第28話 市場に行こう 8
少女は肩に力を入れて早足で石畳を歩く。
皆と居たときには気にならなかった冷たい風がぴしぴし頬に当たって、痛いぐらいだった。
「行って、なんになるんだろう?」
冷静な部分の声がする。
なにか出来るのか。それより、なにかするつもりなのか。
奴隷なぞ、子供の小遣いで買えるものではないだろう。
じゃあ、どうする? 逃がす?
まさか。スサーナはかぶりを振る。自分の非力さ無力さは重々承知している。ただの10歳の子供一人に、そんなこと出来るはずがない。
第一、相手の事情もわからないのにそんな事ができるものか。
じゃあ、何しに行くというのか。行ったところで相手の利になることは何一つできやしないのに。そんなもの、お為ごかしですらない、なんの意味もない行為だ。
路地に入る。立ち止まる。荷物から衣装を出す。フードを被る。その上から薄手のコートを着る。
また早足で歩き出す。
わからない。どうも自分は、ただ話してみたかった、それだけなのだ。
なんていう最悪の客! スサーナは自嘲する。
海賊市で非合法の奴隷を買う人間を糾弾なんてできやしない。いや、客ですらないただの冷やかしなのでもっと悪い。すくなくとも買い手は、もしかしたら奴隷自身の状態をマシにするかもしれないし、必要な金を払うのかもしれないからだ。
それを、自分は一銭も払わぬまま、自分の都合で彼の時間を奪おうとしているわけだ。なんてわるい、傲慢なひやかしだろう!
理解っているならやめればいいではないか。スサーナの冷静な部分はさっきからずっとそう訴えかけてくるのだが――でも。
これを逃せばもう二度とは顔を合わせることがないかもしれない相手だ、と思ったら、どうにも話しておきたいような気がした。
おかしな話だ。
自分の血筋、とか、身の上、なんて、普通に育ってきた子供よりずっとどうでもいいはずで。
自分の自我の根本とか、アイデンティティなんかは、申し訳なくなるぐらい、こちら……顔も知らぬ両親の属性には立脚していないとわかっていて。――例えば、そういう……漂泊民とかの話題になった途端にみんなの雰囲気がピンっと張って場が気まずくなって悪いな、とか。例えば、そういう話題を知らずに出した人から、みんながそっと自分を遠ざけようとするのが申し訳ないな、ぐらいにしか実感なんてしてやしないのに。
なぜだかどうにも、同じ……混血らしい少年を見て、なにか話しておかなくてはいけないと、そう思ったのだ。
スサーナの足が一層早くなる。冬の風を切って、小走りに走り出していた。
ヨティスは背筋を伸ばして胡座をかいていた。
お披露目の壇上からは降ろされて、少し離れた壁際の杭に、中途半端な長さの鎖で繋がれている。そう人気がでるはずもない少年奴隷の彼は、だいぶ隅のほうに放っておかれていた。
ぼんやりと海賊市の全景を視界に収める。
廃園の市に満ちた人の群れは、なんとはなしにヨティスに小さなコガネムシの群れか、でなければ浅瀬でくるくる惑う小イワシの群れを連想させた。
ああ、暇だ。と思う。
先程から戯れに集中していた、体熱を末端までくるくると通して、体表の体温を一定に保つ鍛錬――彼はそう気にするものでもないが、この場所はだいぶん気温が低い――にも、今やすっかり飽き飽きしきっていた。
簡易的な奴隷市場を囲む者たちは、麗しの零落した美姫…という触れ込みの奴婢に夢中で、こちらに目線を向けるものすらいない。
まあ、それを宛てにしてこの日に出品されるようにしたのだから当然ではあるのだが。目立つのは本意ではないのだ。
まだか、と、苦々しく思う。
零細の奴隷商人に扮した相棒のミロンが、手はず通りに都合のいい金持ちを言いくるめて連れてくる手はずになっているのだが、どうも酒場女か何かに声を掛けるのにうつつを抜かしているらしく、なかなか戻ってはこない。
羽を伸ばすのも時と場所を考えていい加減にして欲しい。表情を取り繕うのにも、マインドセットというやつは必要なのだ。
ヨティスは愚かな金持ちに気に入られて信頼を得るためなら、精々媚びへつらってやるつもりでいた。
「あっ、あの」
か細い声。
――なんだ、子供?
見ると、小さな子供が彼に与えられた茣蓙の端スレスレに立っている。
彼自身も子供と呼んでいい年齢――ありていにいえば、目の前の小さな影とほぼ変わらぬだろう――ではあるのだが、ヨティス自身は自らを子供であると意識したことはなかった。
眼の前に立った子供は、全身にガチガチに力を入れて、まるで猛獣でも目の前にしたようだ。
「なにか」
ぶっきらぼうに返せば、ぴくっと全身を震わせる。
「あの、今、お暇ですか」
「は?」
「じゃ、じゃなくってえっと、今お話しても大丈夫ですか」
あまり聞き慣れない訛り、いや。こちらの国の言葉はこうだったか。
柔らかく澄んだ、甘みを帯びた声だ。どうやら女児なのだろうか。フードとコートで全身を覆っていて、よくはわからない。
ヨティスは教えられたこの国の言葉をすっと頭の中で再生しながらまじまじと小さな影を見た。
ああ、なるほど。
身につけたフードやコートは質素なものながら、その内側から覗く衣服が高価なものだと気づく。つまり、珍しい黒い髪を見た金持ちの子供が肝試しのつもりで近づいてきたのだろう。
子供は客にならないが、親が客にならないとも限らない。ヨティスは愛想よく微笑んだ。
「ええ、どうぞ。」
「ええと、ええとあの」
フードの影で口をはくはくと開け閉めした気配がする。
「あの、あなたが、混血だって……」
ああ、ほら、やはり。
「ええ。お恥ずかしい話です。この穢れた血筋のおかげでずいぶん苦労しました。僕はこうして皆様の温情で生かしていただいてます。」
なるべく哀れを誘うような、悲しげな表情で言ってやる。
穢れた血筋、などというのは癪だったが、まあ、口先ではなんとでも言えるし、本当に自分が血混じりならばきっとそう思うだろう。嘘はついていない。どの血筋のことを言っているのかの解釈は相手が勝手にすればいい。
「あ……すごく、苦労されたんですね……ごめんなさい。」
「いいえ、気にしないでください。」
少女は、あの、とかうー、とか言いながら、視線を彷徨わせたようだった。
「あの…ご両親、えっと、えっと……い、今の物言いで好きなはずないですよね……えーと……生きてて……こう……いやえーっと……えーっと、あの、何か、何かこう話……」
「は?」
口に出てますよ、と言うべきなのだろうか。ヨティスは虚を突かれた。
何やら反応が予想と違う。
少女はあーとかうーとか言った後、何もでてこない…!と呻いて頭を抱え。
「あの!寒くないですか!コートとか要らないですか!」
破れかぶれっぽく言った。
「は?」
「ええっとここ寒いですし、上半身裸だと風邪引くかなって、あああでも、その入れ墨見せてないと駄目なんでしょうか、やっぱり売りですよね、綺麗ですもん……うう、ごめんなさい差し出がましいことを言いましたなんでもないです」
「いや、落ち着いて……」
「ううう、すみません……なにかお話できる切っ掛け……して差し上げられることはないかなって思ったんですけど……」
一呼吸で言い切り、ぜーはーと肩を上下させる少女に思わずツッコミをひとつ。
しかし、――入れ墨だと?
「ねえ、僕が入れ墨をしてるように見えますか?」
「はい? ええっと」
少女の声にきょとんとした色が交じる。
「あれ? なんだか、さっきはしてるように見えたんですけど……あれ? すみません、目がおかしくなってるのかも……」
「さっきはどういうふうに見えました?」
「えっと……カッコいい竜みたいな……?いえ、鳥だった気も…… ……すみません、なんか……ほんとに目の迷いだったみたいで……なんでもないです。」
「……そうですか。」
ヨティスは自分の体を検める。見下ろした肌はつるりとして、なんの痕跡も見せてはいない。
――経絡の回し方をミスったか? 一瞬偽装が解けた?
やはり、変に気を抜くものではない。
「えー、まあ寒いけど大丈夫。寒いのは慣れてるので。」
「そ、そうでしたか」
少女はこくこくと首を上下させる。
「しかし物好きだなあ、あっちの方にもっと君ぐらいの子が好きそうなものが色々ありますよ。」
ヨティスはちらりと視線で入口の方を見る。正直な感想が半分、妙な相手をさっさと追い払いたくなってきたのが半分だ。彼は普通のこどもの相手をするのに慣れてはいない。
「いいえ、あの、実は」
こどもがギュッと手を握りしめるのが見える。
「ゎ、わたしも、混血で……」
「え。」
蚊の鳴くような声だった。なんだか必死、というような雰囲気で、フードの影からヨティスの方を見つめてくる。
ヨティスはなんだか、赤い口を開けてぴゃあぴゃあと追いすがってくる猫の子でも見ているような気分になった。
「なるほど。じゃあ、先程の僕の物言いは良くなかったかな。君を侮辱するつもりはありませんでした。謝罪します。……あのぐらい言っておいたほうが哀れんで高く買ってもらえるかなと思ったんです。」
邪険な色が混ざっていた彼の声が柔らかくなる。
「あっ、いえ、わかります。しょうがないです。 ……ええと。そういう知り合いは全然いないので……その……話をしてみたいなって……思ってて……それで……」
「ああ……それで。肩身が狭い?疎外されているのかな。 いい身なりの子だと思っていましたが。」
「いえ、おうちの人はみんな優しいですし、
「なるほど、君は常民に育てられたんですね。」
「あ……えっと。カ……鳥の民のおうちなんですか?」
「ええ。そちらです。驚いた。その呼び名を知ってる常民がいるんですね。常民は大抵嫌うように教えるんだと思っていたけど。」
「い、いえ!嫌いじゃないです。えっと、刺繍が綺麗でしたし……!その、お家の話とか、辛いお話じゃなかったら聞いてもいいですか? ご両親とか……えっと、普段どういうふうに暮らしてたとか……聞いても?」
「そうか……うん、ごめんよ。」
ヨティスの急な謝罪の言葉に、少女はきょとんとしたようだった。
その願いには応えられないだろう。ヨティスは少女の後方、無駄に金持ちそうな男を伴ってようやく戻ってきたミロンが、こちらを伺っているのに向かって手を揺らした。
はっと後ろを振り向いた彼女が慌てて道を開ける。
ここで話を切り上げることの謝罪だと思ったろうか。
話をしてやりたくとも彼には彼女の望む話はできない。
「じゃあ、商談がありますから。君は行ったほうがいい」
「あ、はい、お邪魔しました、あの」
「何?」
「か、買われたりとかしたいほうの人ですか?」
「うん、それは。できるだけ条件よく、高貴な人に買って欲しい。」
「あっ、えっと、ご武運をお祈りします……!」
少女は一礼してその場を離れていく。
年に似合わぬ堅苦しい物言いに、ヨティスは自分のことを棚に上げて少し笑った。
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