第118話 艱難玉には迷惑千万。 6

 スサーナは強いて痛む体を奮い立たせると船窓にふらふら近づき、鍵穴に鍵を当てた。

 小さな鍵は鍵穴にスムーズに刺さると、抵抗なく回る。


 ――開いた。


 開いたところで劇的に状況が好転するというものではない。それでもスサーナはドキドキしながら船窓を押し開ける。


 ごうっと強い海風が窓から吹き込む。

 外はすっかり朝で、海に陽光がキラキラと反射して状況にそぐわぬ呑気な美しさを見せていた。


 ――開いたけど……

 スサーナは船窓から首を出し、陸地がまだ見えやしないかと目を細めて水平線を見た。

 次に下を見る。流石にだいぶ下の方に水面が揺れている。

 ――流石に泳いで陸地まで、なんて馬鹿げてますし。

 体調が万全ですら不可能だと言い切れる。ましてや、この全身痛む状況では安穏とした25mプールですら泳ぎきれないだろうとスサーナにもわかった。

 ――クロエさんをどうにか……するにしても、壁を登って?

 続いて見た上は、特に足がかりもない船壁だ。連れて行かれたクロエが心配だったが、甲板に出るのにもこの位置の窓からでは苦労する。

 ――フィリベルトさんが助けに来たって言ってましたよね。クロエさんが人質で有効ってことはやっぱり任務ってクロエさん絡みのことだったんですね。

 それなら、クロエは大丈夫だろうか。スサーナはそう考える。

 アラノがあれだけ強いと言っていたのだ。フィリベルトがクロエを助け出してくれるかもしれない。


 しかし、上で起こっているのは戦いだ。何が起こるかわからない。

 スサーナのイメージでは「戦っている最中に人質をとって脅す」なんてわかりやすい悪役負けパターンのように思えたが、現実ではそれで武器を捨てさせられて負けるなんてこともあるかも知れない。

 フィリベルトのことも心配だが、心配と考えるのもおこがましいとは思う。相手はすごい騎士なのだから。しかし、自分が甲板にいてもきっと何も出来ないし邪魔だとは思うけれど、同時に行かないことでなにか自分がすべきことを仕損じてクロエが助かる機会をふいにするかも知れないとは思ってしまう。それがスサーナには恐ろしかった。


「一か八か……ここを登ったら気づかれずに上まで……」


 スサーナは思案し、小声で呟いて気持ちを決める。窓の上を登っていけば数メートルで甲板まではたどり着くはずだった。

 まあ、うっかりそこで自分が捕獲されたとしても、フィリベルトは自分の立場を知っているし、使用人が首ナイフされたところで痛くも痒くもないだろう。人質が増えて身動きが取れなくなるという可能性はそんなに高くないはず。スサーナはそう判断する。


 一旦部屋の中に首を引っ込めて、それから普通とは逆の姿勢で船窓から身を乗り出す。

 それから薄く丸く作ってある窓枠の上側を探り、指をかけて、そろそろと懸垂をするような要領で体を持ち上げる。肩の痛みは強いて無視すれば腕を動かせる程度のようでほっとする。

 膝を曲げて窓枠に足をかける。

 バランスを取りながらなんとか立ち上がり、窓枠の上に指をかけられる手がかりを探り――


「スサーナさん」


 腹筋を使うとどうも蹴られたあたりがずくんと痛む。これは後で確認したらひどい打ち身に――


「スサーナさん!」

「ひゃ」


 一度目は都合のいい幻聴としてスルーした声がはっきりと耳を打ち、スサーナは思わず斜め下を振り向き、バランスを崩して慌てて窓枠にしがみついた。


「何してるんです、しっかり!」


 狼狽えた声を出したのは小船というのもおこがましい、ボートめいた小さな舟に乗ったレミヒオだった。


「れ、レミヒオくんー……!」


 スサーナはもはや懐かしいような思いに駆られてぴゃーっと半べその声を上げる。


「ああ、もう、ちょっと、動かないでくださいよ!」


 レミヒオは周囲を忙しなく見渡すと、それから小舟の上で踏み切り場所を探すような仕草をし、だんっと底板を踏んで飛び上がった。

 数メートル以上高い場所であるのに軽々と飛び上がってきたレミヒオは、スサーナがしがみついている窓枠に片足を突っ込み、それだけでまるで普通に立っているかのように安定する。


「はい、胴体を支えたので窓枠はもう離して大丈夫ですよ。それと。」


 なんでもないようにレミヒオが言った。


「とりあえずスカートは下ろしてくれませんか」


 なぜかそっちのほうがずっと緊急性があるかのような物言いだった。


 そういえば脱走したときにスカートは腰に結んだままだ。外角向きに顔をそらしているのはそれか、とスサーナは納得した。どちらかと言うと緊急事態なのによく気にしていられるなあ、とその余裕に感心したりする。


「今ですか? ええと、壁を登るのに足に絡んで邪魔なんじゃないかと……」

「今です! 壁を登らずとも今僕が舟まで運びますから。」

「あ、はい、えっと、でも……」

「……一旦舟に降ろしますから、なぜ登るのかはそこでお聞きします。」


 スサーナがスカートの結び目を外し、ライトな茶巾スタイルから脱すると、レミヒオはスサーナの胴体を抱え、下の舟めがけて飛び降りた。


 どばんと重たい水音と水しぶきは立つが、いったいどういう塩梅か小舟は綺麗に安定したままだった。

 レミヒオの腕から開放されたスサーナは小舟を見回す。

 スサーナの語彙ではいわゆる猪牙舟に近いデザインの船だ。櫂で漕ぐタイプの船で、詰めに詰めても精々五人乗るのが限界だろう。


「レミヒオくん、なんでこんな舟でここに……?」

「なんで。って」


 憮然とした顔をしたレミヒオにスサーナは慌てて手を振った。


「ああいえ、助けに来ていただけたのはわかります! そうじゃなくて、まさかこの舟で陸から漕いできたんです……?」

「ああ。途中までは牽引されてきましたよ。騎士様たちに沈没した時の備え用に現地徴用されてきたんです。まったく人使いが荒い方々ですよ。」

「ほへぇ……」


 レミヒオが端的に説明するに、自分たちが乗ってきた船が沈没するような行為をする際に目立たず小回りがきく小舟を随伴させておき、万が一沈んだら拾ってもらう、というような作戦であったらしい。


「それで、何故壁なんか? 」

「あ、そ、そうです、えっと、フィリベルトさんたちですよね上で戦っておられるの? 一緒に捕まっていた人が大変で……! えっと、人質として役立ってもらうって連れて行かれてしまって……」


 わちゃわちゃしだしたスサーナに、安心させるようにレミヒオが首を振った。


「多分大丈夫だと思いますよ。あの人達も遅れは取らないでしょうし。大事な人質なら即死はさせられないでしょう。」

「即死」

「即死しなければなんとでもなりますよ。実はちょっとした大事になってるので。まあ、万が一騎士様達が押し負けても大勢に影響はないです。その人はちょっと怖い目に遭うかも知れませんけど、死にません。」

「押し負けたら大問題なのでは……?」

「魔術師が出張ってきてるんですよ。島のではないですけど。」


 空の彼方をレミヒオが視線で指す。上空のはるか向こう、朝の雲に紛れてしまいそうな、羽ペンの先を軽く付けたような小さな鈍色の点がどうやら彼の視線の先らしかった。


「魔術師さんが」

「基本的に傍観だそうで、事態がまずくなるまでは降りてこないでしょうが、まずくなったら降りてくるそうなので。」


 ああ、それは大丈夫だ。

 クロエもフィリベルトもそれなら怪我したり死んだり、ともかくきっとどんな悪い状態にはなるまい。

 スサーナは全力で納得し、急に物凄く疲労と不調を実感し、くにゃくにゃと小舟に座り込んだ。


 これで一件落着だ。誘拐犯たちは捕まるだろうし、あとは騎士様に任せれば司法の手がなんだかうまいことやってくれるだろう。犯人が別の国の人間で、国の貴族の暗殺を企んでいて、さらに誘拐されていたクロエがなんだかとても重要な技能を持っているという事態だから、なんらかの国際問題になるんだろうか。だがもうそこまで行くと自分にはなんの関係も――

 あっ。


 視界の半ばを塞ぐ自分の髪。覗き込んでくるレミヒオ。共通点、同じ特徴のひと。スサーナは油の切れたブリキ人形みたいな気持ちで、それでもなんとか再起動する。


「すごい、それは安心……、あっ、いえでも、あの、話はかわるというかかわらないというか、その、大事おおごとってことは犯人の人たちって捕まったらもしかしなくても」

「……? それは死罪でしょうね。当然。」


 安心するどころか逆にさらにわたわたしだしたスサーナにレミヒオは首を傾げた。

 いくらお人好しの彼女でもまさか誘拐犯に同情はしないだろうと思っていたのだが。


「いえあの、鳥の民、あの、糸の魔法を使う人がいて、えっとお嬢様と勘違いして誘拐されたってバレて殺されそうになったんですけど助けてもらったんです。誘拐犯の仲間……ではあるんですけど! なんだかワケありみたいで!」


 レミヒオはその言葉を聞いて眉をひそめる。彼が把握している情報では、はぐれものが糸の魔法を使うような使い手だという話は無かったのだが。


「と言っても、最初にスサーナさんを誘拐したのがそいつでは?」

「ええ、そうなんですけど、悪い人なんですけど悪い人じゃないような気がして……あの窓を開ける鍵もその人がこっそりくれたんです」

「なるほど」


 レミヒオは瞑目し、短く思考する。

 はぐれものとはいえ姫宮への敬意は魂の底に消え残っていたか。

 血が濃いというなら常民の法ごときに従って縛り首などにさせるのは惜しいがしかし――


「うう、なんとか情状酌量の余地があればいいんですけど」


 上を向いて心配そうにぼやいた娘を見て、彼は眉間にシワを寄せてため息を付いた。


「わかりました。スサーナさん、何か硬いものを持っていませんか」

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