第101話 赤鉄鉱の犬 1
首と肩と背中が痛い。
スサーナは覚醒しかけのぼんやりとした意識でそう考えた。
この痛い感じにはうっすらとおぼえがある。
床の上でそのまま寝ちゃったときの感じ。
なんだっけ。なんで床で寝ちゃったんだっけ。
どこか痛くて我慢してるうちに意識が飛んだんだっけ?
違うなあ。そんなことなかったはず。
ええと――
ふにゃりふにゃりとした目覚めかけの思考から、はっと直前の状況を思い出す。
その瞬間、アドレナリンにやられて一気に意識が覚醒した。
――違う!違いますよ! ええっとなんか首を知らない人に抑えられて!
急いで飛び起きようとした体が妙な具合に突っ張り、べちん、と肩を打ち付けた。
――ぐえ。
スサーナは、手を後ろ手に縛られた状態で床の上に転がされていた。
服は黒いドレスのまま。髪覆いすら外されていないようだ。
次いで周囲を見渡すと、明らかにセルカ伯のお屋敷では見たことのない、見知らぬ部屋のようだった。
日本で言う山食パンを内側から見たような、平行に並んだ柱の間がアーチ状に盛り上がった天井。そう広い部屋ではない。これも前世に例えるなら八畳間ほどだろうか。
窓は少し高い位置に2つ。時間はどうやら夕方前らしい。随分と斜めの光。
倉庫か何か、そういう使われ方をしている部屋のようで、棚がいくつも壁際に並び、さらにごちゃごちゃと色々なものが乱雑に置かれていた。
周囲はしんとしていて、誰かが話したり動いたりしているような気配はない。
首を上げて自分の状態を確認する。
微妙に恐る恐るだったが、手足が足りないとか、よほど状態が変わっているということはなさそうだ。
――えーっと。
スサーナは心を落ち着かせようと、あえて一文字ずつしっかりえーっとと思考した。
体を動かしてみると、後ろ手で縛られた手首以外に、足首にも縄が巻かれている。
――これは、これは……誘拐?
気絶する直前の状況からして、どうにも間違いないように思われた。
スサーナは荒くなる息をなんとかゆっくりにし、喉から飛び出しそうに打っている心拍が収まってくるのを待った。
――心拍数が上がりすぎると頭がぼーっとしてくるの、戦いとか逃走のためには全く役に立たないのではと思っていましたけど、これ、認識範囲が狭くなるし最終的に駄目だったときに被食者が楽に死ねる的な作用の方よりなんでしょうかね。
馬鹿なことを考えつつ、だらんと筋肉を弛緩させる。
ぼやんと特に焦点を定めない視界に板張りの床が映る。埃っぽいにおい。
ああ、後で喉が痛くなりそう、と反射的に考えて、流石に今思う感想じゃないんじゃないかなあ、とスサーナは自分で少し面白くなってしまった。
それからしばらくしても誰か現れる様子はなく、なんとか心拍も呼吸も通常時と変わりないところまでおちついた。
現状を整理してみよう。
スサーナは考える。
なんだか出入りの商人さんの来る日にちがおかしいな?と思って台所をのぞいた所、見知らぬ黒髪の人が居て、なんだか……ああ、ここの娘がどうとか言っていた気がする。
――つまり、ええと。営利誘拐か、もしかしたら騎士様関連かも。どっちか……でしょうか?
どっちでもありうる。単純に最近あったことをつなげあわせる的な思考をすれば圧倒的に騎士の人の案件関連なのだが、貴族という階級は貴族なのだ。あらぬタイミングで営利誘拐を企画する人が現れたっておかしくはない。
でなかったらお金がなくて泥棒しようとしていたところからのやぶれかぶれの居直り誘拐というやつか。
他になにかスサーナの知らないなにかがある可能性もあるが、まあそんなところだろうと思われた。
――いや、居直り誘拐説が濃厚ですかねえ。
スサーナは手首を回したり引っ張ってみたりしつつ考えた。
縛り方が稚拙なのだ。
どうも手首を縛っているのは麻ひも的なにかのようだった。
手首を両側一緒くたにしてぐるぐる巻いて縛っているだけ。
本気で拘束したいなら尺骨の上側の細くなっているところをきつく巻いて、隙間ができないように両手首の間にも縄を通すべきだし、伸びる素材ではいけないし、親指のところの張り出しに刺さるように針金あたりを仕込んでおくべきではないか、とスサーナは思う。
そうしていないこの手首の紐は、たぶんちょっと無理をすれば抜ける。人工呼吸器をつけるときにつけられる抑制帯を抜けるよりも楽な所業であると思われた。
さらに、足の紐。これがなんの遠慮をしたのか靴下の上から縛られているのだ。
……もしかしたら、足が性的な扱いのこの場所的には捕虜にするときでも靴下に触らないとかそういうことは当然のことなのかも知れなくはあるのだが、少し厚手、かつほとんど伸び縮みのない布素材の靴下の上から縛られた縄は、こう、足先で靴下をずらしながら抜くようなやり方をすれば抜けるような気がするのだ。
――気がすると言うか、抜けますねこれ。
スサーナは、とりあえず周囲を見渡し、床に耳をつけて気配を探り、とりあえず誰も近くにはいなさそうだ、と判断して、それからいもむしのように転がって手近な棚のそばまで移動した。
棚の下角の浮いた部分めがけて腕を伸ばす。数回失敗してから端っこ部分になんとか手首を合わせたあいだの縄が少しかかる。ぐっと押し込むようにしてかかりを深くした。それを手がかりに、結び目を引っ掛けるようにして、棚の端で縄を抑えて引っ張る。同時に、左手に縄を一杯に食い込ませ、右手を抜く隙間を作る。
そしてスサーナは手首を回したり角度を変えたりしながら右手を抜きに掛かった。
紗綾は数回、誘拐されたらどう振る舞えばいいかの講習を受けたことがある。
それを思い出せば、下手にまず縄を解くのはあまり褒められた手段ではないのだが、逃げられそうなタイミングがあれば大胆に逃げろ、とも言っていた。
特に人質として丁重に扱われなさそうな時はそれが推奨される、という。
人違いだし、間違いなく髪覆いを外した瞬間にそれがバレる状況は、どう考えても丁重に扱われるとは思えない。ああ別人だったんだ、と逃してくれるやさしいせかいはそうそう存在しない気がするし、誘拐犯は多分黒髪のあの若者だ。
つまり、小二項が同国民の殺人を戒めているとはいえ、契約がスサーナを守ってくれるという希望的観測は成り立たない可能性がとても高い。
つまり、出来るなら逃げたほうがよく、となると周辺を確認したほうがいい。
周辺を確認するには縄を解いたほうがよく、たぶん解けるチャンスはいまが最大だろうとスサーナは思う。
しばらくいろいろと試したのち、なんとか右手が引き抜ける。毛羽立った麻らしい素材の縄のせいで手首が赤剥けみたいになってヒリヒリするが、まあ些細なことだ、とスサーナは思うことにした。
左手から縄を外し、足の縄を解く。
――さて。これで部屋の中と、窓から外も見られる、んでしょうか。ここが一階で、ドアか窓の鍵が開いていたら出られるかもしれないけど。出られなかった場合ちょっとまずいですかね。
一計を案じたスサーナは、外した麻縄で手首をスポンと抜けるぐらいの輪っかを作っておくことにした。人が来そうになったら嵌めるのだ。ガウンの袖が優雅に広がって隠れやすいこともあり、少し緩めてあるのはパッと見ただけではバレずに済むかもしれない。
長いドレスの裾が掛かる足も同様に。
出来上がったそれをすぐに付けやすい場所に置き、それからスサーナは立ち上がり、そこら辺を調べてみることにした。
まず、部屋の中は、ドアは一つだけで窓が2つ。棚がたくさん。麻袋がいくらか。木箱がいくらか。
失礼して棚の中を見たところ、中は古びた
――これは、本当に倉庫……それも、一般ご家庭の倉庫?
スサーナは首をかしげる。誘拐のイメージと今いる場所がいまいち一致しないのだ。
とはいえ、誘拐したら閉じ込められるような所、という印象は、なぜか地下牢の中みたいなぼんやりとしたイメージで構成されているのだが。
――とりあえずそこらへんにあるものは、えーと、台所関係の片付けものばっかり?どれもそう値段の張るものじゃないから、貴族のお家じゃなくて普通の商家か民家。ただ、普通のお家にしては食器の量が多い気がするから、もしかしたら食べ物屋さん?
思案し、あらためた物を元に戻し、それから窓に寄って、傍にあった木箱の上に乗り、さらにうんと背伸びをして外を見た。
それなりに見下ろした下に小さな庭園が見える。
残念なことに、飛び降りるには少し向かない高さに思える。切羽詰まれば出来ないこともない、というぐらいであるので、足をくじく覚悟をしてならなんとかなる可能性はある。胸に留めておこう、とスサーナは思った。
島の様式だが、島で一般的な中庭ではない、建物の周りにつくる庭。そして、その先には石の塀。
多分、食べ物屋で間違いない。スサーナは判断する。
店の横手にすこし空間を開けて、そこに多少の緑を植え、優雅感を出しつつも客の入りに合わせてそこにもテーブルを並べる、ということをやりがちな食べ物屋の作る裏庭に見えたからだ。
――なんで私、料理屋の二階に監禁されているんでしょう?
スサーナはそう考え、もう少し外を眺めてから、いや、二階じゃないな、と打ち消した。
窓の高さが微妙なのだ。
スサーナが箱の上に乗ってうんと背伸びをしてようやく覗ける高さの窓。室内からしても2mぐらいの高さだ。
その状態の窓から下を見て、大体4mぐらい。
二階の高窓だと思うとどうもちょっと低い。
それに、どうも普通の部屋の作りではないぼこぼことしたアーチ状の天井。外の構造も、ずっと横を見るとどうも同じぐらいの高さに普通の部屋の窓がある気配がする。
つまり、ここはいわゆる特別室。一階と二階の間に目立たぬように作った隠れた密談に使ったりする部屋だ。
とはいえ、普段よほど使わないのか、倉庫のような扱いをされて長いと見たが。
――どういう場所なのかはなんとなくわかりましたけど、じゃあどうしましょう。
多分島の中だ、という希望的観測を前提として、庭と囲う塀がある作りの料理屋、ということはすこし土地を贅沢に使える郊外だという可能性が高い。
そして、塀の向こうに他に建物がある様子だ、というところからすると野中の一軒家や山中の一軒家ではない。
スサーナはなんとか表まで出たら逃げられるような気がする、と考えた。まさかご近所すべてがグルというオチはないだろう。
じゃあそのためにはどうするか、だ。
運良く布のたぐいはこの部屋に結構ある。前世で読んだ誘拐モノのように布を繋いでロープにして窓から逃げるという手。
ただ、窓ははめ殺しで小さくて、室内から見てだいぶ高い。後、窓の周りにロープを結びやすい手がかりもなさそうだ。
とりあえずなんとか鍵を開けてドアから出てみる、という手。
――そういえば、ドアの確認ってまだしていませんでしたね。
縛ってあったので誘拐犯が安心していて、万が一ぐらいの可能性で鍵が開いている、という可能性もなくもない。
スサーナはドアにそっと近づき、ドアノブに手をかけかけて――
ドアの向こうから、板敷きの床を靴で踏むような、つまりこちらへ近づいてくると思われる足音がするのに気づき、縄の輪に飛びつくと手首と足首に通し、急いで床の上に転がった。
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