第113話 艱難玉には迷惑千万。 1(セルレあり 暴力)

 走る。

 飛び降りたときから右の足首が痺れたようになっている。痛みというより衝撃を受けたあとの感覚がずっと続いている。


 ――これ、本当は痛いのかもしれませんね。

 スサーナはそう薄々思いながらも走る。興奮で痛みがわからなくなっているだけという可能性が高い。だが、後々ひどく痛むにしても、それは後の事だ。


 がくり、と腕が引っぱられる。振り向けば手を握ったクロエがつんのめりかける所だった。

 ――クロエさん……!

 クロエは数歩走って息が上がった。当然だ。むしろ下まで降りられたことだけで称賛すべき体調だ。


 それでも一旦休んでもらう、という訳にはいかない。

 追手が外に出てくるまでにどれだけ距離を稼げるかが運命を分ける。せめて隠れられる場所、先日のフィリベルトがそうしたように、水路かなにかにたどり着くまでは走らなくてはならなかった。


 だから、スサーナはクロエがふらついたのを見てすぐその手を取った。子供の走る速度とはいえ、倒れそうなクロエを一人で走らせるよりマシに思えた。

 そして、今、スサーナはそのままではそこに崩折れてしまうクロエの手を必死で引いている。


「もう、ちょっと、ですから……っ!」


 ――もうすこし。もうちょっとだけ頑張って、走って。

 詮無いことと解りながらも祈るように思考する。


 建物は港の端、待機用の水路の側に建っていた。人気のない外周部を、道なりに走ったとしてもほんの数百メートル。たったそれだけを超えれば人の気配のある、隠れようのある場所にたどり着く。

 だが、いまはたったそれだけが永遠のように遠くに感じた。


 ――やっぱり、待っててもらって助けを呼んでくるのを待ってもらったほうが良かったのかも。

 スサーナは気をはやらせながら悔いる。しかし、選ばなかったからこその迷いだとも感じている。もし船に乗せられるのならきっとその間に移動させられていた可能性が高い。それに、人質の扱いが荒いのはクロエがこんなに具合を崩していることではっきりしていた。

 代替えの効かない専門職として丁重に扱われる、というふうにはどうしても思えない。冷静に考える相手なら無いはずの、感情に任せて死ぬまで暴行を受ける、という未来が無いとはスサーナにはお世辞にも言い切れなかった。


 ばたばたと後ろの方から荒い足音が響いてくる。あれから人を呼んで入り口まで行って追ってくるのには早すぎるというわけでも遅すぎるというわけでもない時間。なにかすごくいい具合の偶然が起こって手間取ってくれるということは残念ながらなかったようだ。


 スサーナは足を速める。

 走りながら横目で建物の合間合間から見える水路の方を見やった。

 船体と、縄の軋む音。

 そこに停泊されていたのは、ずんぐりした縦帆船だった。

 黒に近い灰色は、経年の汚れなのか、それとも人目につかぬようにそう塗っているのかわからないながら、スサーナにひたすら不吉な印象を与える。

 窓に被布を張ったのか、船窓から灯りは見えず、船首に吊るしたごく光を抑えたランプだけがうすぼんやりと光っている。

 まるで幽霊船のようだったが、静かに舫い綱を係柱に繋いでいるのは生きた人間の水夫に間違いがない。


 ――どこからどう見ても堅気の船には見えませんよねえ!

 スサーナたちの件には全然関係のない後ろ暗い船だ、という可能性もないではないが、それは希望的観測にすぎる、とスサーナ自身も思っていた。


 クロエはこれに乗せられるためにここへ運ばれてきた確率が高い。

 セルカ伯への見せ金の必要があるだろう人質である自分お嬢様は微妙なところであるが、設備のちゃんとした拠点が本島の外、捜索の手が及びづらい場所、例えば諸島に数ある無人島や最悪国外にあって、そこから服や装飾品、ともすれば髪や指を送りつけて焦らせる計画だ、という可能性は十分考えられた。


 ここで捕まってはいけない。

 船に乗せて島から出されたら、誰かが見つけてくれる可能性は非常に下がる。自分で逃亡できる可能性もだ。

 同時にそれはセルカ伯たちへ暗殺の警告をすることが不可能になるのと同義だ。


 走る、走る。

 後ろの足音が近づいてくる。


「居たぞぉ!」

「待て!止まれ!」


 ――見つかった……!

 足音が指向性をもって近づいてくる。後ろを確認する余裕はない。

 走る。


「うぁっ」


 ふらついたクロエが敷石に足を取られた。


「あっ」


 手が離れる。


 その瞬間が来たらクロエは諦めて速度を上げれば追手はクロエに掛り切りになるだろう。逃げるにはそれしかないかもしれない。そう既にスサーナは走りながら考えていた。

 しかし反射的に足が緩む。


「クロエさん!」


 地面に手をついて起き上がろうとしているクロエに振り向く。


「早く」


 スサーナは手を差し伸ばし、数呼吸ほどの時間はあったろうか。跳ね飛ばされ、石畳に叩きつけられた。

 衝撃で吐いた息が止まる。

 石畳の上で身をよじりながらかふっと二息目を吐き出し、スサーナは少し遅れて事態を把握した。


 追いついてきた誰かがスサーナの胴をラリアットめいて打ち据えたのだ。

 骨格の無事を斟酌する前に、膝で勢いよく腹を押さえつけられる。


「ぁぐっ!」


 スサーナを押さえつけたのは破落戸の一人だ。クロエも背に膝を入れられるような恰好で地面にうつ伏せに押さえつけられているのが見えた。


 視界に追いついてくる他の男たちが映る。ブルーノ、青年。そしてあの偉そうな男だ。

 スサーナは焦りのなかで、そういえばこの地を離れるとか言っていたな、そのための船か、とちらりと考える。


「小娘ぇっ!」


 起こった怒声はブルーノのものだ。


「手間を掛けさせおって!」


 ――あんなに杜撰だったくせに、なにが。

 つかつかと歩み寄ってきたブルーノが足をあげるのが見えた。一瞬後にぐわん、と頭が揺れる。蹴られたのだと理解したのはまた一瞬後だった。


 靴のつま先か、底に引っかかった小石か、ともかくなにかがぴりっと冷えたような感覚を頬に残す。どうやら切れたらしい。変に冷静な頭の何処かでスサーナは判断した。

 頭の衝撃が痛みとして認識される前に、どのぐらいのダメージが来るのかと推し量る。

 頭は洒落にならない。こめかみでなくてよかった。目でもない。歯も折れていない。

 今更腹と背と足首がじんじんと拍動し跳ね上がるようだが、それは二の次でいい。


 ――ここでも街中、いちかばちか、大声を上げて――

 スサーナは声を上げようと試みたが、直後、切れた頬の内側から喉に流れ込んでくる血に噎せ、けほけほと喉を鳴らした。


 憤懣やるかたないという様子のブルーノが倒れたスサーナの髪を覆い越しに掴み、乱暴に引き上げようとし、そして動きを止める。


「なんだ!これは!!」


 ヴェールの下から滑り落ちた黒髪が乱れ、血を吸って頬に張り付いた。


 ――ああ。まずい。バレた。


 ヴェールを握ったブルーノが頬をひきつらせ、次の瞬間かっと怒りで顔を朱に染める。


「貴様……! 騙したなっ!?」


 騙したも何も勝手に勘違いされて連れてこられたのだ。

 理不尽な言葉だったが、それにかかずらっている余裕はスサーナにはなかった。


 ブルーノが腰にいた剣を抜いたのが見えた。


 ――ああ――これはほんとうに、不味い――


 抑えられたクロエが何をするんですやめて、と悲鳴をあげるのが聞こえる。

 ブルーノの怒りに任せたという表情。唇がブルブルと震えているのが妙にはっきりスサーナの意識に残る。

 薄い月光に鈍く光る剣が振り上げられた。


「おい、やめろ! 殺すな!」


 貴族らしい男が歩んでくるその横に居た黒髪の青年がそれを見て焦ったように叫び、駆け寄ってくるのが意識の外の視界に映り込む。


 スサーナは身じろぎもできぬよう押さえつけられたまま、振り落とされる切っ先から目が離せなくなっていた。





 その一瞬後、その場に色彩イロが満ちる。


 青年がブルーノの後ろから腕を抑えかけたまま呆然と動きを止めた。

 剣は振り下ろされかけた形で止まっている。その刀身には淡く光る羊歯様の葉が巻き付いている。

 草の根が張るはずのない石畳にざわざわと優美な青草のかたちをしたものが這い伸び、てんでに人の足や腕に絡み、淡い光の粉を散らした。


「なん、だ、これは」


 ブルーノの腕には今や幾重にも藤や萩に似た植物、いや、色ガラスで作る影絵に似た光が絡んでいる。彼の目に理解出来ないものへの恐れと狼狽が浮かんだ。腕をひこうとするがそれすら果たせない。


 その目前に居た少女は驚愕と困惑の表情を浮かべて目を見開き、剣先を見つめたまま動かずにいる。

 彼女を押さえつけていた破落戸は幾重にも蔦に絡め取られ、恐怖の表情の元、娘の上からずり落ちていた。

 もう一人の捕虜は地に伏したまま動かない。どうやら気絶なりしたようだった。

 女を抑えていた破落戸も草に絡まれて恐慌を起こしている。


 その場の何もかもが息を止めたかのような数瞬。最初に行動を起こしたのはあにはからんや、少し離れて青草に絡まれず済んだ貴族めいた男だった。


「これは……、漂泊民カミナの魔法というやつか。」


 男の言葉に青年がはっと表情を取り戻す。一瞬の逡巡の後にいまだ硬直しているブルーノを押しのけ、凍りついたように動きを止めたままの娘の二の腕を掴んだ。


「その娘、魔法使いか? 黒犬よわかるか。それともお前が庇ったか? お前の才かな。」


 彼に持ち上げられた娘はかくりと首を落とす。絹糸めいた黒髪がさんと垂れ下がった。

 そのまま全身が脱力し、ずるずると滑り落ちかける。黒犬と呼ばれた青年は我知らず娘の胴に腕を入れて支えかけた。


「あ、主様」


 絡んだ青草をようよう引き離し、ようやく動けるようになったブルーノが平伏する。


「どうぞお許しを。黒犬めがしくじったゆえに娘の真贋を見極める時間がなく、このような偽物を……」

「どの口が……。」


 低い声で言った青年がブルーノを睨みつける。


「この娘、伯の庶子かと思われます。別に狙って一杯食わされたわけじゃない。……どっちにせよ伯や騎士を誘き出せればいいんだ。十分使えるのに殺したんじゃ割にあわん」


 男は何やら面白げに笑う。


「ははは。縁者には違いなかろう。 黒犬の言うとおり、囮に使えさえすれば構うことではない。」

「はっ、いえ、己の判断の浅はかさに恥じ入るばかりで……」

「しかし良い拾い物をしたことよ。どう使うにしても悪くない余録だ。……漂泊民は便利なものだが、魔法使いとやらは珍しいのだそうだな、なあ黒犬。がそうなのか、それとも黒犬が才に目覚めたか。この娘が庶子と言うならお前かな――」


 男はいっそ優しげな声で言った。


「ああよく見ればお前の妹に似ているなあ? はぐれ烏を才に目覚めさせるには同じ巣の烏を損なってやればいいとか言う戯言、案外眉唾ではなかったか。お前が余計使えるようになってくれたなら俺は鼻が高いが。なあ黒犬よ――」


 気絶した娘を抱えた青年は黙って目を伏せた。

 幻のような青草は、光の欠片になり、散っては消える。薄く輝いていた埠頭は元の暗さを取り戻していった。

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