第36話 契約式 2
こっそりと横手の小さなドアから出て、漆喰か、白亜で出来た隧道めいた白い回廊を通る。
どう見ても裏手だろう、ということがわかる行き止まりに止まったリューがぺたぺた壁の段差を触るのを見ながら、スサーナは頭の痛い思いをしていた。
――なんでついてきちゃったんだろう。
当然、二人の暴走を止めようとして止めきれなかったのが原因なのだが。
不幸中の幸いは、腰の後ろにリボンを盛り、ふんわり左右に張った形のドレスを着たアンジェが動きづらいから、と今回はついてこなかった、ということだ。
どうやら構造を知っている、と言ったところで、ドンは一度来たことがある、と言う程度らしい。なんだあ行き止まりか、とつぶやいてつまらなそうにしている。
これはすぐに戻れるのでは、スサーナはそう期待していたのだが。
「ねえ、戻りませんー?」
うんざりが多少籠もった声のスサーナを尻目に、リューがぐっと壁を引き開ける。
段差と装飾のある壁に見えたのは、木製の引き戸だったらしい。
その向こうには幅1m程度ほどのぼんやりと薄暗い通路が広がっている。
「よし、開いた」
「おおっ、すっげえ。リュー、やったな!」
「うええ!? なんですかここ……あの、明らかに隠し通路では?」
「ん、そんな大げさなものじゃないよ。壁内通路。儀式のときとか、雑用の人が廊下を歩くとまずい時に使う」
「なんでそんなの知ってるんですか……」
「うちの親のとこの職人がここの補修をやったから。」
しれっとリューが言う。リューの家は多数の工匠を抱えた建商だということはなんとなく聞いていた。
子供に何でも教えるのはこれだから駄目なんだ。スサーナは深く心に刻みこんだ。情報漏洩とかそういうことはこういうところから起こるに違いない。
「リューくんがドンくんより暴走するとは思っても見ませんでした」
微妙にトゲを込めたスサーナの言葉にリューが苦笑する。
「ちょっとひどくない? ドンほどは後先見ないで突撃はしないよ。後どのぐらいかかりそうか見るだけ。」
「えっ」
裏切られたような声を上げたドンをスルーしてスサーナは腕組みする。
「やめましょうよう。だって貴族ですよ? こっそり見たりしてるのがバレたらどんな目にあうかわからないじゃないですか。」
つい数ヶ月前、乱暴な貴族に杖で打たれたのはスサーナの記憶にまだ新しい。
偶然と人に助けてもらっての複合でどうやら怪我はせずに済んだが、運が悪かったら命に関わっていたような行為だった。
あの貴族だけが特別乱暴だったのかもしれないが、もしそうじゃなかったら、貴族というのはそういうことに躊躇しないものかも知れない。スサーナはそう危惧している。
非合法かつ非公式な場だったから杖で打たれた程度ですんだが、公式な場で貴族の機嫌を損ねたら、よくはわからないがなんだか死刑とかそういう事にならないとも限らない。
「そんな近くには行かないよ。それにさ。」
リューは一旦言葉を切って、ちょっとなにか思案するような顔をしてみせる。
「スイだって、どのぐらいで儀式が始まるかは知っておいたほうが得だよ」
「そりゃ、ただ待ってるのは暇でしたけど……」
「そうじゃなくて。すごく時間がかかりそうなら……ほら。トイレ。」
「う゛っ」
スサーナは喉が詰まったような声を立てた。
この世界にはファスナーはまだなく、また、どうやらマジックテープもない。
つまり、ドレスは一人で着脱するのは難しく、脱ぎ着にも時間がかかるのだ。
……中世フランスの貴婦人は、ドレスを着て立ったままで庭で排泄をした、と言うけれど、この世界ではそういうしきたりはない。すくなくともスサーナの知る限りではなかった。
ちなみに、おがくずや灰を使用するコンポストトイレ椅子タイプやその都度肥溜めに捨てるおまるタイプが比較的一般的であり、高級になってくると貯めた水で浄化槽に流すひと手間かけたボットン式、川や湧き水を洗浄に引き込んだ完全水洗式のうえで下水道を完備した地域ももちろんある。最高級は術式付与した即分解タイプのものとなる。
スサーナは運良くまだ体験したことはなかったが、穴をほっただけのタイプも郊外の方に行けばまだまだそこらへんにあるという。
この神殿のトイレがどうなっているのかわからないが、最高級ならよし、もし、もし下の方のものだったら、ドレスを汚さないために脱いでトイレに行く必要性がでてくるのだ。
そして、一旦脱いでしまえば即座にするっと着付けられるものではない。
ついでに言えば――スサーナの脳内で誰かが平坦な声で問題文を読み上げた。
といいち。子供達の半分が女子として、一人が脱いで用を済ませて着るのに最速を見積もって五分かかるとする。それを前提として、尿意を覚えた全員がスムーズにトイレに入るまでに最大どれほど時間がかかるか。
……神殿にどれほどの数のトイレがあるのかはわからないが、流石に数を設置してあるとしても現代日本のパーキングエリア並みとは行かないだろう。
優雅なままで式を迎えるには、開始までの時間を知って、短時間で済みそうならば良し、まずそうなら他の女子たちに先んじてさっさと出しておく、その辺の駆け引きが必要となる。そう理解してしまったスサーナは、体のいい口実だろうとわかっていてもそれ以上異を唱えることができなくなってしまった。
「うん、ほら。それに、アンジェにも教えておいたほうがいいだろ?」
「女の子にそんな話をふるなんてハシタナイデスヨ……!」
苦し紛れに呻く。
「えっ? でも、今朝母さんが「女の子がドレスを着ているときは紳士たるものさりげなくトイレのことを気にしてさしあげるのです」って言ってた」
「お母様のご教育は明らかに正しいですけれども!」
いかにも誠実です、と言う顔をしてみせるリュー。
そうだとしても気遣いの方向性がなにか違うのではないか。頭を抱えたスサーナである。
「なあ、さっさと行こうぜ」
トイレ話にまったく興味を示さず、というより通路の向こうが気になりすぎて耳にも入っていなかったのだろう、キラキラ目を輝かせつつ通路の中に頭を突っ込んでいるドンにため息一つ。
「どれぐらいかかりそうかだけ見て、すぐ戻るんですよ。打首とか冗談じゃすみませんからね!!」
「おう!」
元気なお返事が帰ってくる。ほんとうにわかっているのか不安だ。
ドンが意気揚々と通路に突っ込み、リューがそのすぐ後に続く。スサーナも諦めて扉をくぐった。
通路に入ると薄暗さはあるものの、数mおきに小さく外壁側に隙間が開けてある様子で歩くのに支障はない程度のものだ。
スサーナは意気揚々と通路を進んでいく男の子たちの後を追った。
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