些事雑談 遥かなる眠りのほとり 2(回想のこと)
第三塔の魔術師がその常民からの依頼を受けることにしたのは、偶然、その時手があいていた、それだけが理由だった。
その少し前から、常民の家庭からの加療依頼がいくつもの塔に出ているというのは噂を聞いていた。下位塔から上位50に含まれる塔まで、手当たり次第に。
家族を失おうとしている人間の行動だ、と思った。珍しいものではない。
医療術を専門に修める塔はそれほど多くない。諸島全てを合わせて20ほどの数だ。
とはいえ、専門ではなくとも単純な感冒程度ならどうにでもなったし、単純な外科治療なら程度は様々ながら皆行える。
各塔が修めた専門技術のうち魔術そのものではないものは、通常魔術師たちが魔術で埋める過程を技術で再現するという側面もある。
つまり、専門でなくとも魔術師であれば簡単に血を止めたり雑に精査無しで炎症を抑えることぐらいなら可能で、それに専門の塔が出回らせる抗菌剤や賦活剤を合わせれば、よほどの急性症状でなければ大抵はそれでなんとかなる。
さらに言えば魔術師にすがるのはまずは常民の薬師や医者に頼ってからが普通なので、急性症状の患者はほとんど回っては来ない。
魔術師に頼れば病は癒える、といわれる由縁の一部だ。
だが、その患者は簡単な技ではどうにもならないようだった。
一つの下位塔が依頼を受け、出向きはしたもののすぐに匙を投げ、症状の聞きとりだけでいくつかの下位塔が見切りをつけて断った。
時期も悪かった。
原因もわからぬままじわじわと衰弱するという幼児を診るよりも早期に状況の正常化を行うほうが優先されるべきだった。
……諸島であっても、幼い子供は簡単に死ぬものなのだ。
だから第三塔がそれを受けたのは、偶然その時塔に師、前の第三塔筆頭が戻っており抜けられる状態だったこと、設備にさほどの負担をかける必要のない……純粋に魔術頼りの技法、体内の状態を「読む」ための術式の精度を上げる構築を試験中だったこと。ふと依頼書を手にとったのが休養時間だったこと。くわえて前日に多少の眠る時間を確保できており、その時間にどうしても眠らなくてはいけないわけではなかったこと、たったそれだけの偶然だった。
招き入れられた部屋は死の匂いがした。常民の薬師たちが大気の消毒と精神の安定にと使うローズマリーと没薬が焚かれ、その向こうに隠しきれぬ弱っていく人間の肉体のにおい。
寝台の上には、もともと白いのだろう肌を、白の彼方にうすく緑の気配すらさせる白蝋色に青ざめさせ、やせ細った首を晒してうすく目を開けたまま横たわる小柄な黒髪のこども。
手の施しようがないかも知れないな、まずそう思った。
「この子供の両親か兄弟は」
輸血用の血液の確保を考えた彼に、50を少し超えたぐらいに見える、家長だという女が首を振った。
「いいえ、おりません。」
悔しそうな顔だった。この子だけおいていなくなってしまったのだ、と言う。足元に額づかれて魔術師は表に出さないながら少し困惑した。
「どうかお願いいたします、この子をお助けください。このままでは孫が不憫です」
二親が居ないばかりにこんな目に遭って、とすすり泣く。
聞き取りを行ったところ、娘の家族にあたるものたちは、この状態の原因は娘の両親が失踪したためだと思っているようだった。
確かに夜驚症めいた症状があるようだし、神経症は出ているのだろう。だが原因がそれではあるまい。ここまでになるにはなにか疾患が潜んでいるのではないか。そう考えた彼の予想は裏切られることになる。
強い貧血と栄養失調はあれど、肉体的には正常だったのだ。
内分泌代謝疾患、受容体異常、脳、神経、その他に異常なし。
もちろん衰弱しきっていてだいぶがたが来ていたし、色々と狂いは出ていた。ただ、それらは原因そのものではなかった。
この場で可能なありとあらゆる精査で原因が見つからない。
ならばアプローチを変えるべきだ。第三塔は思った。
人間には2つの要素がある。肉体と、魂だ。
魂は目に見えるこちらからは薄膜一枚の向こうに存在する。ひとの完全さは魂に内包される。魂が紐付く躯体が肉の体で、存在し続けるための仕組みの精緻な組み合わせで出来ている。こころはどちらにも影響される。
ただ、魂に異常が出ることなど普通の生活をしていれば滅多にない。だから普段は肉の体の異常を是正するだけでいい。
黒髪であることから漂流民……鳥の民、
常民が非先天性の魂の異常を起こすことなどめったにない。ただ、彼にはひとつこころあたりがあった。知識にある類似の症状。諸島の外に居たことのある子供だろう、ということ。
第三塔は代々医療術を旨とする塔だ。たましいへのアクセスは専門ではない。
のちになって思えば、このとき彼は少し疲れが残っていて、少し人の死ぬところを続けて見すぎて、少しムキになっていたのだろう。
人払いをして扉を閉じる。
部屋の中心にある寝台の上でかすかな呼吸をたてる子供と、第三塔の魔術師だけが部屋の中に残された。
頭の横に立ち、指を上げる。
世界に術式を書き込んでいく。“あちら側” への短期的なアクセスの確立。魂の判別のための術式。
『悪霊憑き』。
強大な悪霊はそのままでも現世に影響し、様々なちからを使う。憑けば人間の肉体の形も、魂すらもぐちゃぐちゃに捏ねて無理やり別のものに変えてしまう。
だが、ごくごく弱いものが人に憑いたところで生気を奪い、肉体を衰弱させる程度で済む。世界に対する大きな影響はない。
言い換えれば、弱い悪霊に憑かれたものは生気を失い、衰弱して死んでいく。
もう一つの特徴が記憶の混乱だ。
悪霊が肉体に紐付くのが原因だと考えられている症状。悪霊の都合のいい思考に誘導されたり記憶の接続が変えられたり、果ては同調の結果見たこともないものを見せられたりする。現世への認識が鈍り、うちにこもる夜の眠りのうちに強く起こり、悪化しやすい、という。
奇妙に怯え、衰弱し、食事を取れなくなり、夜ごと泣き喚きながら聞いたこともない言葉を叫ぶというのはこの症例を思わせた。
もちろん、諸島には悪霊は入れない。
とはいうものの、人の肉の体という殻に守られたものはどうであるか、ということは、はっきりは言い切れないのだ。
魔獣と共通した構造となるので入れないだろう、ということにはなっているし、結界に触れて「跳ね飛ばされた」「消えた」過去の例も多い。だが、手持ちの知識を辿ってみると、怪しいのではないかという事例がないわけではない。
ごく低いだろう可能性でも最初から排除すべきではない。第三塔はそう考えていた。
精査してそうでないと結論が出てから次の検査にうつればいい。
原因が見つからなければこの子供は死ぬのだから。
運のいいことに、魔術師たちが基礎教養として一般的に学ぶ術式のうちにですら悪霊に対抗するためのものは数ある。魔力を視る関係上、あちら側の知覚は比較的容易で、無理に向こうに触れることもできないわけではない。その状態で魂の判別を行えばいい。悪霊が存在するなら引き剥がし、こちら側で始末すればそれでいいはずだ。
つけていた手袋を外し、素手で眠る娘の額に触れる。
起動する。
空中に描かれた光の文字がきらめき、世界を組み換え――
あちらとこちらが繋がった瞬間、彼の霊覚が奇妙な感覚を覚える。
向こうから触れてきたのだと悟った瞬間に彼が患者の少女ごと何もかもを切断できれば、もしかしたら運命は違ったものになったのかもしれない。
だが、その瞬間魔術師は反射的に娘の生命維持を優先した。
世界が遠くなる。薄膜に包まれたように現実感が消える。
気が遠くなる。
飲まれる、と思いながらなんとか描けたのは、娘の心拍と呼吸を維持するための簡単な術式だけだった。
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