、この感じですよ!」


 スサーナは鼻を押さえながら身悶えし、同時に快哉を叫んだ。

 ――ああ、これでお醤油さえあればなあ。魚醤はあるんですから好塩麹菌も好塩酵母もいるとは思うんですけど。

 少し残念な気持ちを引っ張りながらも、もう一口。

 んーーっ、と目を潤ませながら鼻から抜けるツーンを楽しむ。


 だいぶはたから見ていればわけがわからない状況だろうが、まあ台所に他に人はいないので問題ない。


 と、思いきや。訝しげな顔で台所を覗き込んできたアラノとはっと目が合い、スサーナはスーっと目を逸らした。


「スシー。一体何を?」

「……こほん。ええと、新作の料理を試していまして……」


 場を取り繕ったスサーナに、目を輝かせたアラノが調理台までやってくる。


「へえ……、凄いなスシー、君、料理もできるんだな。」

「ええ、まあ。ええ。」

「これかい? どうやって食べるものなんだろう」


 興味深げに皿を覗き込んだアラノに、スサーナはなんとなく不穏な予感が脳の片隅でちらっと走った気もしつつも、食べ方を説明する。


「ええとですね、この薄切りの魚にこのワサビ……ええと、ペーストを乗せて、だし汁にちょっとつけて食べるんです。本当はだし汁じゃないんですけど――」

「へえー。うん、それじゃ」

「あ」


 一瞬の出来事でした、止める間もなかったんです――後に目撃者は語る。

 そんなテロップを脳内で浮かばせるスサーナである。


 箸で少しワサビを取って、ならまだ良かった。

 どうやらアラノは箸を食器と見做さなかったらしい。ぱっと何気ない動きで調理台の奥にあったスプーンを取ると、ティースプーンほどのそれ一杯に掬った山わさびを刺し身一枚に乗せ、口に放り込んだのだ。


 予想通り、一瞬の後にアラノは全身の毛を逆立てたような表情をして、声にならない悲鳴を上げる。

 何故か入り口のところで経緯を眺めていたレミヒオが、小さくガッツポーズに類似した動き――たまにスサーナがやるもので、なんだか感染うつったようだった――をしたのを、慌てて水桶から水を汲んだスサーナは目の端で目撃した気がした。



「うわあ無様ですねアラノ様。騎士たるものはじめて口に入れるものはもっと気をつけるべきなのでは?」


 入ってきたレミヒオが言う。その落ち着き払った風情にスサーナはああやっぱり、となった。


「レミヒオくん、あれが辛いって知ってたみたいですけど」

「目潰しに使うんですよ。あの根を乾かして粉にしたやつを水で練ると辛くなるので。」


 なるほど民族の知恵という感じだ。スサーナは納得しつつ、水では辛さが消えなかったらしいアラノに牛乳を飲ませ、顔中涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているのに布巾を渡してやりながら遠い目をした。


 わさびチューブ、もといすりおろし山ワサビの普及はなんだか遠い気がする。

 なんだかどうにもそう感じたためだった。

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