第39話 契約式 5
絨毯を踏みしめて、ゆっくりスロープを降りる。
前の部屋は先の尖った窓からの昼間の明かりと、さらに吊るしランプ、そこに加えての燭台型の魔法の明かりが揃っていて明るかったが、常識的な明かりだった。
儀式の間ははっきりと光源がわからないくせに白い、LEDの白みたいな光が満ちていて、なんだか全体的に発光しているような気がした。
つまり、スサーナは結構ビビっている。
一歩部屋に踏み込んだところで、すう、はあ、と呼吸する。
さっきは全然気づかなかったグリーンノートの香水のようなにおいがした。
正面から入ると左右に立った広葉樹みたいなものは、木を模した柱というよりも、奇妙な素材の真っ白な樹木、と言う風に見える。
前世で見たことがあるもので例えるなら、白い樹脂粘土で作った大木、と言った感じだ。
いかにも聖域らしい、といえばそうなのだが、あからさまにふつうの自然環境ではなさそうな光景でもあり、それなりに魔法なんかに触れてきているものの、こういう明らかに不思議な場所に踏み込むことはなかったスサーナは結構たじろいでいる。
「そのまま、真っすぐ進んで。水盤の前に立ちなさい。」
立ち止まったスサーナに、奥にいる神官から指示が飛んだ。
――あ、奥に人がいらっしゃるんですね、そういえばそうか、さっきもいましたもんね。
それでスサーナはちょっと落ち着いた。
さっきも居たのだから居ないはずはないのだが、正面から見る光景の異様さにすっかり意識から抜け飛んでいたのだ。
普通の市民ならここまでビクビクすることはないのだろうなあ、とスサーナは思う。前世でたくわえた要らないSFやらファンタジーの知識のせいで、ボスバトルっぽさやら、なにかに曝露しそう、やら、世界の文脈にはない不必要な色々を読み取ってしまっている部分ははっきりあった。
声に従って部屋の中ほどにある水盤の前に立つ。
正面に立ってみると水盤は中からポコポコと水が湧いていて、四方につけた切れ目から流れ落ちている。
かといってそこらへんが湿った感じになっていたり、水苔が出ていたりする、ということはなく、まるで図書館か何かの中にいるような空気の感触で、周りの石も、水盤の周囲の石畳も、綺麗に乾いてすべらかなのが不思議だった。
――えっと、これで……どうすればいいんだろう。
特にこの前で何をしたらいいのか、とか誰にも段取りを聞いていない。
少し困ったスサーナに、また奥の神官が声を掛けた。
「水の奥を覗き込みなさい。そうすればあとは分かります。」
――水の奥を……
スサーナは水底をじっと見つめた。水盤の底は予想とは違い、全面が石というわけではなく、くるっとくり抜いたように石面が丸く切れていて、そこには真っ白い砂が溜まっている。そして、その中央に一つ杯があり、その周囲からひっきりなしに水が湧き出しているように見えた。
こぽこぽと水の沸く音。吹き出した水のゆらぎ。底の砂がわずかに揺れる様子。
水はさほど深そうでもないのにうっすらと青みを帯びている。
我知らず水の湧く様子に意識が集中する。
こぽぽぽ、と、まるで水の中で泡の湧くような声がした。
ね。
そう、ね。
あなたの、ことばで。
――!?
あなたのことばで よんであげる。あなたは、さらや ね。
さらや。
無邪気な少女のような声だった。
ごく一瞬スサーナは混乱した。
イントネーションも響きも水の流れのような、聞き慣れない言葉。
耳慣れぬ言葉だけどなぜかはっきり意味は取れて――いや、違う。
今のは、日本語だ。
にほんご。
声の主は額の前か、でなければ左右どちらかの耳の横で囁いたように思ったが、当然そこには誰もいるはずはない。
あわてて左右を見渡したいという衝動に駆られたが、流石に儀式としてどうかと思ったので必死に我慢した。
また、くすくすくすくす、と耳の傍で、泡が弾けるような笑い声がした。
そしてぱたりと声は沈黙する。
――え、ええっと、いや落ち着こう、儀式、儀式の最中ですから。このぐらい起こったって不思議はないですよね。なんか……脳とかに由来して……母語とかで……。
そういう魔法なのかも知れない。スサーナは思う。
しかし、さらや、とは。
紗綾に似ている、いや、スサーナにも似ているのだろうか?
なんだかそういう名前の一部を取った真名が貰えるシステムなのかも知れない。
ややあって、前の神官からちょっと不思議そうな色を含んだ声がかかる。
「啓示はありましたね? 声に従って、杯をこちらへ」
――そ、そういう指示はなかったんですけど!
スサーナはさっき垣間見た儀式を思い出す。
――えーとえーと、あの通りにやればいいのかな。
両手を水につけて、中の杯を持ち上げた。
手を水につけて、袖先まで濡れたはずなのに、不思議なことに水はみるみるすっと乾き、濡れ跡を残さない。
杯を捧げ持って進み、前の階段を上がる。
そこに待っていた優しそうな神官は、スサーナを見て安心させるように微笑むと、脇の小卓から一枚紙を取り上げてスサーナの前のテーブルに置いた。
「これは、本当の契約紙です。魔術で作ったまがい物とは違う、神と王、王と人の契約を示すものですよ。こちらに、王となすべき契約が書いてあります。さあ、まずは読んでください。」
四方に房と紙垂が飾られた、荘厳とも言っていい作りの契約紙には、流麗な飾り文字で数項目と思われる文章が書いてある。
「統治者を弑することなかれ」
「冀求してあまたの
「自ら多くの
――ああ、これが戒律。
最初の三つの項目は、講で習った美文……古い文章の形で、書いてあると言うより焦げ跡か何かのように紙に焼き付けてあるように見える。
なるほど、変えることができないっていうのはそういうことか、とスサーナは納得した。
「国民を殺すことはならない」
「最低限生き続けるのに必要な欠乏分を超えて盗み奪略してはならない」
小二項は少し堅い文章ながら平文のように見え、インクか何かで書いてある文章のように見えた。
――これ、ものすごくゆるいと思うんですけど、これ以上に軽くするのって逆に難しくないですか?
さっき怒っていた貴族はこれを一体どう変えろというのだろう。読みながらスサーナは疑問に思う。
それに続くのが小戒律だろう。スサーナのものは商人用らしく、「利益のために他人を騙してはならない」「貧しい人のために年に一度は多少の喜捨をせよ」など、いくつかの項目が並んでいた。
どれも、そうそう破ろうという気にはならない戒律のように思える。
――実効があるからちょっと怖いですけど、言ってるのはいいことですよね。別に海賊市で詐欺をしたいとかそんなこともないわけですし。
納得して読み終わったスサーナは首を上げて神官を見る。
「読み終わりましたね?では、受けた名をこちらに注ぎなさい。そして、上がった契約の火を……」
その時、スサーナに呼びかけかけた神官に、後ろの方から困った顔の別の神官が近づいて耳打ちした。
「……―――卿が……書き換えを ―――お望みで……―――、――今――……」
「なんと。まったく、致し方ありません……」
眉をひそめた神官がスサーナに声を掛ける。
「名を注いで、少し待っていてください。直ぐに戻ります」
スサーナは目を白黒する。
「はっ、はあ……」
――儀式の真っ最中、しかもいちばん重要なところっぽいのに離席しちゃうの? まあ、緊急事態なのかなあ。
すぐに身を翻した神官を見送って、斜めにしかけていた杯の中身を全部紙の上に注ぐ。
「あれ……?」
火が上がらない。
さっき見た貴族の少年のように火柱めいた光が上がるのかと思っていたけれど。
注いだ水がまるで無重力であるかのように、紙のほんの僅か上に浮かんだままになっている。
――こ、これはえっと、ああ、神官さんがなにかしないといけないのかな……?
一瞬戸惑って水を見つめるスサーナ。顔を近づけた刹那、さっきの青い炎とは違う、どちらかと言うと螺鈿や黒い宇宙ガラスめいたほろほろした光が細かい光の粒を引いていくつも上がり。
「えっ?」
ぱしん!
スサーナにぶつかって、吸われるように消えた。
「えっ、えっ?」
なんか、さっき見たのとだいぶ違うような……!!
見れば、紙の上からは水は消えて跡形もない。
スサーナが戸惑いながら空になった杯を捧げ持ち、そのまま待っていると、しばらくして眉間にシワを寄せた神官が戻ってくる。
「ええと……」
所在なげに神官を見上げた少女を見て、神官は、杯の中が空なのを確認して少し面白そうに笑った。
「ああ、先に飲んでしまったのですね。もっと威厳を感じていただけるように行うべきなのですが、お待たせしてしまったので仕方ない。では、これからは貴方は王の良き臣民です。つつしみ敬う気持ちをゆめゆめ忘れなきよう。」
飲んで……ない。
それとも、さっきのアレが飲むということなんだろうか。
スサーナはなんだか釈然としない気持ちで、神官が契約紙を巻いて奥に持っていくのを見送った。
そのあとは席に戻り、順々に子どもたちが同じように入口に入っていくのを眺め。
その間に、場を持たせるためなのか、戒律を守ることがどんなにいいことなのか、とか。大人の準備をするとはどういうことなのか、なんていう、神官や街の要職の人達がしてくれるスピーチを聞き、楽団が演奏してくれる色々な曲を聞いて、昼過ぎぐらいに後は自由解散していい、ということになった。
それから少し席に残って、あとの方の順番だったほかの三人の残りが出てくるのを待つ。
「どうでした?」
「すげえな、契約! なんかさ、よくわかんない声がしてさあ」
「ドン、いくらスイだからって貰った名前を教えるのダメだからね。プロポーズするときは言ってもいいらしいけど、今するつもり?」
「ばっ、しねーよ!」
「ねっドン、私大人になったら私の魂の名前教えてあげるわね」
「えっと、よくわからない声だったんですか? 私、女の子の声かと」
「うーん、女の人って言われたら女の人? 男か、女なのか、大人か子供かもよくわからなかったわ。一本調子な感じ。」
「まあ、神様の声なんだろうしそんなものなんじゃない?」
「神様っつえばさ、あの火なんなんだろうな、水だぜ?紙にこぼしたの。ぶわーって燃えてさあ。飲めって言われて絶対口をやけどすると思ったけど、しなかったし。」
「なんか神様の力みたいなものなんじゃない?火みたいだったけどさ、赤くなかったしね。」
「神秘的だったわよね」
それとなく聞いてみても、他の三人とも、性別も年齢もわからない声に指示を受けた、と言うし、契約紙には火柱がたち、それを杯に受けて口に当てたと言う。
スサーナは曖昧にごまかしながら、なんだか、晴れがましい場のはずなのに胃のあたりに消化の悪いものをたっぷり流し込んだみたいなズシンとした感覚が残ったような気がした。
寂しい。
みんなと違うのは、嫌だ。
だって――
なんだか思い出したくないことを思い出しそうになったようなもやもやした気分になったスサーナは、ハプニングがあったせいかも知れない、なんといっても最初の一人だったし、途中で神官も離席したのだから。そう強いて思うことにした。
うちに帰るとお祝いの準備が整っていた。
スサーナの好きな焼いた鶏肉と、煮込んだ塊肉料理、ゆるいジャムを載せたシフォンケーキ。
しゃきしゃきに茹でたアスパラガス。根菜は甘くなるようじっくり蒸して。砂糖漬けにした苺とオレンジ。
塩をまぶして蒸した立派な白身魚。トロトロの玉ねぎがたっぷり入ったスープ。
おばあちゃんの得意な焼き菓子が重ねたお盆にたくさん。
溶かしたチーズをひき肉と小麦粉生地のうえにたっぷり広げた料理。ネギとイラクサの渦巻きパイ。
おばあちゃんが漬けたオリーブ。新鮮なミルクから作った濃いクリーム。甘いものと甘くないもの。
魔術師から特別な日に買い付ける、よく熟れた桃や無花果に、きらきらとした大粒の青葡萄。
「契約おめでとうスサーナ。さあ、明日から徒弟だよ! しっかり頑張らなきゃねえ」
おばあちゃんが笑う。少し顔が赤くて、ワインをちょっと飲んだらしかった。
「スサーナ!君の作った髪覆いの評判を聞いたかい? みんな噂してたよ。うちで作ったものだって広めたら、もう5人から問い合わせが来た。すごいじゃないか。もう一人前の職人みたいなものだぞ」
叔父さんに抱き上げられてぐるんっと一周振り回される。
お針子のみんながわいわいと次々に食べ物を勧めてくる。
「ささ、お嬢さん! 式が長引いたんですって? お腹が減ったでしょう! このパイを食べてみてください。私が作ったんですよ!」
「だったらこっちのレバーパテはわたしが拵えたんですからね」
「あんたたち、スサーナちゃんの口は一つしか無いんだよ! それじゃアタシのミートボールのオイル煮をね」
ブリダやマノラ、普段はお店に出ている人たちも揃っていて、どうやら今日はお店をお休みにしたらしかった。
スサーナは叔父さんに振り回されながら、ようやく安心して、ぐうっとお腹を鳴らして、笑った。
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