第119話 艱難玉には迷惑千万。 7
「硬いもの、ですか……」
スサーナは思案し、足首まで裾が下がったスカートのサイドをよいしょーっと持ち上げた。
なんだか横からわあとかぎゃあとか声が上がった気がするがとりあえず緊急事態なのでスルーすることにする。
「なっ、ちょっ」
「はい、カトラリーのナイフですけど、これでいいでしょうか?」
太腿に隠し直してあったナイフを外し、渡す。
なにやらやりきれないような表情で口をぱくぱくしていたレミヒオだったが、なんだか頭が痛いような表情で額を抑え、それを受け取った。
「……十分です。十分ですが、その……」
「何かまずいことが? ええっと他にと言うと……」
「いえ、そうじゃなく……なんでもありません。」
レミヒオは何か気を取り直したように首を振ると、櫂を持ち、猛然と密輸船から距離を取り出した。
「ええと、どうされるんです?」
「んー、まあ、見ていてください。的当てゲームみたいなものです。端にいてくれるから都合がいい。」
少年は離れたことでスサーナにも全貌が見えるようになりだした密輸船の甲板後ろの端、豆粒ぐらいに見える人影を握ったナイフの柄で指し、無邪気とすら言える表情で笑った。
甲板は時ならぬ緊迫感に満ちている。
「武器を降ろせ。 さもなくばそなたらが助けたくてたまらない学者殿が物言わぬ骸と化すぞ」
当初、騎士たち二人は船員たちをたやすく圧倒していた。これは犯人のヤローク貴族を追い詰めるのも時間の問題だと思われたが、貴族が人質に刃をつきつけて後甲板に現れたのだ。
勿論騎士たちはそれを危惧し早々に貴族を抑えようと行動していたが、
彼の技量は騎士たちに劣っていたものの、稼いだ時間は貴族が捕虜を人質に取るには十分なものだ。
貴族は優雅な長剣を抜き、その切っ先を人質の腹に押し付けている。
これは示威行為に過ぎず、彼女の命を奪うには何もかも不十分だ。しかし、同時に後ろから人質を抱えた黒髪の男が彼女の頸動脈にぴたりと小刀を押し当てていた。男がそう望めば血管が切り裂かれるまでは一秒も必要あるまい。
身分の高いやつらしい嫌味な優雅さだ、と
「おいおい早まるなよ。裁きの場での心証が悪くなるぜ」
彼は肩をすくめ軽口を叩く。
「俺たちも自分の命は惜しいのでな、殺されると判って武器を おっとお」
殺気立つ船員達の刃を受け止めた騎士を見て貴族はほくそえんだ。
鋭い攻め手をしていた騎士たちの剣が防戦の形へ変わったことに彼は感づいている。つまりそれは騎士たちが上から受けた命令が人質の命を度外視して彼を殺せ、もしくは捕らえろ、というものではないということだ。
「攻撃を止めろ。考えさせてやれ。」
貴族が命じると、不承不承ながら船員たちは一歩引いた。片腕をしたたかに切り裂かれたブルーノが足を引きずりながらも主の足元に戻る。
攻撃の手を止めた騎士たちを見回し、黒犬が刃をぐっと女の首筋に押し付ける。
怯えた声で女が命乞いをするに至り、もう一人と短く目を見交わした長身の騎士がゆっくりと剣を床に置いた。
「黒犬よ、もっとよく学者殿の喉を見せてやれ。美しい、実に柔らかそうな肌だな。実に簡単に切れそうだ。」
貴族は笑う。
言葉通りにクロエの喉を仰向かせながら青年は視界の端に見える海に一瞬気をそらす。
徳の高い騎士様とやらはこういうときにろくに動けなくなるのだ。だが、その道義心ゆえに期待が持てる。
下に見えた小舟は多分彼らの小細工だ。上が
「なに、俺も慈悲がないわけではない。大人しくしておれば殺しはせぬ。」
縛り上げてボートに載せろ、と貴族は船員たちに声を掛けた。
「三人いれば血も肉も十分だろう。運が良ければ一人は陸に着くまで生きながらえるかもしれぬぞ」
貴族の言葉に従い騎士二人と従騎士にじりじりと船員たちが近づく。
「フィ、フィリベルト様、どうします」
怯えの混じった声で問いかけてきた自らの従騎士にフィリベルトは落ち着け、と声を掛けた。
「落ち着けアラノ、あの子を助けたいだろ」
なかなかにひっくり返しがいのある状況だ、と囁いてやる。はっと従騎士の目から怯えが消えたのににやりと微笑みかけた。
……実を言えば、上空では王室から派遣されてきた女魔術師が待機している。最悪の事態であっても犯人たちを取り逃がすことはない。
しかし、彼女が命じられているのは多分「犯人の排除」。失えば問題になりかねない言語学者はまだしも、国家にとってなんの価値もない侍女の少女は一緒くたに吹き飛ばされでもしかねない。そのような意味では魔術師は対面している相手以上に悪質な時限装置だともいえる、とフィリベルトは感じている。
常民に冷淡な魔術師のこと、人質の保全を真面目にやるということは望めない。故に、一緒に捕らわれている勇敢な侍女の安全が魔術師に任せてはどうなるかわからぬ以上、彼らの手でこの場は解決しておきたかった。
「お優しいな、だがあんた、これからどうするつもりだ? 」
巫山戯た調子でフィリベルトは貴族に声を掛ける。
「これだけのことを仕出かしたんだ。国に戻っても栄光に満ちた余生というわけにはいくまい」
「それは見解の相違だな、ヴァリウサの騎士殿。」
答えた貴族にフィリベルトは肩をすくめた。
「俺たちがヤローク王家の了承をとっていないとでも?」
「何?」
貴族がぴくりと眉を動かす。我が意を得たりとばかりにフィリベルトは内懐から丸めた書状を取り出して振ってみせた。
「証拠はこれさ、見るがいい!」
言葉とともに金の縁取りがなされた巻紙を貴族に向けて投げる。
貴族はそれに手を伸ばす。船員たちの殆どの目線もその瞬間、書状が描く軌跡に奪われた。
その刹那、フィリベルトはおなじ内懐から引き抜いた小刀を上に投げていた。
甲板後ろに掛かった三角帆の上を留めたロープが断ち切られる。メインの帆と違い支えるロープの少ない小さな三角帆は張られる力を失い、不安定な大きな布になって甲板後ろにいる者たちに襲いかかった。
「今だぁーーっ!」
彼は叫びながら置いた剣を蹴り、同じ速度で走りながら剣を拾うと、船員たちを切り伏せながら甲板後ろに走る。
アラノが虚を突かれた船員を盾で叩き伏せ、その間に自分の剣を拾ったヨハンが後に続く。
「ちっ……!」
一番早く反応したのは黒犬だった。
引き据えたクロエを盾に前に出ようとし――
斜め後方から飛来した何かに背を打たれ、そのまま大きくもんどりうって海上に投げ出された。船上からは跳ねたロープに当たったかというふうに見えただろう。
一瞬の後、帆に絡まれた貴族たちのもとに騎士が到達する。
「おのれ……!」
帆から抜け出し、姿勢を崩しながらもなんとか貴族とその腹心は前に出る。そのはずみにぐしゃりと踏み潰した巻紙は、美しく縁取られた白紙の内側に血と泥で汚れた靴跡を残した。
怒りに湧く目で己を見据えた貴族に、
「俺にも慈悲はないわけじゃない! 降伏すれば司法の裁きを受けることが出来るとお伝えしておこう!」
飛びかかってきた貴族の手元の優雅な剣をフィリベルトの長剣が勢いよく跳ね飛ばす。
横から振り下ろされた腹心の剣をすかさずアラノの大盾が防ぐ。術式付与の中剣は大盾に半ば食い込み止まった。
再度剣戟の音が船上に満ちる。しかし、今度のそれはそう長くは続かぬだろうと騎士たちは誇り高く予感していた。
しばし後。
戦いの音は止み、いくつもの大きな傷を作った貴族は簡単な血止めを施され、四肢を縛られて甲板に転がされている。腹心は戦いの中で名誉の死を遂げた。
船員たちは生き残ったものは降伏し、一箇所にまとめられている。
「フィリベルト様」
場がある程度落ち着いたのを確認し、アラノが声を上げた。
「ここは大丈夫ですか、俺、船内を捜索して参ります」
「おう、精々かっこよく助け出してやれよ」
「あっ、スシーさん、絶対すごく不安ですようー。そこの部屋に一緒に入れられていたのでー、早く出して差し上げてくださーい!」
クロエの指した下り階段へアラノが駆け寄りかけたその時。上空から優雅に舞い降りた影が甲板に着陸した。
それはネコ科の猛獣を思わせる鋼に似た色合いの像で、その背には美しい女が一人座っている。
豊かな巻き毛が縁取る磁器のような顔に長いまつげが影を落としている。華奢な手足に豊満な胸元。神々が形作ったに違いないと確信させるような美貌の女だったが、その身を包むのは豪奢なドレスではなく、優美ながら固まりかけた血の色のローブで、髪と目には魔術師のしるしが宿されていた。
彼女こそが王の盟友としてヴァリウサの王宮に侍る魔術師であり、外の介入を嫌う塔の諸島に外部と魔術師、二重の立場から関われる数少ない存在であった。
「終わりましたか」
平坦な口調で魔術師の女は言った。
騎士二人はぱっとその場に膝をつく。潮の流れを操ったのも風を回して密輸船が先へ進めぬように取り計らったのも彼女の魔術のなせるわざだった。
「はっ、ご助力頂き感謝の極みでございます」
言ったフィリベルトに平坦な声が戻る。
「繁文縟礼は結構。」
女は甲板にあえかな足をつけると、数歩進み、転がされた貴族の前に歩み出た。
たじろいで目をそらす貴族の顔をオパールの瞳が覗き込む。
「この諸島は夢を見る真珠。いかなる手も触れず眠るもの。常民の手中に収まるものではありません。選択を誤りましたね。」
起伏のない声音でそれだけ言うと、彼女はふいと踵を返した。
「私のすべきことはもはやありませんね?」
獣の像に再度乗り込むと、騎士たちに問いかける。
「は、はっ!」
頷いた騎士二人を見、それから興味を失ったように視線を離して魔術師は言った。
「よろしい。あなた達の船の強度は増しておきました。陸まで沈むことはないでしょう。それでは、私はあちらに用がありますので。」
騎士たちの返答を待たず、獣の像はふわりと浮き上がる。
「……あちらって、なんだ」
「さあ……」
ほっと息を吐いて騎士二人が顔を見合わせる中、魔術師が去るのを待って即座に階段に走ったアラノの悲鳴が響いた。
「誰もいない、窓が開いてるっ!?」
声を聞き、フィリベルトがええーっというような、笑いのようなため息のような声を漏らした。
「やれやれ、うっすらありえないことじゃないと想像はできたが、なんてパワフルなお嬢さんだ! ちょっと惚れ込んじまいそうだぜ!」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
スサーナは気を失って浮かんだ青年を回収し、小舟に引き上げる。
一瞬肌刺繍を発現させてナイフを投げたレミヒオは、騎士たちにバレてもいけないとすぐに元通りに肌を戻した。
その後、ばれないようにまた念のためにしばらく距離を取る。
「これでなんとかなった……ということでいいんでしょうか……」
「まあ、あとはしらばくれてもらうしか。……常民の皆さんは鳥の民の顔の見分けがさほどつかないようですから、なんとかなるんじゃないかと。」
「……流石にそんなこともないと思うんですけど。」
ジト目でツッコミを入れるスサーナにレミヒオはこほんと咳払いをしてみせた。
「……真面目な話、この人は大体の場所ではある程度顔を隠していたみたいなので顔を広く知られているということは無いと思います。ここで顔を合わせた人たち相手にはしらばくれるしか無いと思いますけどね。とりあえず後はそこの防水布でも掛けておいて、意識が戻ったら大人しくしておいてもらえばいい。暴れたいとかご主人様に殉じたいというならまあ、それはそれでそこまでだったということで。」
「それはない、と思いたいですけど、内心どう考えていたかはわかりませんものね……」
先の発言的にそういうことはない、とスサーナは判断したが、人の心とはわからないものだ。もしそうだったら諦めるしか無い。
「そうだとしても安心してください。その時は責任を持って僕が息の根を止めますから。」
そうでないといいな、と思いながらスサーナは横たえた青年の上に防水布を広げた。
その上に影が差す。スサーナが見上げると、優美な獣の姿をした像がすうっと降りてくるところだった。
――ま、魔術師さんだ。
王宮の魔術師さんだとレミヒオくんが言っていたっけ。スサーナは慌てて何もしていないようなフリを取り繕った。
背に美しい女魔術師を乗せた獣は水面にピタリと静止する。
「げ」
レミヒオが失礼な声を立てる。
「こ、こんにちは……」
スサーナは裏返りそうな声を抑えてそちらに声を掛けた。
――あの人を拾ったのがバレたのかな……
落ち着かないスサーナのそんな内心とは関わりなく、魔術師はすうっと近づいてくると、ずいとスサーナに顔を寄せ、そして言った。
「怪我をしていますね。」
スサーナは突然の言葉に意表を突かれてこくこくと頷く。
「は、はい。」
「なんとお粗末な。」
「はい!?」
いきなりお粗末呼ばわりされ、豪速球で横面を叩かれたような気分になったスサーナに、女魔術師は平坦な声で首を振った。
「あなたに言ったわけではありません。」
「は、はあ……」
なんと返答していいかわからず、曖昧に頷いたスサーナの手首をうつくしい繊手が見た目から想像できない力でぐいと掴む。
「治療します。精査が必要ですので額をこちらに向けなさい。今すぐ強いてリラックスするように。」
「ふえ、あの、ええと、さほどの怪我ではありませんので……あのう、治療して頂けるんでしたら上のクロエさんの方を……」
たじろいで言ったスサーナに構わず魔術師は細い指先でスサーナの額の前になにか描いた。そして二呼吸ほどして言う。
「左大腿骨に亀裂、右足首靭帯損傷。右手首軟骨損傷、腱板損傷。額裂傷二箇所、腹部打撲。それから口の中も切っていますか。発熱もしている様子。これでさほどではないとは、よほど野卑な環境で通常過ごしているのですか。」
えっと非難するような声を上げたのはスサーナではなくレミヒオである。
「ちょっと、スサーナさん、そんな怪我をしているなら何故早く言ってくださらなかったんですか!」
「ええ、ええとー、緊急事態でしたし。緊張していたらあんまり痛くはなかったので……」
ぴいっとなったスサーナの患部の上にスサーナの了解も待たず、ぐいぐいと白い軌跡が描かれていく。
傷の痛みはすぐに消え去った。
はあっと息をついたスサーナに、さて、と平坦な声で魔術師が言った。
「それはどこで購入したのですか。」
彼女の視線を追ったスサーナはぱっとポケットを抑え、全く躊躇せずポケットに手を突っ込んできた女魔術師にきゃーっとなった。
「ああっ、それは頂きものでして! ああっ済みません返していただけませんか!?」
ポケットから抜き出したハンカチを目に魔術師はため息をつく。
「なるほど、販促品の類だと。さらに嘆かわしい。」
「な、なんのことでしょう!?」
「粗雑な式。しかもこれを見るに持ち主が加害されても発動しなかった様子。100点満点でマイナス200点というところです。」
「いえあの、それは使い切ってあって、あの、お守りで……」
返して返してと動作をするスサーナを完全にスルーして魔術師はハンカチを畳み、自分の懐中に仕舞い込む。
「よろしい。善後処置が必要です。普通は行わないのですが、責任問題です。アフターサービスをも行いましょう。治療の希望は上の女性でしたね。」
言うが早いか、かえしてーっというスサーナをスルーして彼女はすうっとまた船上に戻っていった。
「かーえーしてーーー!?」
スサーナは叫んだが、もはや特になんの返答も戻っては来なかった。
「あの、なんです、あれ?」
しょんぼりしたスサーナに疑問顔のレミヒオが問いかけてくる。
「ううう、夏の騒ぎの時に魔術を掛けて頂いたハンカチなんですけど……」
「まだそんな物持っていたんですか。早く捨ててしまえばいいのに。」
冷たく言い放ったレミヒオにスサーナは倍しょんぼりする。
「ああいうものって持ってるとなんだか強くなった気がしません……? 持っていかれちゃった……」
「まあ、いいんじゃないですか。それでどうやら治癒してもらえたようですし。廃品も役立つことはあるんですね。」
レミヒオは青年が防水布の下にしっかりと隠されていることを確認すると、櫂をとり、船に向かって小舟を漕ぎ出した。
船に近づくと、二人に気づいたらしいアラノが船窓から一杯に手を振るのが見えた。
「おおい、君! ええと、スシー! 無事だったのか、よかった!!」
「結局何も出来なかった身で馴れ馴れしい。」
レミヒオが低い声で言う。スサーナはこの仲の悪いやりとりに日常が戻ってきた気がして、なんとなくくすくすと笑った。
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