第80話 奇禍と僥倖のあいだ 5

 銀盆の持ち方を教授されたり、口上の練習をしたりして3日。

 夜だいぶ遅くになってスサーナがフラフラになって帰還すると、おうちがしんと静まり返っていた。


 ――あれ?

 首を傾げつつ裏口からお家に入り、あ、と気づく。

 ――今日、保守点検の日かあ!


 島で一般的な術式付与品アーティファクトは時折魔力を込め直す必要がある。日常使いをするアイテムはさほどではないものの、術式付与具を使っているお宅では、こうして数年に一回魔術師がやってきては保守作業をしていくのが島の風習だ。

 今年だ、というのは覚えていたスサーナだったが、ここのところの嵐のような出来事のせいで日程まではすっかり忘れていたのだ。


 ちなみに、井戸は普通の使い方をしていれば20年に一度、最低限度ならば50年がラインで、比較的使う商家が多い明かりは10年に一度、日常生活を便利にしてくれる様々なもので、使う頻度が特に多いものは5年に一度ほど、大物の術式付与品がある家は3年に一度だという。

 家電として考えても非常に効率がいい。スサーナは生活を快適に保ってくれる魔術師に内心感謝を捧げると、そおっと家の奥に向かうことにする。

 この日は家人は奥に籠もり、家長かその代理人が一人で魔術師を案内するのが通例だ。

 魔術師の集中を乱してはいけないし、失礼があってはいけない、というのがその理由である。魔術師を恐れる人にとっても都合がいい。


 ――怖がってるからがメインなんじゃないか、とか前なら勘ぐったところですけど、倒れたりしちゃう系統のお仕事と同系統……っぽいですもんね。お邪魔をしてなにかあったらいけないのは、確かに。


 スサーナは物分りよく抜き足差し足自室に向かいかけ、回廊を歩いているところで中庭に入るところで叔父さんと誰かが会話しているらしい声を聞きつける。

 聞き覚えのある声だ。


 ――お。

 すこしルートを変更して、姿勢を下げつつ中庭の入り口を伺う。

 暗い赤の衣装の魔術師が叔父さんの先導で井戸に向かって歩いていくところだった。

 ――うん、多分第三塔さん!

 個体識別が難しいので多分をつけつつスサーナは頷いた。

 しかし魔術師というものはもしかしたら皆ああいうふうにフードをかぶっているのかと思ったが、クーロを見るにどうやら違ったらしい。個体識別が難しいから外していてもいいのに、と思いながらスサーナは気持ちの中だけで挨拶をする。

 ふんべつあるおとななので、流石に声を上げて仕事のじゃまをしたりはしない。


 階段を登りかけたところでお針子に入っているジェマがやってくるスサーナに気づいたのが見えた。


「あっ、スサーナさん。おかえりなさい!」


 抑えたひそひそ声。


「ちょうどよかった、まだスサーナさんが戻ってないからって奥様から鍵を預かってたんです、さあ上がってください」


 急いで手招かれ、スサーナが階段を登りきったところでジェマが階段の引き戸を引いて鍵をかけた。今日は叔父さんは一階で寝るので問題はない。


 やり遂げた顔のジェマがはあよかったおやすみなさい、というのに返事をして自室に向かう。

 荷物をおいて服を着替える。

 ――体を拭きたいですけど、下にはもう行けないし、明日の朝ですかねえ。

 うちの規模なら確か保守点検に一時間程度だと叔父さんが言っていたので、別に鍵を掛けることもない気がするのだけれど。まあ、慣習とはそのようなものかもしれない。

 ――しかし、ご様子をお見かけするのもお久しぶりですねえ。挨拶ぐらいしたかったですけど、まあ仕方ないのか。


 前回にちゃんと顔を合わせたのは一年近く前だ。品種改良の済んだ大きな青ナスの苗を携えての訪問だった。その際には応対に立ったのはおばあちゃんだったので、さっさと奥に追いやられ、軽く会釈ぐらいしか出来ていない。


 ひたすらとろとろと甘く種のほとんどないナスはパンチが足りないという家族の評価だったが、ざっと焼いたりスープに入れたり漬物にしたりにいいということで、いつの間にか結構に重宝されており、スサーナを非常に満足させた。それからしばらくして市場にも苗と実が出回りだしたので、いまやアクのない焼きナス揚げナス炒めナスは遠い夢ではない。


 ――あー、でも、結界のお話はしたいなあ。注文のお手紙に一筆入れようかと思っていましたけど、他の家族に見られちゃうし、できたらお顔を合わせたいとは思っていたんですけど。普段どこにいるんだろう、顔を合わせられる機会があれば……

 スサーナははっと気づいた。気づいてしまった。

 ――お邪魔をしないのが集中を乱さないためなら、仕事が終わってから声をかければいいのでは?

 普段使っていない物置になっている部屋が外壁に面していて、たしかバルコニーがついていたはずだった。

「よし」

 ――よし行ける。ヨドミハイのときに結構な高低差運動ができてたわけですし。



 魔術師は、対応した若い当主、もしくは次期当主の礼を受け、謝礼を受け取って戸外へ出た。歩みだすその後ろでそれなりに長く礼をしていた気配のあと、静かに門扉が閉じられる。

 この家の人間たちは彼の知る島民の中では魔術師に対して特に敬意を示す部類だ。どうでもいい要素ではあるが、丁重にされて不快というわけでもない。表に見せずともその丁寧さの裏にはおそらくは多分の恐れと戸惑いがあるのだろうが、それはまあ構うことでは――


 ばさがたん。


 魔術師は目を上げ、ついで目を疑った。

 視線の先では、何もかもの元凶と言ってもいい娘が、どうやら大きな木の主枝を伝って外壁の縁に降りようとしているところだった。



「なにをしているんだ君は」

 人類が可能な限界まで呆れを声に込めた、という具合の声にスサーナが路上を見ると、そこには暗い赤のフードをかぶった影がこちらを振り仰いでいるのが見えた。

 ――ああっ、出てくるのが早いっ!!

 いつもの通りフードの内側は暗いので視線も表情もよくわからないが、なんとなく気配で究極に胡乱げな目つきをしているだろうということはわかった。


「あ、あはは、ええと、お久しぶりです……ええとその、なんと申しましょうか」


 とりあえず続行中の行動、つまり、枝に捕まったまま足先で塀の端を捉える作業を継続する。


 うのーんと伸びてつま先が塀に触らないかぱたぱたと探る。

 その様子を妙な生き物を見る目で腕を組んだ魔術師第三塔が見ているのが見えるものだから、なんとも非常にいたたまれない。

 ――タイミングが! タイミングが悪い!!!

 スサーナの予定では、保守点検にもう少しかかるだろうから、路上に降りて何食わぬ顔で挨拶をするつもりだったのだ。

 ほんの少し帰還時間がずれていれば平和にそういう状況になっていたのだろうから、なにもおかしなことはない。疑われる要素など何もありはしない。


 それが、20分、いや、10分だろうか? ともかく早く出てきたので予定が狂ったのだ。

 ……ちょっとその。予想より木と塀の高さの距離があったのも理由の一端と言えなくもないと言わざるを得ないとは認めないこともない。


「諦めて室内なかに戻ってはどうだ?」

「いやあ、はははは、それが出来たら苦労しないと申しますか、その」


 現状、上半身で木の枝にぶら下がりいっぱいに伸ばした足先で塀を捕らえようとするというようなことをやっているわけなのだが、ぶら下がり続けるのならばともあれ、懸垂状に腕の力で枝の上に戻る、というには少し膂力が足りない。


 というより、微妙に腕が上がっている、というか体が下がっている、というのをスサーナは嫌々ながら自覚しだしていないこともない。

 眼の前に人がいるせいで、微妙な羞恥心が発生していて思い切った移動ができないのもずるずると支点が下がる原因になっている。

 ――も、もうひと頑張り。

 とりあえず現状は恥を捨てることにして、当初の予定通り足をバタバタやることにする。

 ――ズボンでよかった! いえなにもいいことはないんですけど!


 なにか色々と諦めたようなため息を付いた魔術師が組んでいた腕をほどいて歩み寄ってくる。指先から白い軌跡の端緒が滑り出した。

「全く。戻れないなら大人しくしていなさい。今上に戻して」


 不幸な事故、と呼ぶのが最適だろうと思う。

 その瞬間にスサーナが大きく滑って、枝に重量が強くかかったこと。

 体勢を崩したため、一挙に鉄棒にぶら下がるような不安定な姿勢になったこと。

 ……そこで、重量制御の魔術が働いたこと。


 枝がしない、跳ね上がり、ぽんっと実に軽々と少女の体が飛ばされた。



 ――ぴゃーーーっ!!!

 視界に見える前の通りの角度がとてもおかしい。

 つまり、今自分は完全に虚空に舞っている。スサーナはそう認識すると、反射的に思考する。

 ……こん……げつ……!


「落ち過ぎじゃないですかーーー!!??」


 三落ち目だ。


 塀の高さは4mぐらいだったか、頭を打たなければそこまで致命的な高さではなかったはずなのだが、なんだか一回高く跳ね上げられた気がする。

 眼下に一瞬睥睨できた気がした通りがぐんぐんと近づき、あ、やっぱり落ちてる、と認識した。

 落ちる速度が妙にゆっくりな気がしてああ駄目なやつかなこれ、と思う。

 頭がうまく上にならない。体を丸めて姿勢を何とかする、という知識だけあっても風圧と勢いで体を丸めることすら出来ない。


 白い石畳がどんどんと近づく。思考していたのは合計して五秒ほどだったろうか。

 衝撃を予感する。せめてもギュッと目を閉じる。


 どしゃっと何か重い柔らかい感触。

 ――石畳に叩きつけられて……ない、みたい。

 スサーナはそおっと目を開き、手足の感触を確認し、目を上げる。

 うすうすそうかな、と思ったが、上げた視線の先は暗い赤。つまり、魔術師に引っ抱えられている。

 ――な、ナイスキャ……ッ……チ、あう。

 フードに隠されて詳細はよくわからないものの、スサーナを抱えたその人はなんだかとても不機嫌であるような気がした。

 ――非常に激怒されていらっしゃる……!

 スサーナは身をすくめ、いやでもそうなるよね!とやぶれかぶれで思った。眼の前で無理な体勢をして木から落ちた相手が放物線軌道を描いて飛来したという状況、世界の迷惑の中でも多分上位に位置するはた迷惑だ。怒らないほうが不思議だと思う。


「ごめ、ごめんなさい、とんだご迷惑を」

「いや」


 応えた声もすごくイライラしている気がする。スサーナはぴいっとなった。


「私の浅慮だ」


 ――それってアレですか、きみがそんな愚かなことをするとは流石に想像できなかったみたいなやつですか! まったく反論の余地もありません!


「痛いところは」

「すみません、たしかに本当に考えなしで……はい?」

「痛みや何処か打ったような感触はあるか」

「あっいえそういうのは全然ないです! 助かりましたすみませんでした!」


 わちわちと手を振り首を振ったスサーナを見た魔術師第三塔は黙って片手を上げ、受け止められた時に勢いよくガクンとなって、なんだか軟骨が挟まったような違和感を感じていた肩に触れる。少し触ってなにか確かめていたようだったが、わずかに指を動かすと肩の違和感が消えた。


「いえあの、痛みは別になかったので」


 スサーナは恐れ入って小さくなる。


「そうか」


「では違和感は」

「もうないです……」


 もう片方の肩、首、後頭部と精査され、最後にくるぶしのあたりを押された後に足を下にしてぽんと開放される。


「すみません助かりました!!」


 深々とお辞儀したスサーナに、さて、という感情のよくわからない声がかかる。


「それで、こんなことまでして何処に脱走するつもりだった?」


 ぴいっ。

 スサーナは反射的に石畳に正座する。


「いえあの、非常にご迷惑をおかけして、とても申し訳なく……その……ええと…… 脱走と言うか……お暇な日取りをお聞きしようかなと思いまして、そのう」

「なに?」

「あの、そこに降りて挨拶したらこう、その、自然に通りすがったように演出できるかなあ、って……」


 脱力したような長い溜息。

 ――ああっ、呆れられている……


「君は」

「ああっ違うんです! お茶とかじゃなくて、その、結界、結界がですね、ええっとその、つまりですね」

「それだけのためにこんな危険なことをしたと?」

「いえまさか放物線軌道を描くとは想像していなかったと言うか、えっと、ヨドミハイに追いかけられた時に4mぐらいは垂直移動できたので行けるかなって……」


 赤いローブがほんの少し視線をそらし、言葉の後半を聞いてはっと戻ってくる。


「ヨドミハイ……だと?」

「あっはいそうなんです!」


 スサーナはここぞとばかりに首を全力で縦に振った。


「あの、島に行ってて、外周のガルデーニャ島、そこで結界が消滅してヨドミハイって魔獣がいっぱい襲ってきてて、それでですね、本島は大丈夫なのかなあって、お会いできたらお話をと思ってて、久しぶりにお見かけして、それでちょうどいいタイミングだったと言うか……」


 魔術師はまた長い溜息をついた。


「わかった、聞こう」


 手が差し出される。スサーナは少しあわあわとした後でその手を掴んで立ち上がり、先に立ってさっさと歩きだした魔術師の後を追った。

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