第90話 思いがけないお客様のための街歩きガイド 4
「これが……食べられるバラ? 見た目は母上の庭園のバラと同じような……」
なにやら疑問たっぷりな目でバラの茂みをとくと眺めているレオに、スサーナは笑いながら歩み寄った。なにやら二人が騒いでいる気配に不思議そうにレティシアとマリアネラもやってくる。
「このバラはですね、品種改良がしてあって、ええと……」
根本に置かれた説明のプレートを見る。
「病気と害虫に強くて、花びらの大きな花が一杯咲くようにしてあるそうですよ。バラのジャムとかローズウォーターなんかに使いやすくしてある……」
「まあ、この木はバラのジャムの木ですのね。」
レティシアが感心した声を上げた。
バラのジャムの木! メルヘンでとても素敵な響きだ。なんだか甘そうでいい。スサーナは少女らしい物言いと発想にちょっと感動する。
「ああ、なるほど。バラのジャムは食べたことがあります。」
レオが納得した顔でうなずく。
「ジャムになるバラの花……ということは、甘いのかしら……?」
「ピンク色で、赤いバラより甘そうな気がしますわ」
口々にお嬢様たちが言うのにスサーナはにこにこしてしまう。
乙女だ! と思ったスサーナは、サラダにも使えるみたいですよ、という言葉はそっとしまっておくことにした。
魔術師の人たちがそのまま薔薇をさくさく食べる絵もなかなか耽美でメルヘンよりな気もスサーナにとってはするのだが、まあ甘いバラジャムの木という発想には負ける気がした。
まるごとのバラは噎せやすそうだし。
子供たちが薔薇の茂みの前に集まっているのを見た園丁がやってくる。バケツとハサミを下げ、園内の管理中という風情だ。
どうやら今の会話が聞こえたらしい。
「坊っちゃんたち、薔薇が気になりますか。今剪定をするところなんですが、お一ついかがですか?」
言うが早いか、横の方に飛び出して咲いたバラの枝やら、二本立ちになっていた枝やらを園芸ばさみでぱちんぱちんと切り、花のある枝を選んで短く整え、バケツに入っていた葉蘭で下をくるりと巻いてレオに差し出した。
レオが一瞬少し離れたところで控えた
「あっ、ありがとうございます」
胸の前に小さなバラの花束を構えた形になる少年は笑って花の香りを嗅ぎ――鼻を近づけながら一瞬小さくなにやら思案したのは「口に入れる」発想が頭をよぎっていたのは間違いないところだとスサーナは思った――残りの少女たちを見回した。
「それじゃ、皆さんにお配りします。……その、じゃあ、スサーナさん、受け取っていただけますか」
まずいちばん手近な距離に居た自分に歩み寄ってくるのに、まずは礼儀的にお嬢様たちから渡すべきじゃないかなあ、と思ったスサーナだったが、まあ商人の娘も下級貴族の娘も上級貴族の子供には大した差はないのかもしれない、と口を出すこと無く頷いた。
レオはふわふわと花の上で手を彷徨わせ、ちょっと悩んでから一つなぜだか深呼吸をし、決然とした表情で一本の花柄をぐっと掴んで――
「あいたっ!」
ぱっと手を離した。
――あ、棘。
スサーナが覗き込むと、つうっと血の玉が人差し指に盛り上がったところだった。
「あー、見せてください。よいしょ。」
スサーナはとりあえず何も考えずにその手を掴むとポケットからハンカチを引っ張り出し、ぱっと傷を押さえた。木綿地がしゅっと血を吸ってぱっと赤が広がる。
「え、あ、あの」
――普段から棘を削った薔薇を扱ってるとこういう時忘れるんですよね。
やはり偉い貴族の触る薔薇は棘が削ってあるものなのだろうなあ、と述懐しつつ、傷を見つめる。
小さな傷を負う経験が薄いのだろうか、なにやら動揺しているらしいレオが指を引きかけるのを引き止め、ちょっとそのままにしてくださいね!と声をかけた。
傷口に棘のたぐいが残っているようには見えなかったのでまあ洗うだけでよかろう、と判断する。人差し指を伸ばしたままの手にハンカチを握らせた。
「ん、棘とか入っちゃってはないのでちょっと洗って抑えておけばいいですかね。これ、差し上げますので向こうに井戸がありますから洗ったらぎゅっと抑えて――」
頭の上から影がさしたので見上げると、眉をひそめたラウルが覗き込んでいた。
「ラウル、すみません、棘を刺してしまっただけです。」
「失礼いたします」
すっと指の傷が消える。
「あ……」
「あっ一番便利なやつ……」
魔術師の傷薬だ!と判断したスサーナはああーっというような気分になる。
コースを組まずとも一番わかりやすく凄いものを持っていたのか、という気持ちだ。
この軟膏薬、ガルデーニャ島から帰ってからちょっと探しては見たものの島内の薬師にはどうも流通していない。怪我をした際に薬師の処方する薬や一段上がって常民の医者では手に負えない時呼ぶ魔術師ならば持っている気がするし、注文すれば売ってくれるのかもしれないが、普通の場所でまだ見たことがない。つまり多分めちゃくちゃ高いやつなのだ。
――それを、棘の、刺し傷に!
おかねもち、すごい、という気持ちにかられているスサーナに、遠慮がちにレオが声をかけた。
「すみません。ハンカチ……汚してしまって」
「ああー……いやあ面目ないです、先走ってしまって。便利な魔術師さんのお薬をお持ちだったんですね……!」
トゲを刺したぐらいそんな物を持っているならどうするものでもあるまい。逆に大げさに騒いで気を使わせるだけの結果になってしまった。スサーナははにかみ笑いをしつつレオからハンカチを受け取ろうとする。
「い、いえ。買ってお返しします。」
レオがぱっとハンカチを握り込んだ。
「いえ、そんなお気を使われずに。自分で縫ったものですからそんな価値があるものじゃないんですよ。このぐらいならすぐ落ちますし。」
大きな木綿端切れの形を整えて周りをすから縫いにして、洗ってから鍋に放り込んでぐつぐつ煮て衛生確保という雑きわまりない代物だ。大判で緊急時のスカーフ代わりになることだけが取り柄である、お嬢様たちの持っている優雅な絹ハンカチとは比べてはいけないやつ。まあおかげでほいほいなんにでも使えるし次々無くしても惜しくはないのだが。
スサーナが返して返してするとレオは困った顔をし。
「……ぜひお受けいただけませんか。……ハンカチの代えぐらい用意できないようでは坊ちゃまの名折れですから。」
「ラウル!」
見ていた
――あっ、大貴族の面目とかそういうやつでしたか!
「あ、そういうことでしたら。はい。」
スサーナは折れ、ほっとしたように笑ったレオはポケットにハンカチをしまい、今度は用心しつつ一本バラをスサーナに手渡した。
スサーナは少し考えてそれをポケットに挿す。
「ありがとうございます」
「はい、僕こそ……」
完全に照れた様子でありがとうございます、ともしょもしょ口の中で言ったレオは下を向いてぱっと身を翻し、レティシアとマリアネラに残りのバラを渡しに行った。
おお、ちゃんとお礼を言える男の子、良い子だ。スサーナは非常にほのぼのしたのだった。
お嬢様たちにバラを渡しているレオをほのぼのとスサーナが見ていると、
「坊ちゃまの気持ちを汲んでいただき、ありがとうございます」
横に立った従者さんが小声で言い、すっと頭を下げた。
「いえ、なんだか逆にご迷惑をかけてしまって……。」
スサーナはこちらにも首を振る。いらない善意の先走りはこうちょっと恥ずかしい。
微妙にいたたまれなくなったスサーナはちょっと急いで脳内で変えるのにちょうどいい話題を探した。
「あっでもすごく便利なものを持っておいでだったんですね! あれは島でも全然見ないんです。どこで買われたんですか?」
「……諸島ではあれが売って?」
「うーん、頼めば……多分? 魔術師さん方の間では出回ってるって聞いたことがあります。」
「……なるほど。」
納得したように頷いた従者は言葉を切り、それから穏やかに言った。
「あれは蘇芳衣の処方です。魔術師間で流通していると言うならきっと同じものでしょう。」
「すおーい……」
――蘇芳。蘇芳って言うと暗い赤。あっもしかして!
「医療術を修めた魔術師たちのことです。蘇芳色の衣を着ているので、そうと。」
違ったーーー!!
スサーナはがくんとなった。
――そうかあ!アレ白衣の制服みたいなものだったのかあ!
スサーナはうっかりとこの世界の大学病院を想像した。スタッフがみんなあの圧の強い格好をしている病院。教授の総回診。深夜当直。
いわく言い難い気持ちになりながらもスサーナはとりあえず表に出さないように思考を切り替えることにした。
「なるほどー。本土の方はあまり魔術師さんから物を買わないのだと思っていました。やっぱり買われるんですねえ。」
「……ええ、そうですね。」
従者は曖昧に微笑んだ。
それからしばらく子供たちは、魔術師がいかに便利に植物を品種改良して売り出すものかを熱弁するスサーナの話を聞いたりしつつも園内を回り、さまざまな色や大きさに改良された花を眺めた。やはりバラの受けがいいようで、スサーナには大体牡丹の花みたいに見える超巨大輪のバラにざわめいたり、漆黒の花色に見えるバラが「なんだか恐ろしく見える」というレオに「ビロードのようで不思議」というレティシア、「アクセサリーだと思えば綺麗」というマリアネラ、それぞれはしゃいで意見を言い合ったりした。
その後は食事の時間だ。
島の何処かの料理屋かと思っていたスサーナは、どうやら貴族の別邸として建てられたらしい建物に招き入れられ、ひええとなった。
――なるほど「いい店」ってレトリックだってわけですね!! そういえば、本土の貴族の方々ってレストランでご飯とか食べないんでしょうか。
フレンチが隆盛したのはたしかフランス革命以降、貴族のお抱えの料理人が市井に流出した所為なんだっけ? こちらの貴族の皆さんも基本的にはお抱えの料理人に料理をさせるだけなのかもしれない。スサーナはとりあえずそこまで考えてみて、いやあ歴史背景も何も違うんですしね、と結局放り投げた。
まあ、貴族の風習はともかく、上級の貴族の子息相手ということで、セルカ伯が貴族とはほぼ関わりなしにこれまでずっとやって来た島の料理屋が色々な面で信頼できない、というのは納得がいく話である。
家令らしい人にうやうやしく挨拶され、食堂に案内される。
レオが長机の奥、短い辺に座り、少女たち三人はレティシア、マリアネラ、スサーナの順に長い辺に座らせられ、優雅な食事と相成った。
講でそれなりにしっかりテーブルマナーを習ってきたので、スサーナもまったく慌てることもなくついていける。
第一こちらのテーブルマナーはさほどの煩雑さはない。ナイフやフォークが外側から並べられている、ということもなく、最初にキッシュを食べるというようなこともない。
乱暴に言ってしまうなら見た目に優雅に見えるように振る舞えばそれでよく、基本的には給仕のなすがままにしていれば間違いがない。前掛けも横からかけてもらえるし、カトラリーも皿も適宜目の前に出されたものを使ってさえいれば問題はない。特にこの席では席ごとに一人ずつ給仕がついているために本当に気を回すことはなにもないのだった。
酢漬けの玉ねぎを細かくしたものとハーブペーストを焼き小トマトの中に盛り込んだもの。
茎辛子菜の茹で物に若いオリーブオイルを絡めたもの。
かぶのポタージュ。
茹で大エビと焼いたホタテの貝柱を一口大に刻み卵黄と塩漬けのハーブを絡めたもの。
焼いたプラムと鴨肉。
午前中に甘い氷をなめたせいで特に空腹感はなかったスサーナは、ごくごく優雅に華奢なスプーンや金色の長楊枝などを操って小さくまとめられた本土貴族風(北部風だそうだ)の上品な料理を口にしていたが、デザートの段になってはっと全身に緊張をみなぎらせた。
――こ、このデザートスープは!
――お米だ!!!!!!!
縁の広い陶器皿の真ん中に小さく盛られた、穀物を甘くとろりと煮込んだデザート。
よく殻をとった穀物を蜜とクリームで形がほぼ無くなるまで煮込んだものにスパイスを加え、すりおろした果物を掛けた一品。そう説明されたものがスサーナにとっては前世でやたら身に覚えのある味をさせていたのだ。
幸運なことに、食事中に喋ってはいけない、というルールはない。あくまで上品にだが、招待主や上座の人間に話しかけることはマナーにも適ったふるまいである。
「これは素晴らしい味ですね。……本土ではよく食べるものなのですか?」
「いえ、珍しいものだと思います。料理人がよく工夫したものですね。 篤く御礼申し上げます。ぜひ褒美を取らせて差し上げてください。」
レオの言葉の後半は、控えた給仕頭への言葉だ。
給仕頭が深く頭を下げる。
――うっ、突っ込んで聞きづらい!でも負けませんよ!
「この穀物も珍しいですね。これはなんなのでしょう?」
それに応えたのは給仕頭だ。
「これは南の諸国ではよく食べるもので、
ようし他国でですけど普及してる!
スサーナはそっと喜んだ。茹でるということは湯取り法で食べるインディカ米だろうか。ジャポニカ米はあるのか。だが島には魔術師さん達がいるのだ。もしなくても形質を指定してお願いしたら数年内にジャポニカ米とて夢ではないはずだ。
「王都の方ではそれなりに食べるんですよ」
レオが注釈する。
なるほど粉食中心だと思いきやそれなりに粒食もしていたのか。多分島の気候が乾性なのが栽培に向かないということか。スサーナはそこまで超高速で思考し、できるだけ優雅に微笑んだ。
「私、とてもこれが気に入りました。」
本土と交易している貿易商を全力であたってみよう。スサーナはそう決めた。
……そんな事があったせいで、午後のスサーナはちょっとだけ気もそぞろだった。
だがまあ、案内のメインはレティシアとマリアネラに移っていたし、午後は貴族のツテを利用した庭園の案内だったり、いわゆる「
……魔獣の標本だのは少し気になったし、強い酒に漬けられたヨドミハイの胎児を見た瞬間うっかりびゃっと悲鳴を上げてしまいはしたが、まあ淑女として悲鳴をあげるシーンだった気はするし、それはきっと些細なことである。
おかげで、昼食の間に何処からか取り寄せた上品な絹のハンカチを手にレオがなにやらタイミングを図り、すべてに踏み出せずいた事などは全く気付かなかったのはどうにも仕方のないことであったのだった。
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