第29話 市場に行こう 9(セルフレーティング要素あり)

 いやあ、まずったなあ。

 ヨティスは他人事のように思っている。

 大きく振られた装飾杖の柄で頬を張られる。首を揺らして派手に倒れたふりをした。


 だからマインドセットが必要だと言ったんじゃないか。ミロンめ、お前があまりに遅いから悪い。

 後ろの方にいるミロンを激高したお客サマにわからないように睨んだ。


 ヨティスは師に言われたことを思い出していた。

 お前は感情の制御がおろそかにすぎる。

 それでも、こんな場所で特に制御が必要になるとは思っていなかったのだが。


 最初は良かったのだ。

 ヨティスは客の装飾品を、衣装を、才覚を褒め称え、多くは教えぬと言いながら垂れ流される「輝かしい経歴」に感じ入ってみせた。

 ――成金の二代目か。ちゃちな。

 彼らの望む場所には多少御粗末すぎる人物ではあったが、数回交換やら譲渡をされれば辿り着けるだろう。その点では問題はないと言ってよかったのだが。


「しかし混血とはな!まったく穢らわしい!」


 普段はまったく気になどならない台詞だった。なんなら同意すらしたかも知れない。この愚かそうな常民の思う意味とは違うだろうが、血の純系を保つ意味は知っている。


 曰く、畜生にも劣る、地虫のような生まれ。

 曰く、獣と番うとはなんと愚かなことをしたものだ。さしずめ盛りのついた……

 曰く……


 侮蔑の言葉を連ねる口にイラッとする。

 ペラペラとまあよく飽きぬことだ。普段よほど声を出す機会もないのだろうが、もう少し音量を抑えることができないのか?


 ただ、それを言うならお前のほうが蛙に似ている、そう思いながらも表情は感じ入った敬意と感謝を浮かべてみせる、そのことは平時ならしごく容易だったはずなのだが。


「だがまあ、私は寛大だ!漂泊民との混血であれ、良い働きをすればそれなりの扱いはしてやってもよい!」


 言葉とともにじっとりと水気を含んだ視線が肌を這うのに気づく。ああ、そういう趣味の御仁か。大分倒錯しておられることで。子の出来ぬ組み合わせでならむしろ興奮を誘うって? やれやれ。


 恐れ入ります。そう答えればこの場での目的はまあ七割果たしたようなものだ。そう思いながら、そうするつもりで口を開けて――


「混血混血とおっしゃいますが、思い合って縁組した者、望まれて生まれた子もいるでしょう。忌まわしいつながりばかりではないと。」


 取り繕うように言ったのは本当に半ばとっさのことだったのだ。


 直ぐ側を横切っていった小さな人影を、急いで目で追った。

 ああ、別の子供だ。さっきの子ではない。そういえば小銭仕事の子供が幾人か居た。


「小汚い混血が私に口答えをするつもりか!」


 男が喚き出すのを見て、あ、まずいな、と思った。

 杖が振り上げられるのを見て口元だけに苦笑を浮かべて――そして、この顛末だ。



 たしかに口は滑った。それは認めよう。それでも、流石にあの程度許される範囲の軽口ではないだろうか。


 ――なんだってまたこんな狂犬を連れてきたんだ。

 倒れた腹に垂直に杖の先が打ち込まれるのに、ほんの少し打撃が肉に入った感触を与えてやりつつ、内臓に衝撃がないようにカバー。方向も反らしつつ、じっとりと苦情を込めた目でミロンを眺める。


 ミロンは認識欺瞞の術式を呼び出すのに躍起になっているようだった。


 うん、その認識と行動は正しいよ。だけど、もう少しこっちを気遣ってくれてもいいんじゃないか? ヨティスは目線だけで八つ当たりをした。


 このまま殴られ続けたところで、多少気分が悪いぐらいのものだ。

 このままお客サマの気が済むまで殴られて、ちょっと無様に動けなくなったフリでもして、お引取り願えばいい。

 それから次の目標ターゲットを円満に探すには、この場を見る人間の認識をボカすのがいちばん最優先だ。誰だって騒ぎを起こしたばかりの商品など買いたくはない。だから、ミロンの行動は最も理にかなっている。


 今度はみぞおちに蹴り込まれる靴先を感じながら、口から漏れる空気のフリをして、小分けにしてウンザリしたため息を吐き出した。


 腕を打たれ、腹を蹴られる。どうやら杖は中に金属が仕込んであるらしく、人間を殴る用途の調整がしてあるらしい。いい趣味ですこと。ヨティスはなすがままに打たれつつ感想を思い浮かべる。


 別に辛くはない。鍛錬でいくらでもこの類のものの教習はあったし、それに比べればなんということもない。気の回し方の良い復習になるぐらいのものだ。

 顔を踏まれたときにだけ、男がこれまで歩いた場所を想像してウンザリした。



「何をしているんですか!」


 小さな影がヨティスと男の間に駆け込んでくる。


 ヨティスは蹂躙される演技も忘れて男から視線をそらし、ぽかんと口を開けた。

 さっきの子供だ。

 ――ミロン!!

 欺瞞がかかっていたはずではないのか。ええい、これだから魔術師月の民製の物品付与術式アーティファクトは!


「まっ、まだ買っていない商品を損なうのは商取引上ここでだって許されていないはずです! 商品を傷物にして補償ができるんですか? 無理ですよね? 無理ならそこをどいてください! こ、この奴隷は私が買います! 私が買うつもりだったんです!」


 ヨティスの前に立ちふさがったままで男を睨みあげる少女に、男の目に怒りと嗜虐の色が浮かぶ。


「浮浪児め!偉そうな口をききおって! 大人に楯突くとどんな目に合うのか教えてやる!」


 ――おいおい、待て。浮浪児とご同類の見分けもつかないのか?

 その外套の下、お綺麗な真っ白い絹地のブラウスを見るだけでわかるだろう。事によったらその子供のほうがまだアンタより地位は高い!


 客同士の諍いはここではご法度だ。

 子供に向かって鉛入りの芯の入った杖を振り上げるのにヨティスはぎょっとする。

 ――なんで本当にこんな狂犬を連れてきたんだよ!!!!!!!

 御しやすいよう多少の催眠はしてあるのかも知れないが、それでもこれは度を越している。


「ミロン! 欺瞞解いて! 早く!」


 どうせ子供が入ってこられるような不完全な欺瞞なのだ。解いてしまえ!

 客の諍いには直ぐに市場の私兵が来るはずだ。他の客や運営に見せて、止めさせなくては。

 男の足を掴んで引く。杖が空を切る。腕から足をひっこ抜いた男がヨティスのこめかみを力いっぱい蹴る。


「無理だ!今強めたばっかりで……!」


 くそっ。

 一瞬、鎖を切るべきかどうか迷った。鎖を切れば今日の仕事はぱあだ。冷静に判断するなら、自分は手出しをせずに欺瞞が解けるのを待ち、私兵が男を取り押さえるのを待つべきだ。

 杖を振りかぶられた少女も、危険だとわかったのだから逃げるだろう。

 足を掴んだ自分の方に男が怒りを向けてくることも期待があった。


 判断が遅れた。


 少女は逃げなかった。

 もう一撃ヨティスの顔を狙って蹴り上げた足にしがみついて、男を睨みつけたのだ。

 激高した男が少女の襟首を掴んで引き上げ、そのまま押し飛ばした。

 掴む引き手にされた、少女が首元に結んだリボンが男の手に残る。

 それはどうやら少女の被ったボンネットのものだったらしい。壁にぶつかって座り込んだ少女のフードの下から闇を凝らせたような髪が広がるのをヨティスは呆然と見た。


 こんな。

 ――混血の髪がこんな色合いを示すものか!


 鳥の民の黒はウロ。魔力が流れ込む新月の闇の色だ。常民のただの色とは違う、染料でまぬ、抜けることもない黒。


「なんだ、貴様も混血か、汚らしいあいのこが群れよって!」


 少女の頭に杖が叩きつけられる。見ていられなくなったのだろう、駆け寄ってきかけていたミロンがうわあっと悲鳴をあげる。


 幼い声の悲鳴で、ヨティスははっと一瞬の呆然から回復する。


 しまった!ただの子供があんな杖で殴られてただで済むわけがないじゃないか。いくら他人をかばうようなやり方に馴染みがないと言って、そんな遅れのとり方をするだなんて。

 鎖を引く。手応えが重い。諸島の奴隷鎖は魔力を込めてあると言ったが、これほどとは。焦燥。吐きそうな後悔。


 フードはたわまず、ふわりとした形状のまま杖を受け止めた。杖の木材が圧に押し負けたように縦にはぜて、中の金属芯を覗かせた。

 ――守り刺繍!


 ヨティスは力任せに鎖を引き抜く。やるべきことやらなくてはいけないことは色々あるが、何もかも全部、目をそらして後回しに置いておくことにした。


 経路パスに魔力を通す。肌の下で糸が燃えるように熱を持つ。今傍から彼を見るものは、彼のはだえに鮮やかな朱色のけものの形を見るだろう。入れ墨と思うものもいるかも知れぬ。その実は糸だ。肌の下に縫い込まれた朱糸が魔力を帯び、彼の虚に力を注ぎこむ。


 世界が鈍化する。飛び込む。もう一撃杖を振り上げた男を押しのける。男の前から少女を引きずり出す。意識を失ったようで、身体にはだらりと力がない。

 ぐったりと目を閉じて、頬には血の気がなかったが、抱えれば胸郭が規則的に動いているのがわかる。頭は砕けていない。出血も。息をしている。ヨティスは少しホッとした。

 抱えてみれば流石にヨティスよりも少し背の低いだけの同年代の少女だ。少しだけ戸惑う。「そういう戦い方誰かをかばってのやり方」は学んだことがなかった。

 刹那の機動に男はついてこれない。あるいは、見えすらしていなかったか。ぽかんと間抜け面を晒して立っている。


 どうにでもできる。


 腕をたわませて、外に振った拳で男を地面に叩きつける。

 湿った雑巾のような音がして、男の喉がげくっと潰れたカエルのような音を立てた。

 ずんと背を踏みつける。みしみしと背骨が鳴る。白目を剥く。泡を吹いて全身が弛緩した。

 首を落としてしまおうか。衝動的に思った。自分のしたことの意味を思い知るがいい。腕に抱えたぐったりした身体が温くて重たかった。


 殺せば、こんな場所で起こったことでも流石に追及の手はあるだろう。しばらく隠れ潜む必要もあるかも知れない。目的を果たすのに支障もでる。


 それでもいいか。どうせ金で受けた仕事だ。

 衝動的だと自分でも理解しながら、プロにあるまじき思考だと怒る師匠の顔を隅に追いやった。


 糸が作る概念のかたちが指先に鋭い爪を形作る。腕を振りかぶる。


「そこまで」


 声がする。ヨティスと男の間を阻んでいくつもの小さな障壁が虚空に浮いた。

 目線を向けた先には乾いた血の色のローブを纏った影。

 魔術師月の民


「ここの運営?まさかこの男の子飼いじゃないとは思いますけど」

「いいや。領域内で最大出力の欺瞞球を使ったものが近くにいるのを察してね。正確にはここは私の領域ではないが、少し気になることもあった」


 唸り声にも似たヨティスの怒声に対し、魔術師の声は凪いでいる。

 慌てたミロンがひょっくらひょっくら駆け寄ってくる。


「っうぉい!殺したのか」

「まだ」


「関係ないなら放っておいてくれませんか? どうせこの男に縁があるわけではないでしょう」

「流石に殺人があると官憲の目が厳しくなる。我々は黒市場ブラックマーケットにはほどほどの浅層を漂っていてもらいたい」


 魔術師が指差すと、ヨティスの足の下で切れ切れに喘鳴し、身体を小刻みに痙攣させていた男の呼吸が規則正しいものになる。なんだかひどく癪だった。


「魔術師が黒市場の心配ですか?」

「ああ。なかなかの稼ぎになるからね」

「まさか魔術師とあろうものが賃仕事ですか?」

塔の諸島ここはそういう場所でね。パレダの暗殺士殿にはわからないか。」

「!」


 魔術師の言葉を受けたヨティスから殺気があふれる。

 おい、やめとけ、と上ずった声でミロンが言った。


「……わかりますか。」

「ああ、なんとなくね。多分そろそろ来るだろう、と言う話は出ていたし。君と似た立場の者たちがそれなりに入ってきているのもわかっている。……なかでもいちばん堪え性はなさそうだな、君は。」


 肌がチリつく。この手の感覚を外したことはない。魔術師は隙だらけに見えるが、どうやら自分の周辺には対抗呪文を十重二十重に編まれているようだ、とヨティスは把握する。

 ふうっと息を吐く。きつく緊張させていた筋肉を弛緩させた。肌刺繍が薄れて、表層から姿を消す。


「訂正を。僕はパレダの暗殺士じゃない。パレダに雇われはしますけど、鳥の民は氏族とあるべき御方以外どこにも所属しない。 ……僕を捕えますか?」

「いいや、別に。」

「?」


 表情に覚悟と疑問符を浮かべたヨティスに魔術師はゆったりと言う。


「今回の件については我々は干渉しない。そう決まった。有り体に言うと兄でも弟でも迷惑なんだ。報奨の甘い果実だなどと思われたくはないし、早く出ていってもらいたい。 ……だから、とりあえず今するのは即物的な話だけだ。当座君がここでこいつを殺さなければいい。」

「お優しいことで」

「もっと優しくしてやってもいい。この男これは記憶を消してそこらへんの長椅子の上にでも投げておいてやっても構わない。酔って眠り込んだとでも思うだろう。あとは他の客を探すなりなんなり好きにすればいい」

「うわあ。いいんですか所領の治安維持をしなくても。」

「本島は誰の所領でもない。好き勝手網は張っているがね。」


 これで話は終わりだ、とばかりに魔術師は歩み寄ってくる。ヨティスは男を踏む位置から飛び退いた。

 魔術師の指先から虚空に描かれた図式が刹那光り、ふっと男の頭の上で消える。

 ヨティスはうええ、と声を出した。魔術式で頭をかき回されるのなんて想像したくもない。

 太った男が軽々と虚空に浮かぶ。こういう細かいワザは糸の魔法の魔術師月の民の術に劣るところだ。

 足の鎖が蛇のように蠢き、金杭に戻る。半ば石畳から引き抜けていた金杭が逆回しのように地面に埋まった。

 これで何もかも元通りだ。 ……ヨティスの腕に抱えられた女の子を除けば。


「その子を貸しなさい」


 ヨティスはぎゅっと少女を抱え直した。


「どうするつもりなんです」

「どうもしない。家に帰す。……得意先の子供だ。防護式を掛けてある。役立ったろう?」


 抱え直した拍子にがくんと揺れた頭から滑り落ちたフードを魔術師が拾い上げる。そういえば似た色を使っている。本当に関係があるのか? では、先程のあれは守り刺繍の発動ではなく魔術師の術だったのか。そうは思えなかった。頬の横でさらりと流れた黒髪を横目で見る。


「本当に?この子は鳥の民じゃないのか」

「その子は常民の家の子供だ。」


 魔術師の声は凪いでいて、真偽は読み取れない。

 腕の中がふっと軽くなった。綿毛を抱き取るように軽々と抱きとられる。

 ……あんなに重くて暖かかったのに。


 魔術師の腕の中の少女の印象がすっと薄くなる。目を少しそらしただけでもう見落としてしまいそうなほど。本式の認識欺瞞の術だ。

 鳥の民には効果の薄いこの手の術を目の前で使って、しかも効かせてみせるなんて性格の悪いやつだ、と思った。

 魔術師が歩み去っていく。


「オイ、良かったなあオイ。一時はどうなることかと思ったぜ。じゃあ次の客の選定はもうちっと気を使うからさ! いやあ良かった!」


 ミロンが弾んだ声で言った。一時は尻をまくって逃げる後始末のことすら考えたのだ、当然だろう。

 ヨティスは短く鼻を鳴らした。



 冷静に考えれば、起きた事自体は感謝しか覚えないようなことで。恩人と呼んでいい相手であるはずなのに、ヨティスはなんだか、とても、とても、とても、癪だった。

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