些事雑談 遥かなる眠りのほとり、もしくは新しい無茶振りのこと(第三塔の受難) 1
空が桃色に染まる黎明の頃、第三塔の魔術師は夜明けの僅かに湿り気を帯びた風を求めて窓辺に近づいた。
気密を要する部屋に夜通し居た後の気分転換だ。偏光させていた窓を自然光を通す状態に。彼方の稜線のうす白い眩しさに目を眇め、眉間を揉む。ついで窓を覆っていたガラス様の障壁を消してしまう。ごうっと吹き込んだ風に深く息をつく。
下層階の窓は積層水晶と樹脂の混合生成の素材が使用されているが、彼の前のさらに前任者の趣味で上層の一部では形而下構造物を使わずにわざわざ術式付与で開口部の封鎖をやっている。
まあ、疲労している際に窓の開け閉めの手間がなく、数秒で完全に遮るもののない状態にできるというのは悪いことではない。
彼が風を浴びに出てきた部屋は漆喰塗りか石灰岩に似た厚い壁をそなえ、天井高は8mほど。小さめなホールほどの広さがあり、そこに大きさが様々な上部アーチ状の開口部がいくつも開いたという具合で、ちょっと見にはなにかの遺跡かなにかのようにも見える。
彼の前任者はそこに大型の乗用騎像を置いて居たが、今は空き部屋であるため、なんの調度も設備もなく、超高層であるために外に見えるのもほぼ空だ。疲れた目で見るには情報量の少なさが丁度心地いい。
第三塔の魔術師は開口部に
そこにおやこれはちょうどいい、とばかりに騎像に乗ったまま突っ込んできた同族にいっそ言葉にしがたいほどのいやな顔をした。
……何も置いていない部屋であるがゆえに、調度を破壊する心配がないことだけは幸いだった。
「おう暇か」
「とても眠い」
「つまり暇だな飲むぞ」
「帰れ」
笑顔で騎像を降りてくるのは第八塔の魔術師で、第三塔は半眼でしっしっと虫を追い払うような仕草をした。
「なんだつれないことだ、いいのか帰って」
「私としてはなんら問題を感じないのだが」
「本当に帰るぞ、せっかくお前の
荷物の中から単純化した燕を模したような使役体を第八塔が引きずり出すのを見て、第三塔はこめかみを押さえ、戻りが遅いと思ったら!と呻いた。
……高速飛翔に特化した使役体と人間を載せて飛ぶ騎像では、当然伝書用の使役体のほうがはるかに早い。
第八塔が使役体の中から封書を引っ張り出すのを意図した努力で黙殺する。
「んー、加療協力の依頼書が一通。薬剤の処方依頼五通。精査診断の紹介状二通。これは研究成果の売り込みの
その場にあぐらをかき、適当に封を空けて中を確認しだす第八塔に、結局我慢ができなくなったらしい第三塔は立ち上がり、第八塔が投げた封書の筒を集めながら疲れた声でぶつぶつと苦言を呈した。
「お前は。急ぎのものがあったらどうするつもりだったんだ」
「そういうのは即時通信でくるんじゃないのか?」
「機密性が低いだろう」
「なりふり構わなくなりゃ使うだろうよ。精々数時間差をそんなに問題にするなら。」
特に言い返せなかったらしい第三塔は深い溜め息をつき、眉間を揉む。
「えーとこいつが査読終了の連絡、
ぽいぽいと封を空けていく第八塔が、ん、と不思議そうな様子をして数筒の封書を掴みだす。
「これは嘱託商人からのやつか? お前、下に振り分けずに自分で受けてるのか」
「本島内はね。いい気晴らしになる」
「まあお前のとこの温室は手がかかって大きいが……」
そんなもんかねえ、と言った第八塔が封書の一つを開き、うわっなにこれ厚っと声を上げた。
「こちらに貸せ」
封筒を目にして手を出した第三塔を避けて封書の中身を取り出した第八塔はざっと目を通しては変な顔をした。
「なんだこりゃ」
「貸せといっているだろう」
横からそれを引ったくった第三塔は内容を改める。
どこから来た封書かは見ればわかる。
つまり、さしずめこの手紙にはこの間の、微妙に喉に引っかかった魚の小骨のような気分にさせる事態の顛末あたりが――
「なんだこれは。」
最大級に怪訝な気分になった第三塔がもう一度一枚目から確認しだした封書の内容には、異様な情熱で条件指示を附帯された、
一枚目には簡単な時候の挨拶と品種改良依頼の定形に沿った文章。
二枚目からは付記事項。流通品種は長粒陸生であるが自然状態で短粒湿性のものがあればそちらを改良したほうが条件が近いだろうということ。
粒の巨大化……とはいえ、最大粒サイズまでが詳細に指定されており、なぜかこのサイズは超えぬほうがいい、という注釈まで。炊きづらいとはなんのことか。
病害虫耐性と低温耐性、これはわかる。茎は短く風に耐えるように、納得は行く。収穫時期は早いほうがいい、まあ当然のことではある。味が落ちるから肉質……酸で分解される成分……の含有量は低いほうが? 澱粉質のうち熱で溶ける方が少ないほうがモチモチして美味しい……?
残りの数枚はひたすらそのような内容が書き記されている。
「……どこの王宮料理人からだこれ。細かいな。」
呆れ声で言った第八塔に第三塔は頭の痛い思いで首を振った。極度の寝不足と眼精疲労のせいか実際頭が痛いような気がし始めている。
流石に間違いなく書いてあるだろう、と思っていた事態の顛末のことはまったく一文もない。つまり何事もなかったということでいいのかこれは。念のためにもう一度最初から確認してみても紙の抜けがあるという様子でもない。
本土の方の心当たりに当たればそのあたりの噂もだいぶ仕入れられはするがそこまですべきなのか。いいや馬鹿馬鹿しい。
第三塔は温水を呼ぶと目の上にしばらく滞留させることにする。
「いや……商家だ。」
「恐れを知らぬ商人だな!? 断れよ。」
「まあ茄子よりはマシか……」
呻いた第三塔になんだかわからないものを見る目をした第八塔は依頼書を取ってもう一度流し見る。
「断っちまっても何も文句を言われる筋合いもない話だろうが……受ける気か? 受けるにしても下に投げちまえばよかろうに。」
「多分そうしたら米を称える歌が届くだろうな」
「なんと?」
「……なんでもない。忘れてくれ。」
第三塔はどさりと座り込み、そのまま後ろにでろんと上体を倒した。
「しかしあまり舐められるのも面白くなかろう、俺が釘を――」
「必要ない」
「なんぞ弱みでも握られているのかお前」
「弱みか、うん、まあ――」
「おい」
「患者だ。……私は、見立てを違えた。」
「なるほどなあ、真面目だなあ第三塔。相手は常民……いや、まあそれをお前に言うのは酷か。お前の師なら魔術師の治療を受けたが過分の幸運、それでも死んだなら其奴の運命だとか言い切ったろうによ」
「あの子は……あまりに――あれは――治療などというものでは――」
眠りに落ちかけたか、急速に声が解けていく第三塔を第八塔は軽く蹴転がし、襟首を掴み引っ張り上げる。ついでに温水の制御を壊し、重力に従って落下した水を当然の帰結でばしゃりと浴び、濡れそぼって苦情の声を上げた相手に胸を張った。
「あー、わかったわかった。死ぬほど眠ければそれは気分も落ちようものだな。大人しく帰ってやるから寝るがいい。」
「その心遣いはありがたいが私には心づもりと行動とが一致していないように思われるんだが」
「ははは、礼はいらんぞ。夕刻頃他のやつも連れてまた来る」
「来るな」
第三塔は短く指を揺らし、濡れた顔と髪を乾かす。ついで乗用騎像に戻っていく第八塔の後ろ姿に再生成した水塊を叩きつけ、濡れねずみになった相手がぎゃあぎゃあ騒ぎながら浮かび上がるのを待って障壁を戻した。
懐かしい、というほど魔術師の生にとっては前ではないが、気分的にはだいぶ懐かしいことを思い出した。第三塔はそう思う。
きっと第八塔はその患者が死んだと思ったのだろう、元気一杯よくわからない穀物の改良依頼をかけてきたのがその子供だと注釈しておくべきだっただろうか。
それはそれで説明が面倒くさいのだが。
私室に戻ろう。話を聞いた物見高い奴が慰労会などと言いながら湧いてくる可能性がある。ここで眠ると障壁を叩き割って入ってくる奴らに対応しないといけない、いや、必ずそうなるだろう。第三塔は強くなった頭痛を堪えると、嫌な、かつリアリティのある短期未来の予想を頭から追い出し、ふらふらと立ち上がり、自室に下がって鍵を強く掛けて眠ることにした。
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