些事雑談 遥かなる眠りのほとり 3(注意書きあり)

【注:本編とは時間軸上無関係であり、読まなくとも展開に問題はありません。人によっては軽度~中軽度の胸糞と感じられる描写が大半を占めます。苦手な方は飛ばされてください。】









 強い目眩に苛まれた第三塔が目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。


 手足の感覚はあり、五感も存在する。自分が壊された、というような感覚はない。

 ……よほど強大な、たとえば国を滅ぼすような悪霊であっても魔術師を食い壊せるものは希少だ。そんなものがあの少女の中に潜んでいた、と思うのは少し無理がある。


 ――なんだ、ここは……?


 周囲を見回す。

 見たことのない植生。見たことのない地形。大気は見たことのない湿り気を帯びた色で遠景を曇らせている。薄くぼやけた温かいような青。

 異国。すくなくとも諸島の中ではない。魔術師はそう判断する。


 穏やかな景色のように思える。庭園だろうか。白い壁の上に黒色の見慣れぬ形式の張り出し屋根で囲まれた場所。


 足元は細かい丸石。諸島で見かけるような白い石灰岩質や大理石質の石もあるかと思えば、見も知らぬ石質の石も混ざる。周りには妙に手入れの行き届いた芝草。諸島で見るものとは違う木々。葉は見慣れぬやり方で刈り込まれている。


 精査しかけた第三塔は、注視すると細部が焦点が合わぬようにあいまいになるところがあることに気づく。全景を見るぶんには破綻なく、見ていない部分についてもなんとはなしに「何があるのかわかる」。

 ――漂泊民カミナたちの魔法? いや……何者かの記憶か?


 を専門にする塔では相手の深みに踏み入り、形を変える術が存在する。その術中の……むしろ術者の垣間見るありかたに似ているような気もする。


 知識の中にある似たものを並べ、可能性を検討しながら、いくつかの術式を組み上げる。


 高く澄んだ子供の声がした。

 彼と交差する軌道で小さな子供が歩んでくる。まるで魔術師がそこに存在しないような挙動。

 ぱたぱた、と走り出した子供は避けようとした彼に当たり、と通り抜けていく。

 ――幻影? いや――

 幻影と断じかけた第三塔は一瞬後にそれを否定する。

 小さな靴がふむ砂利は崩れ、踏みつけた草がたわんで戻っていく。「この場においては」あれは幻影ではなさそうだ。


 ――むしろ私のほうがこの場を真とするなら幻影に近いのか?

 足元の砂利石を蹴りつけ、なんの変化も起こさないのを確認する。

 組み上がった術式を起動させる。今の状態を知るためのもの。


 子供は頼りない足取りでどこかへ向かって歩いていく。

 奇妙な子供だ。黒い髪。諸島の民とは違う、異民族らしい顔立ち。しかしどことなく直前まで見ていた子供と共通する面影を感じなくもない。

 諸島では見ない意匠の服。女児おんなごのようだが、膝から下の足を露出するかたちのものを着せられている。かたちあるものが模様として織りだしてあるということは漂泊民なのか。見たことのない材質の靴。



 その子供は大きな松――松でも彼の見慣れたものとは種類も手入れも違うようだ――の根方、やんわりと小山のように土盛りされた場所に建てられた小さな建物の前に座り込む。一体何を示したものだか、朱色で塗られた柱が門かなにかの枠組みめいて組み合わされたものが建物の前に配置されている。


 子供がなにか喋る。知らない言語。 ……いや、意味は取れる。全く知らない言葉であるのに何を意図した音の羅列なのかがわかる。


「ゆーちゃん、きましたよ」


 そのまま子供はひとり声を上げ、なにやら一生懸命に喋ったり、笑ったりしているようだ。

 彼は言葉に耳を澄ます。何かの雑談。何やらの遊びを教えると言っている。相手がまるでいるような一人遊び? いや、違う。

 幼い子供の前に揺らぐ影が見える。幼い少女とも、陽炎めいて揺らぐ影とも思えるなにか。

 意識を凝らしても相手が何かはわからない。死霊か、精霊のたぐいか、神霊だろうとはわかる。だが見えているだけだ。そこにいるわけではない。目的の悪霊ではない。


 魔術師は困惑する。なんだろう、これは。先程から走らせた知覚の術式と考え合わせても間違いない。自分は多分何者かの意図、何者かの解釈のもとで再構成されたものを見ている。実体の移動ではない。夢のようなものだ。だが、しかし、なんのために?


 少し離れた場所に気配が生まれる。目を凝らす。女だ。まだ若い女。こちらも黒髪で、異民族らしい顔立ちをしている。血の気のない白いおもてに夜の底のような色をした瞳。感情のよくわからない目で幼子が声を上げるのを見ている。


 気配。気配がある。幼子にも動きにつれて起こる音、質量を思わせるという意味での気配はある。だが、それとは違う。


 女が目を伏せる。目を閉じ、そして目を上げて、何かに気づいた、という風にふ、と第三塔のほうに視線を向けた。


 こちらを知覚している。

 それはつまりこちらの魂に触れている、と同義だ。

 ――こいつか。


 魔術師は全身を緊張させ、術式を組みあげようとして――


 巻き上がり、うつろになり、曖昧になる世界に、果たせず終わった。



 次に彼が自己を認識したのはどうやら室内らしい場所だった。

 木材を多用した建材。足元は板床と草織物の組み合わせのようだった。

 奇妙であるが豪奢だ。彼はそう感じる。

 薄暗い天井際にしつらえられた木の間仕切り、どうやらある種の布か、紙で出来たらしい引き戸。そういう簡素な素材とも思える場所に異様に精緻な彫刻が彫り込まれ、金泥を多用した絵画が描かれている。

 梁際には奇妙に精密な肖像画が並び、うつろとも奇妙に生き生きしたとも思える目線で室内を睥睨している。

 天井には炎ではない明かり。魔術の明かりに似てはいるが、少し違うもののような気がした。


 ――ネーゲか?ここは……

 彼がそう推察したのは所々に使われた文字の形が叡智王文字と似た形式を持っているように思ったからだ。


 その部屋の只中で、先程見た娘が叱られていた。


「お嬢様、気味の悪い遊びは金輪際やめていただくよう申し上げましたよね?」

「はい、ごめんなさい」

「まったく、もう。人に迷惑ばかりかけて! 寝込んでばかりで今日もお幼稚にも行かないのに変な一人遊びはする!奥様がお可哀そうだとは思わないんですか!」

「ごめんなさ、ごめんなさい。ごっこあそびだったの。いもうとがほしくて、それで」

「どうしてそんな酷いことが言えるんです! 奥様がお可哀そうでしょう!」

「ごめんなさい、もうしません。もうそんなこといわないから、おかあさまにはそんなことしてたっておおしえしないで」


 酷くイライラした様子で声を荒げる老境に入りかけたかという年齢の女は奇妙な民族衣装らしい服を着ている。


 対する娘は先程と同じ衣服で、さほどの時間は経過していないだろうと思われた。

 小さくまとまり、身を縮めている。膝を折り、体重をかける座り方で、魔術師に尖った刻みを入れた石で行う拷問を否応なく思い出させた。


 童女に対ししばらく自覚だの相応しい振る舞いだの説教をした後に、老女は反省するようにと言った後に台所に下がると言って彼女をその場に残して背を向け、去っていく。

 幼い娘はしばらくそのまま四角く座っていたが、あるとき唐突に戸外に向けて開いた引き戸の方を眺めて足を崩した。ぼんやりとそちらの方に首を向け、見るともなしに外を見るようだった。


 その先にあるのはどうやら中庭と同じ用途をする場所らしい。諸島のしつらえよりもずっと海辺の灌木を備えた平地に似てはいたが、ある種の美意識の元に整えられた場所に見える。

 その庭へのルートを区切る狭い回廊……木で作られた廊下にさっきの女が姿を表した。

 それに近付こうとした魔術師は、幼い娘の目線が女を捉えたように動いたのに気づき、動きを止めた。


 女を捉えた、と思ったがそれは早とちりだったらしい。少女の目線は戸口に現れたうっすらした影に向けられていた。


「ごめんなさい」


 幼い目が伏せられる。


「あなたはいません。もうあそばないの。ごめんなさい。ごっこあそびだったの。もういもうとごっこはあきちゃった。」


 瞬いた目から涙の粒がこぼれる。それから上げた目は揺らぐ影を通り越してうつろに青い空に据えられていた。


「わたしなんにもみてない。うそっこのあそびはもうしないの。もうこないで。」


 薄く揺らぐなにかは数瞬後、背を向けてゆっくりと庭の奥へ去っていく。

 その様子を見つめていた女がゆっくりと一つ、首を振った。


 事態の推移に飲まれて女に近づくことを一時忘れていた魔術師は、はっと一歩歩みだし、そしてまた世界が荒くほどけていく。



 次に彼が見たのは先程に似た、もっと薄暗い部屋だった。

 大判の厚いクッションに似た寝具に先程の子供が横たわらされている。

 なにやら患っている様子だった。


「かあさま、おかあさま たすけて」


 喘ぎ声か譫言のような声。

 目線は必死に枕元の盆に置かれた、細筒ストローを刺したグラスに向いているように見えた。

 開いた口から見える舌が乾いている。高熱があるように思われた。

 腕が盆の方に伸び、宙を掻き、果たせず落ちる。


 職業意識、と言うべきか。症状を見ようと覗き込んだ彼の目の前で細い腕がぴんと突っ張り、がくがくと痙攣を始める。

 熱性けいれんか。白目をむいた子供に、おもわず屈み込んだ魔術師の手は当然ながら空を切る。

 泡を吹いた様子に慌てる。この状況が何かはわからないし、なんの関わりもない子供であることは間違いないのだが――

 ――なぜ誰もついていない!

 気道の確保を、せめて横を向かせてやらなくては。歯噛みした魔術師の前で、運よく、と言うべきか。痙攣は数分で終わった。


 意識が戻った様子で静かに泣き出した子供にほっと目を上げた先、僅かに光の漏れる紙製の引き戸の横に女が立っている。


 立ち上がった第三塔は女が細く開いた引き戸の向こうに耳を澄ませている気がして様子をうかがった。


 引き戸の向こうから声がする。


「紗綾は?」

「熱を出してしまって。奥の間で寝かせて貰っています。ああ、大したことはないですから、見に行くことはありません。貴方に感染うつってしまっては大変。」

「そう。なんだかそういうことが多くないか? あんまりそんな風じゃ良くないな。水泳を習わせなさい。」

「はい。本当に困った子で……」


 引き戸の此方側に立つ女が目を伏せる。これはなんなんだ、と問いかけかけた魔術師の前で、世界がまた綻びて、散った。



 次はまたそれによく似たような部屋で、今度はまた昼間のようだった。

 木枠に薄い白い紙を張った仕切り戸がぼやかす光を浴びて、幼い娘が天井を見つめて横たわっている。先程見たときよりかは少し成長しているように思えた。


「旦那様もおかわいそうに。ろくに跡継ぎも産めないような奥様なんて――」

「紗綾さんがいるから離婚も出来ないんでしょう?」

「あんな寝付いてばかりでろくに育たなさそうな……」

「いっそ早くお亡くなりにでもなれば、まだ言い訳はたつのにねえ」


 数人の女が少し離れたところで会話している気配に、魔術師は思わず娘を見る。

 彼女は目覚めている様子で、身じろぎもせずにただ天井を見つめているようだった。


 なんらかの予感にかられて目を上げると、女が居た。


「おい」


 声を掛ける。女の目線が彼を見る。


「これは――」


 世界が裏返る。



 数度そんなことを繰り返す。

 その度毎に幼い娘の時は少しずつ進み、彼女を見つめる女に面影が似通っていく。


 年を経るごとに快活を装うことを覚え、不調を隠すことを覚える様子が見え、他人事ながら魔術師は落ち着かない気持ちになった。


 その度毎に女は現れ、目を伏せ、または首を振り、そしてその度毎に周囲が崩れ落ち、再構成される。



「紗綾さんよかったわ。すっかり最近活発になって。明後日の後援会のパーティーはちゃんとお父様に付き添って挨拶できますね? あなたが物怖じしなくて嬉しいわ。そういうところはお父様に似たのね。お弁当は本当に要らないの?」

「はいお母様。食堂でいただきますから大丈夫です。」

「お車じゃなくても大丈夫なのね?」

「はい、電車で行きますから。……卒業までに公共交通機関に慣れるようにというのが学校の方針ですし、お父様にお許しいただけたとお聞きしました。」

「お迎えは」

「大丈夫です。お手伝いさんたちにご迷惑をかけては申し訳ないです。」

「そう。ねえ紗綾さん、帰ったらお父様からお話があるそうよ。先だっての模試、国語も地歴も一位だったのでしょう? そのお褒めだそう。私も鼻が高いです。」

「ありがとうございます。家の皆が協力してくださったおかげです。」

「ふふ、でも書庫に籠もって本ばかり読んでいてはいけないわ。お父様は新原の娘なら学問以外も出来て一人前だって」

「はいお母様。じゃあ、料理教室の選定はお任せしますね。お父様とお二人で下見していらしたらいいんじゃないかと思うんです。」

「まあ、紗綾さん」


 快活に親子の会話を交わした娘がネーゲ……いや、ネーゲではないのだろう、もっと先進的な文明と思われる凹凸のない石敷きの道を歩み、そのような道でのみ効率的に運用できると思われる車輪を駆動手段として採用した乗り物に座り込むのを見ながら魔術師はとてもイライラしていた。

 ……どうやら視点はこの娘のいる場所に即して移動するらしい。乗った覚えのない乗合馬車めいた乗り物の中で娘が鳩尾を抑えて細かく震えているのを見る。

 しばらくして降りた先、これもまた移動過程である様子の石造りの巨大な建物の中、駆け込んだ小さな流しが並ぶ場所で、彼女は表情の抜け落ちた顔で血の混ざった胃液を吐き出していた。

 しゃがみ込み、しばし膝を震わせて流しに縋り、そして――何事もなかったように立ち上がる。慣れた様子で水を流し、口を拭う。


 ――言わんことじゃない。

 言葉をかわしたわけでもないのに魔術師は文句をつけたくなった。この娘は、ろくな死に方をするまい。


 女が娘の後ろに立っているのが鏡越しに見える。娘は気付かない。


 魔術師は少し術式を調整する。

 この短い時間しか現れぬ――とは言うものの、経緯はずっと視ているのだろう、なにせそちらがこの「夢」の主体だ――女を捕らえるために、彼はずっと術式を練り上げていた。

 ひとの魂に根を張った悪霊を捕らえ、分離するためのものだ。

 無理に引き抜くよりも相手を知覚してうまく分離するほうが宿主になった人間のあとのダメージが少ない。

 彼自身を少しずつその内側から引き離す。自己の状態を正確に認識する。

 同時に現れるたびに気配を探り、それを捕らえるために特化していく。


 世界が崩れていく。

 後数度。それで十分だ。




「お母様、どうして」


 幾度かの場面を繰り返し、次に視たのは娘の後ろ姿だ。

 見たことのない黒い服。首にかかった真珠の頸飾りが映えるな、と馬鹿なことを思った。

 室内。白い布で覆われた祭壇らしい場所の前で座り込んでいる。花に満たされた祭壇。神々に捧げるものではないらしく、その証拠にあの母親らしい女の精密な肖像画が中央に飾られている。


「ごめんなさい、お母様。ごめんなさい。可哀想なお母様。私がもっとまともな……ちゃんとした、健康で立派な男の子とかなら、お父様とお幸せに過ごせたのに。」


 呆然と娘が言う。 向こうの端に女が立っているのが見える。今回はだいぶ早い。

 第三塔は術式を精密に調整していく。


「ごめんなさいお母様、でもよかった。私、ちゃんと大学に入ったし、一人暮らしもしたよ。お父様もお母様も安心してらしたよね。お父様とお母様でわたしのマンションの下見にも行った、二人で観劇にもオペラにも行ってらした、きっとお父様は今とても悲しんでおられる。」


「お父様とお母様を離婚させたりしなかった。ねえ、いい娘でしたでしょう? お母様はお父様のことがほんとうにお好きだったから。」


 娘が草織りの敷物にくずおれるように座り込み、澄んだ声で笑いだした。


「いい子だったよね? 私いい子でしたよね? ああ、――ああ!これでお役御免だ! 私長持ちしたよね! ねえよかった! お母様を失望させないで済んだ! もう頑張らなくていいんだ!」


 陰りのない声を張り上げ、首をのけぞらせて笑った娘に彼はゾッとする。

 娘を感情の見えぬ目で見下ろして祭壇の横に立つ女と、全く同じ顔をしていた。


「私にお婿を取れなくなってお父様予定が狂うかな。でも、まだお若いですもん。次の方をもらえばいい。お祖父様もお祖母様もずっと次の方をさがしてらっしゃいましたし。」


 笑いがぜえぜえとした息になり、唐突に娘はその場に崩れるように寝転がる。無意識に詰まった襟元を引き下げようとするその爪が掛かったか、首元に連ねた真珠がはぜてこぼれた。敷物に散らばり鈍く光る珠を拾い集めようともせず、娘は横倒しのまま膝を抱えるような姿勢で丸くなり、あー、と呻いた。


「うああ息くるしい。あー背中痛い。腰も。あーよかった。よかったなあ……」


 瞬いた娘の目が……黄色い。

 ――黄疸?

 けほ、と咳き込んで、不精に低い机に手だけ伸ばし取ったごく薄い紙で口を拭ったその跡、唾液か、痰のそのあとが黒い。肺胞出血の症状。

 ――おい。

 魔術師は思わずその肩に触れかけて、すり抜ける。抱きとめようとした指が空を切る。

 進み出てきた女が彼女の眼の前に立つ。双子のようにそっくりな……いや、まるで同一人物であるかのような二人の女。


 女が手を伸ばす。彼はなんとか思考を立て直す。女は十分すぎる時間に居た。


 術式を起動する。

 捕らえた。そう確信した。



 世界がぐしゃぐしゃにひずみ、潰れていく。

 だが、その場には彼と女が残った。



 術式に囚われた女は、ぼんやりと立ち尽くしているようだった。


「お前はなんだ。何をしていた。」


 第三塔の誰何にふわふわと僅かに目をさまよわせる。


『考えていたんです。どうすればよかったんだろうって』


 口も動かさぬまま、はっきりと思考が流れ込む。


「あれはお前の記憶か。」


 女はぼんやり目をさまよわせる。

 第三塔は特に触れたくないたぐいのものを見せられて非常に不機嫌だった。


 心残りをひたすら再生し続けるタイプの悪霊か。

 に同調し続けたならそれはさぞ気分も悪いだろう。


 吐き気にも似た感情に苛まれながら、魔術師は僅かに残し続けた冷静な部分で違和感を覚えていた。

 その類のにしては、再生されるものがはっきりしすぎているのではないだろうか。そういうものは最後の乾きや苦しみ、傷の痛みをいたずらに追体験させるばかりで、自我……と呼ぶべきだろうか、理屈ももはや曖昧なもののはずなのだ。


「お前が如何なる生を送ったかには同情しないわけではない」


 一応にも声を掛けて、用意してあった術式を展開する。なんとなく、そうする理屈を述べないといけないような気がした。


「だが、それで無関係の子供が死んでいいはずがない。」


 この状態は精神的同調だ。第三塔はいくつかの精査の結果そう判断していた。

 憑かれたものが悪夢を見せられる、それと同じプロセス。それに巻き込まれただけの話だ。


 いまだ契約を済ませていない幼い子供や、契約を済ませても脆弱な常民の魂ならいざ知らず、魔術師たる彼の魂は強靭だ。悪霊ごときに食い破られるではない。飲まれたままなら多少の問題はあるが、今の状態はこちらから、外から触れている――精神同調を仕掛けているのに近い。


 だから、この霊を捕らえて消してしまえばそれで終わりだ。同調状態から戻れない、などという間の抜けた事態は魔術師には縁がない。


 憐れむ感情を割り切る。何処のどんな相手であっても生きたさまを直接見せられれば同情し共感する部分がどこかにあるものだ。それで判断を誤っていいわけではない。


 発動する。

 それで終わる、はずだった。


 悪霊と患者の魂を切り離すはずだった術式に手応えがない。第三塔は動揺した。

 時間を掛けて対象を固定、組み上げた術式だ。強大な悪霊であってすら逃れられない、そのはずだ。それだけの精度と強度はもっている。

 ……相手が、死霊であるのならば。


「わたし うまれなおしてなんかきたく なかったのに」


 声が幼く感じる。いや、彼自身の認識の位相が変わったためか。

 


 これは生きている。生きた魂。あの子供の一部?

 魔術師は高速で思考する。生まれ直し。輪廻。それはある、存在する。魂があるのだからないはずがない。真の名が識別名として用いられるのは輪廻があるからだ。

 だがさっき見たあれはなんだ。あんな光景は世界の何処にもあるはずがない。ごく古い悪霊ならまだしも、輪廻を繰り返す魂が持っているようなものでは。

 いや、ネーゲの何処か、崩壊前に他国に隠された部分はああだったのか。



 輪廻の際に前の記憶が残ることはある。魂の汚れのようなものだ。輪廻を重視する彼ら魔術師であれば、消え残っているかもしれぬ古い知識の希少さ故に珍重されすらする現象。だが常民であれば悪霊憑きよりももっと稀な症例だ。子供にとってはありえない断片的で不鮮明な記憶。人格もなにも連続性のない、日記帳に混ざった異物のページのようなもの。普通はあそこまで強く作用するものではない。だがこの子供にそれが残った、と仮定するならば。幼い子どものこころはそれに掛かりきりになる。判断基準も成熟した思考もなにもない子供が圧倒的な情報量に晒される。


 ありそうな話だ。先程からずっと視ていた光景もすべてトラウマ的な働きをしそうなもの。それをなんとか噛み砕き理解しようと内面で繰り返しつづける。


 と、するなら。眼の前のこれは「自己救済者」か。


 普通に生まれ生きているならありうべからざる心的外傷を肩代りさせるための一時的なバッファ。異物を捕らえて隔離する働き。別のたましい、ではない。こころの一部だ。そういえば、これはその場に現れただけだ。注視していただけ。成人のように感じたが、それは予断に過ぎない。幼い子供のイメージする「大人」でおかしくない。


 それの働きが魂に触れたものまで巻き込むというのは考えづらいが、そういうものと予想して建てた術式ではなかったため、そういうこともある可能性は……ないでもない。本能的に生きようとする魂に対処なしに触れたようなものだからだ。


 まだ、魔術師の術式をすり抜ける悪霊と言うよりは有り得る話で、精査をしてもそこにある魂はひとつきり。魂の方で何かが起こっているのは確かなのにそこに外部からの何かは介在していない。それは確かだ。



 その手の記憶は染みか汚れのようなものだ。10の契約までにはほぼ消え失せるもの。

 それならば、対処の方法はある。


 魔術師はまず用心しながら慎重に同調をきはじめた。

 声を掛ける。


「大丈夫だ。あれは君のものじゃない。君の家族は君を愛している」


 幼い子供のこころには、魂に残った断片的な光景も今の家族も区別がつかないだろう。

 恐れたはずだ。


 その惑乱と恐れの想像はついた。多分、十分に。



 もはや幼い少女の形に見えるその形象が茫洋とした目で彼を見返す。


「でも、みんないなくなってしまうの」

「わたしだけが、ちがうの」

 わかるでしょう。


 こぼれた思考の意味はわからなかった。急速に「遠ざかる」。


 意識が現実に戻ってくる。第三塔はぐらつく頭を抑え、仮説に従った術式を組みだしはじめた。


 行った対処は単純なものだった。

 物理的な……肉体に対して行う対処。

 脳に作用する術式。

 そのことを想起する働きが脳に起こった場合に「遠回り」するようになるもの。

 ある時点以前の記憶の現実感をごく薄れさせるもの。特定の記憶に対して一定の感情反応が起こらないようにするもの。


 単純に、主観としてそれらを負の意味付けとともに反芻する能力を極端に落としたのだ。


 ……現実の記憶に対する対処とするならばタブーに近い。

 医療術を修めた魔術師たちは脳に術式で干渉し、単純な一部の記憶を消すことを可能とするし、必要に迫られれば行うが、それを普通に行う彼らでもすこし眉をひそめる類の行為だ。

 だが、そう経たぬうちに消え去るということが前提の、断片的な、本人が体験したわけでもない記憶なら問題がないだろう。その時は彼はそう思ったのだ。



 対処として正しいのか自信があるとは言えなかった。説明するにはばかるやり方でもある。一応の対処療法を行ったと家族には告げて、緊急の対応としては栄養剤を与え、輸液をし、肉体的な衰弱に対処する。

 いくつかの検査は並行させ、数度通って他の異常を探しながら様子を見る。


 意味もなく恐れ怯える症状はおさまり、衰弱は改善し、家族に問えば年相応の無邪気さが戻ったらしい。成功した、そう思った。

 往診もほんの数回。回復が著しかったこともあり、直接顔を合わせることも殆ど無く、家族への聞き取りと、栄養剤の追加が主な内容だった。


 対処は功を奏した、そのように思えた。


 あまりに乱暴なやり方で、治療と呼ぶのははばかられたことから、ほとんど何もしていないようなものだと言って約束された金を受け取るのは断った。

 それからもほんの少し気にかけることにして。それで終わった、そのつもりだった。



 だが。


 娘と偶然に幾度か顔を合わせるようになり、言動を見聞きするに至って。

 じわりとした違和感が生まれる。


 恐れるもの。好むもの。妙に大人びた態度が入り交じる様子。口調。ネーゲ文字そっくりの文字が縫い取られたフード。


 それはまるで、確固とした判断基準があるような。

 自分は何か、あの曲面での理解を決定的に誤っていたのではないだろうか?


 


 一部の思考を遮断して、方向づける。意味付けを変える。感情情報をすり替える。それを元に人格形成がなされたら? それは洗脳とどう違うのか。


 それに目をつぶるとしても永遠に保つ術式ではない。対象の記憶自体が消えることが前提のものだ。精々保って6年か7年。

 急に切り離したものが戻ってくるかも知れない。人格が確立した頃合いなら問題ない? ほとんど溶けて消えることが前提ならそれでいいかもしれない。だが、それが強固に残った記憶なら?


 魔術師は恐れた。

 ごく幼かったからこそ出来た術式だ。脳が発達しきった後掛け直す訳にはいかない。思い過ごしであることを祈ることしか出来ぬ。


 結果、彼は上位塔でありながら素知らぬ顔で常民の商家の一つと側近く接触を保ち続けている。



 茄子だ米だと元気に無茶振りをされるぐらいなら僥倖だ。そこなったかも知れぬ健やかさを保てるならそれで――





 第三塔は強い負い目の記憶を眠りの合間に思い出し、浅い夢に浮き沈みしながら魘される。

 そして結局障壁を叩き割られ、酒を手に押しかけてきた魔術師同族たちに寝台から引きずり出されて最悪の気分で目覚める羽目になった。


 ドアに掛けた術式付与品の鍵は単純暴力の前にはさほどの役には立たなかったようだった。

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