第115話 艱難玉には迷惑千万。 3
ヤローク貴族リッカルド・インギッレリは甲板で明け方前の海を見ていた。
ここ最近、彼の周囲はあまり芳しくなかった。
塔の諸島と呼ばれる場所を切り取るために隣国ヴァリウサの端、エステラゴ領の次期の領主の座を望む領主の次男に取り入る。それが今の彼の行っていることだ。
エステラゴ領主の次男に持ちかけた有形無形の取引を、したり顔の
大領主との親しい付き合い。王族とのコネ。セルカ伯の言葉は無視し難いのではないか、という風潮がじわじわと広がりかけている。
ヤロークのやり方、術式付与品へ魔力を再装填するための儀式場の作り方を領主の次男に伝えたのは彼だった。
場が穏健派に傾き出すのはあまり好ましくない。
領主の次男に賛同するものたちにじわじわと不満感を撒き、蜂起やむなしという風潮を広げる、いまだその途上だ。
火勢が収まり、疑念の目がこちらに向きやすくなれば厄介であったし、そうなれば彼に協力する者も手を引きかねない。
流れが大きくなる前に彼はセルカ伯を排除することに決めた。
長男の親族たちが動いているという調べはついていたため、次男の周りの古い臣下が殺されたとしてもそちらの仕業で十分説明は立つはずだった。
「――運のいい男だ。」
彼はシルエットのように見える港を目を細めて眺めた。
今回の失敗は予想の外だった。
あれだけ人の気配に鋭い黒犬がなんの武術も修めぬ娘に気づかずぶつかるということはいまいち考えられない話だ。大方、あの庶子かもしれないという娘の見た目に黒犬が動揺して手が鈍ったということだろう。
「運がいいと言えばあの騎士もか、愚かだが厄介な――」
人質にとってきたというのも最善手とは言えない状況だった。
あの、セルカ伯の親類という騎士。遍歴騎士らしく様々なことに頭を突っ込みたがる騎士がこの二年で島に用意した拠点をいくつも台無しにしたばかりだったからだ。
本土で誘拐された美しい令嬢が島の何処かで見られたらしい、という不確かな酒場の噂に飛びついた休暇中の夢見がちな遍歴騎士。
“おお、悪い魔術師に攫われたに違いない! これぞ騎士の本懐!”
などと吹いて手当たり次第に盗賊のねぐらや如何わしい淫売宿に飛び込むぐらいでは宴の場に滑稽噺の種と嘲笑を添える程度だが、彼が滅茶苦茶にした場所に本物の拠点がいくつも混ざっていたのでたまらない。
派手に大暴れして滅茶苦茶にするので警吏だの衛兵だのがどうしてもやってくる。近隣の注目も引く。そうなった場所はしばらくは近づけない。
そのため最善の拠点は使えず、不運は重なることに、捕らえていた学者の監禁場所も危ないと報告を受けたばかり。念の為で確保していた廃屋、一時的な密輸品の保管に使う倉庫を使う羽目になった。加えてどちらも女という侮りがあったことも認めるが――結果、大事にはならなかったものの船が着く前に学者と娘の脱走を招いたのだ。
彼は彼の立つすぐ脇、階下の船室から出てきた黒犬を見た。彼の飼い犬は視線に応えて深く首を下げる。
黒犬が出てくるのをみとめて歩み寄ってきた
「どうだ、下は。」
「……どちらも死ぬ様子はない。」
「ふん。アナトラ島へ向けて帆を張れるのは後どのぐらいか聞いてこい」
ブルーノの言葉に黒犬は黙って操舵手の方へ歩いていった。
「ブルーノ」
彼は黒犬を見送り、船室の扉に目を向けた腹心に声を掛ける。
「殺すなよ。」
どうやら図星らしく、びくっと肩を揺らしたのが面白い。
「はっ、しかし……。手や足をとっておけば脅迫の用は足ります。あのような娘、生かしておいても得は……」
「手足も新しいほうが良かろう。それに、飼えば得をする鳥かもしれぬ。魔法を使うなら良し、でなくとも黒犬が魔法の才に目覚めたと言うなら使いみちはたんとあろう」
彼が諌めると憮然とした顔をする。
どうやら、脱走をされたのがよほど気に食わなかったと見える。彼は忍び笑った。
傭兵出身のブルーノは直情で視野が狭い男だが、彼に対する忠誠心は折り紙付きだ。黒犬が直接彼の側近くで召し使われるのを嫌い、事ある事に自分の優位性を示したがるのが犬の噛み合いのようで多少難儀だが、普段ならさほど言うことでもない。
しかし、彼は漂泊民もその魔法も胡散臭いと言って好んでいない。多分今彼が釘を刺さねば、哀れな小鳥は首をひねるなり水に沈められるなりして処分されていたことだろう。
「そう渋るな。あの鳥、掘り出し物かもしれぬぞ」
「そうは思いません。漂泊民の女など、必ず不運を招きます」
「ははは、貴様の強情さには頭が下がる、なあブルーノ。だが駄目だ。」
不運。不運と言うならここのところこれまでこそがそうだったが、あの娘を捕らえたことは運が向いてきたほうに入れてよかろう。そう彼は思う。
セルカ伯が家内で黒髪の奴隷を好んで使っているというのは聞いていた。随分な黒髪びいきらしい、とも。
その話を聞いた時には明らかではなかったが、混血の庶子がいるというのはありそうな話だ。
下で黒犬が交わした会話も耳に届いた。娘本人が混血だというなら嘘をつく理由もないだろう。
家内に隠した庶子を誘拐されたというのはちょっとしたスキャンダルになる。捨て置いてはおけまい。
実際そうではなくてすら、噂だけでも多少の痛手になる事象だ。脅迫状でほのめかしてやればよい反応があるかも知れない。
正式な娘を誘拐したというより、誘き出すにはいいネタであったとすら言える。貴族教育を施した娘や息子相手なら、時に家名や忠義の名のもとに非情な判断をすることは英断と讃えられることがあるのだ。下手に株を上げさせるのはあまりいい事態とは呼べない。
もしそのあてが外れても、魔法の使い手を得たというならば素晴らしい成果だ。
娘が混血だと言うなら魔法の使い手は黒犬。噂通り同族を損なえばいいというなら楽でいい。十分試す価値はあるし、その過程で自在に使えるようになれば儲けものだ。付随して、噂通り発動条件が身内意識だというなら――黒犬の挙動を見るに、どうやらそれは嘘ではなさそうだ――いわば人質として使える相手が一つ増えたということでもあり、精々逆らう踏ん切りがつかない程度に加減して妹と重ねさせてやればいい。それはそれで引き綱の加減に都合がよかった。
学者の女が懐いたようなのも予想外の好事だった。
自分の体を傷つけられても堪えないものでも、なぜか親しいものを損なわれることに耐えられないものはいくらでもいる。
埠頭での様子を見るに、あの学者の女もその類のものだと知れた。
彼が本国で破滅させ、後釜に座った貴族が持っていた文字盤。数多くのものが争い、手元に転がり込んできたネーゲのそれを解読させることで強い権勢を得るためにアウルミアの言語学者をわざわざ攫わせたのだ。
女と侮っていた。もっと御しやすく痛みに弱いだろうと考えていたが、あそこまで強情だとは思ってもみなかった。
だが、あの娘を使えばもっと扱いやすくなるだろう。
「アナトラ島向きに風が吹き出すには後一時間ほどと――」
戻ってきた黒犬が跪く。彼は手を振ってねぎらってやった。
アナトラ島は諸島の無人の小島のひとつ。ヤロークからの密入国の中継地点として使いやすい場所だ。本島から離れ、移動に一手間かかるようになるが、入り組んだ潮流の中、無人の小島が連なる場所にあり、外から発見される可能性は大きく下がる。最悪の場合にはヤロークに移動することも他の場所に比べれば容易だ。
飼い慣らすのに時間はたっぷりある。彼はそう考えて笑った。
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