第116話 艱難玉には迷惑千万。 4
さて、痛みとは結局どういうものだろうか。スサーナはそう思考していた。
なにも哲学を始めたというわけではない。
ぐっと患部の肉が腫れて血管を抑えていて、その中を血液が通るから柔らかい傷んだところが押されて鼓動のたびにずくずくと息が止まるような感触がやってくるわけである。そのずくんも分解してみれば起こるそのたびにずくんの感触に対応して呼吸とか血圧とかが変動してくるのが結局辛いのであって、痛みが辛いというのとも少し違うのではなかろうか。痛みの感覚だけ抜き出してみると触覚をとても強くしたのに近く――
――こう、分解して考えてみればそこまで辛くないのでは。筋肉がきゅっとなるのを強いて阻害してみればですね――
自分を騙す作業の真っ最中である。
自分を騙しているだけだが、それもなかなか馬鹿には出来ない。厳密に要素要素を一つ一つ抜いていくと最後に残る痛みとは一体、とか。なぜこの感覚を不快と感じるのだろう、とかやりだすと、多少の傷みぐらいなら誤魔化されてくれるのだ。
――ようしオッケイ立てる、立てる立てる、立てるはず。
欺瞞を心に起き上がる。波らしい大きな揺れに足元がふらつき、体重がかかって背中の血が引いたがなんとか立ち上がれた。
スサーナは呻きながら部屋の中をよろよろと一周見て回る。
どうやら居室というより倉庫という感じのごく狭い室内。全体的に潮臭い。多分あの偉そうな貴族が過ごす部屋は別にあるのだろう。鍵で閉められた船窓。ドアは1つですぐ外に人の気配。
――ううっ、今度こそこれは逃げ場がない……
逃げるすきがあったとしても船の上だ。よほど遠泳が得意でもなければどうしようもない。
物音に気づいたらしい青年が扉を開けて入ってくる。
「大人しくしてろと言っただろうが」
「大人しくはしてます……。ちょっと立っただけでして……特に何も……」
首を振りかけたところ、おいやめとけ、と声がかかった。きょとんとしたスサーナに青年は渋い顔をする。
「頭に傷があるんだぞお前、わかってんのか」
スサーナはおう、と目を見開いた。
気遣われた。
これは、依然最悪の事態というわけでは無い気がする。
座れ、という素振りを受けてスサーナはその場にペタンと座り込んだ。
「ええと、ありがとうございます……。コブになってる程度で、割れてないですし、大丈夫だとは思います……。」
スサーナは頭の傷に軽く触れて確かめ、青年に向けてふにゃーっと笑ってみせる。
運良く大きな傷ではない。多少切れていて額に垂れた血がパリパリとした感触があり、今鏡で自分を見たらスプラッタな状態かもしれないが、傷自体は乾いて固まっている。
主体はコブだし、舌も回るし、体も痺れていないし、現状脳出血とかの重篤な事態になっているという気はしない。
「チッ……」
「ええと、あのう。」
態度が軟化している気配に乗じて、スサーナは現状をなんとか聞き出してみようと試みる。
「その、お兄さん。この船はどこに行くんでしょう……?」
「……」
青年の沈黙に、流石に答えてはもらえないかと思ったスサーナだったが、少ししてぼそりと返答があった。
「アナトラ島。」
「アナトラ……聞いたことのない島です……諸島の、外?」
「こっちでの呼び名だからな。ヤロークからの中継地点に使う無人島だ。」
「……もしかして、最終的にヤロークに向かう……?」
「そういうこともあるかもな。だがあの伯とやらを誘き出すから、まずしばらくは島だろうよ。」
「えっ、まさか本島外に呼び出すおつもりなんですか……?」
「それはご主人サマのお考え次第ってやつだ。人質は島外に置いておいたほうがやりやすい」
なるほど考えられてはいたのだ、とスサーナは思う。人質を離島に置いておくのは確か前世でも聞いたことがある。サルディニア島の誘拐ビジネスとかだ。
「もういいだろ。暴れてもなんの得もないぜ。いいな。……着くまでは一日近く掛かる。水ぐらいは持ってくるから、大人しく寝てでもいろ。」
青年はそう念を押して部屋を出、すぐに壁にかける水袋を1つ持ってきて、また去っていった。
……少なくとも脱水症状は起こさず済みそうだ。
スサーナはぽてんと脱力する。
出来ることが今度こそなにもない。後はせいぜい祈るぐらいだ。
その事を渋々認めたスサーナはクロエの横で丸くなった。
――もっと早く逃げておけばなんとかなったかもしれませんよね。ああ、でも、そしたらクロエさんがどうなっていたか。
結局、無力で何も出来ないのに他人が気になるのが悪いのだ。スサーナはその事を認めつつも、あまり改善できる気がなんとなくしなかった。
――あのひとが次行くところはどこかの島だと言っていましたよね。そこで逃げるチャンスはあるかも知れない。
今ジタバタしても多分仕方がない。
スサーナはポケットに入れたお守りがわりのハンカチを景気づけに握り、今のうちに一休みすることにして脱力し、その途端に糸が切れたように眠った。
それからしばらくして、洋上にて。
予定通りの時間に帆を張り、アナトラ島を目指した漕手たちは異常事態に色めき立っていた。
「どうした! なにがあった!!」
「それが、風がおかしいんでさ! 回っちまってる!」
怒鳴りつけたブルーノに泡を食った操舵手が答える。
風がおかしい。西から東に吹くはずの風がまるでマストの周りをぐるぐると回るかのような吹き方をしている。
ジグザグに帆に風を受けたとしてもろくに船体が進まない。
櫓を海に下ろした船員が悲鳴をあげる。潮もおかしかった。
「これまでにこのようなことはあったのか!」
「ありません!初めてです!!」
蜂の巣をつついたような船上。そこに、さらに緊迫した船員の声が響いた。
「日暮れの方向ー、船ですー! 近づいてきますー!!」
昇り始めた太陽の反対側。いまだ薄暗い西の海上から、小型船がどんどんと近寄ってくる。
ただでさえ前に進まぬ奇妙な事態だ。距離が離れる要素がない。
船員たちは緊張した。
この航路はいわゆる海賊航路だ。正規の船が走るルートではない。
つまり、わざわざ他の船にごく近づくということはあまり行儀が良くない行為で、大抵はあまり友好的ではない意図を持ってなされる。
「旗は!」
「上がりません!」
「銛と弩用意しろ!」
救援依頼、もしくは接近する意図を示す旗も上がる様子はない。船員たちは叫び交わし、操船に携わっていたうちの数人が船べりの武装に走った。
この帆船はもともと後ろ暗い意図で用意された運び屋の船だ。乗組員の人数も最低限に抑えてある。たちまち船が風に取られ、大きく揺れた。
数丁の弩から矢が放たれる。矢のひとつが小船まで届き、帆に突き刺さった。
そして、それに応えるように速度を緩めぬ小船の舳先に船首旗が掲げられる。
「ちっ……!」
ヴァリウサの王立騎士団の紋章。諸侯騎士団ですらない、王の威光を背負った印。王家の大鷲とザクロの花枝があしらわれたそれはこのような辺境では見るはずもない代物だった。
「王立騎士団だと!? 馬鹿な。なぜこんな場所に……!?」
諸侯の統べる騎士団であれば他国の貴族である彼に手出しをすることは難しい。たとえそれが許可された航路ではない場所で、密輸品……他国から誘拐された人間と一緒に発見されたとしてもだ。
しかし、王立騎士団相手であれば話は別。王から直接の契約の庇護を賜り、さらに神殿の承認を受けた騎士たちは自国の為政者の殺害をしてすら部分的に第三項の制限を受けないほどの強い権利を持っていた。ゆえに彼らは他国の貴族であれど犯罪者として捕縛する強権がある。国同士の関係もあり、多くはその後賠償金を支払うだけで済むが、特にまずい類の犯罪はそうもいかない。更に言えばヴァリウサは高い国力で他国の反発を黙殺することが出来る立場だった。
彼の立場としては、最も出会いたくない種類の紋章だった。
――――――――
「よしアラノ!速度あげろ!」
「今やってます!」
甲板に立った騎士は威勢よく叫んだ。
目的の中型の帆船はどんどんと近づいてくる。
「船腹にぶつけろ! こっちの鼻先のほうが頑丈だ! のちに移乗攻撃!
「ほ、本気ですかフィリベルト様!? こちらにも危険が……」
「当然! 騎士物語ってのは大体そうやってるもんだろうが!」
「りょ、了解しました! 体当り後に移乗!」
及び腰の従騎士に声を投げかけ、ロープを体に巻いた騎士は引き抜いた剣先で帆船を指す。そして彼は足を踏みしめて豪快に笑った。
「ははははは! よし気張れよアラノ! 囚われの姫君を救い出す、これほどの
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