第16話 スサーナとそこそこやかましい村のこどもたち 5

 熊。

 現代日本に暮らしているなら、野獣に寄る殺害という点では唯一に近い被害を出している生き物だ。


 ――羆嵐はやだああああ!!!!!

 スサーナは半泣きで全力疾走していた。

 現代日本に暮らしていた以上、希少な、とも言える獣害被害は喧伝され耳に入る機会がある。紗綾も生前ヒグマ被害の実録小説などを読んで得も言われぬ悪夢を見たことがあった。


 モンスター被害やドラゴン被害などと言われるより――存在するのかもわからないが――微に入り細に入った表現を知っているから陰惨な想像はたやすく出来る。


「ちょっと」


 後ろから聞こえた声をスルーして走りつづけ。


「ちょっと!」


 ぐいっと腕を引かれた。


「ふえっ」

「落ち着きなさい、追ってこないわ」


 追いついてきて後ろからスサーナの腕を引いたのは、少し後ろを走っていたエウメリアと呼ばれた漂泊民カミナの少女だ。彼女の声を聞いて、他の子供達も走るのをやめ不安そうな顔で彼女の周りに寄り集まってくる。


 姿勢を低くしてきた方を眺めた。

 斜面のだいぶ下にいままでいた川が見える。小山のような黒い獣はそこにとどまっているようだった。

 めんどうだな、とフィートがつぶやく。いまいる川べりを通らないで村に帰るルートは子供達にはだいぶキツいものになる。クマがいる場所を避けてぐるっと迂回して帰るにはだいぶ森に踏み込まなくてはならない。ちゃんと森を歩く格好を誰もしてはこなかった。


 がらん、と何かを転がす音。がつがつとなにか食べる音。


「ああっ、取ってあったさかな食われてる……」

「ぼくらがくわれるよかいいよ……」


 ハビとキケが下を覗き込んで小声で頷きあう。スサーナもまったく同感だった。


「あっオレのヤス!」


 ばきばきと木質の何かが折れる音がして、顔色を変えたフィートが身を乗り出すが、慌てたメルチェに飛びつかれて引き戻される。


「くっそー、おいエウメリア、あれどういうことなんだよ」

「うん、ねえ、なにかしってるんでしょ?」


 年かさの子供二人が見上げる視線を受けて、漂泊民カミナの少女はふむと顎に指を当てる。


「あたくしも大したことは知らないけれど。 そうねえ、多分まだ生きた人間は食べないんじゃないかと思うわ。これまでずっと焼いた羊を食べてたから。」

「あっ羊! 羊5ひきももってって食べちゃうの、へんだと思ったらクマに食べさせてたのね!?」

「ええ、しょうがなかったの。生きた肉の味を覚えさせるよりいいでしょ?それと、あたくし達、あそこでごはんを置いて食べさせていたんだけど、たぶん今日は空腹なんだろうなって思うわ、もう羊の肉のストックがなくなっちゃったから」


 なるほど、占いで恐ろしい事が起こるとわかった、とか言っていたけれど、餌付け場だったのか。

 確かにそれはクマと顔を合わせるのは必然だし、忠告しに来てくれたのはありがたい。でも。

 他人の事情に口を突っ込む気はないスサーナだったが、状況が状況なのでぶすっと口を挟む。


「もっと早く村の方に教えてくれればそんな事をしなくってもよかったのでは……?」


 そうしてさえくれていれば、たぶん山狩り的なことをしたのではないか。大人でも危ないには危ないだろうが、子供達だけでクマに出くわすより安全だ。今ここでこんなふうに息を潜めている必要なんかもありはしないのだ。


「いろいろあるのよ。村の人達が信じてくれるかもわからないでしょ? あと、大人の人たちはあのクマが欲しかったの」

「クマをほしいぃ? なんでだよ」

「クマってこわいどうぶつなんでしょ? マジュウほどじゃないって言うけど」


 マジュウ、魔獣か。いるのかモンスター。熊だけで世界の脅威は十分だと言うのに。

 ごくり、と状況と全く関係ないことで喉を鳴らしたスサーナを尻目にエウメリアはそうねえ、と唇に指を当てた。


「あのクマは見世物のクマで、その前は多分戦争用のクマだったんじゃないかって、氏長うじおさが言ってたわ。人の言うことを聞くから外国に持っていけば高く売れるの」

「せんそうようのクマ」

「ええ。港じゃないところから島に入ってきた外国人のよ。傭兵みたいだったって」

「それって……」


 四人の村の子供達が目を見合わせる。


「やまがりじゃね?」

「やばいやつじゃない」


 なんだか物騒な単語が聞こえた気がして、スサーナはオロオロする。


「あ、あのう、どういうことなんでしょう」

「あーうん、えっと、街はちゃんとしたみなとがあるからわかんないんだな」

「島でしょ?国のいちばんそとがわでしょ?外国からがんばってきちゃう人たちがいるんだそうよ」

「かーちゃんとこにくるお客がたまにうわさしてる、えっとなー、ガイコクジンは人がころせるからヤバいんだって」

「みなとをさけるがいこくのひとは、あんまりよくないって」

「ええっ」


 つまり、危険人物がそこらへんに潜んでいるかもしれない、ということだろうか。スサーナはぴゃっと立ち上がり、周りの子供達に腕だの裾だのを掴まれて、しゃがみなおすように促され、また慌てて姿勢を低くする。


「あんたたちが今心配しなくても、だいぶ前の話だもの。空き家から服を盗ってったんだし、わざわざクマを捨てていったんだからいまごろ本土だわ。もう、これだから島の人間は危機感がないのよね」

「服をとったのもアンタたちじゃなかったの……。ちゃんと村の人に言えばいいのに」

「いろいろあるの」


 ぼそぼそいうメルチェにエウメリアは優雅に肩をすくめてみせた。


 幼い子どもたちには知らぬことだが、国に縛られぬ漂泊民カミナは独自の移動ルートを持っている。陸の上だけでなく、海でもそうだった。

 独自の航路、独自の船。正規の手段で港に入れぬ者をいくばくか取って運ぶこともままある。今回の異国の傭兵と熊も彼らの氏族の船が運んだものだった。


 たぶん、熊を捨てさせたのも計画ずくだろう、エウメリアは思う。熊を連れては動けないルートだけを提示したのだろう。親切ごかして買い取ってやればよかったのに、とは思うが、大人のやることはエウメリアにはたまによくわからない。ただ単に買い取る金がなかったのかもしれない。それでこんな面倒なことになっているのだから困ったことだ。


 子供達に説明してやるつもりはない。氏族に他の子供がいないエウメリアはあんまりここの子供達に嫌われては遊び相手がいなくなってしまう。それはダメだ。次の土地に移動するまでとはいえ、遊び相手は、貴重だ。


「なー」


 口をとがらせて何か言い募ろうと考えている様子のメルチェをよそに、ハビが割り込んでくる。


「がいこくじんはいいけど、どうすんだ? クマ、あそこからうごかねーけど、かえれるの?」

「ううん、あたくしも、アンタ達がこっち側に走るって思ってなかったのよね。」


 エウメリアは腕組みをする。実は熊が餌場に来る時間ももっとあとだと思っていたのだ。子供達を見つけた時にかっこよく忠告して感謝されようと思って岩なんかに登っていなければもっと早く、ふつうのルートであそこを離れていたのだが。きっと、空腹に耐えかねて餌がないか早めに見に来たのだろう。


「うーん、森のなかとおってかえるのはヤバいな…」


 フィートも腕を組んで眉を寄せた。もうすぐ夜になる。森の木々の間から夕暮れの光が赤く差し込んでいるが、どんどんとその角度は平らになっていく。


「あのう」


 スサーナは考え込む年かさの子供達を見回して、とりあえずメルチェの裾を軽く引いた。


「ん、なあに、スー」

「森の中、危ないんですか? さっき言ってた魔獣とか、いたりするんですか?」


 そうだとすると、よくはわからないが夜になろうとしているこの時間帯はマズいのではないだろうか。そういうものは夜になると動き出すと相場が決まっている。スサーナは熊も恐ろしかったが、まだ見ぬ魔獣も怖かった。これまでは薄々モンスターのたぐいはこの世界にはいないんじゃないかと思っていたのだ。その甘い期待がすぱーんと裏切られてしまった。


「島にマジュウはいねーよ。ほんとはクマもいないんだけど、マジュウはぜったいいないって。魔術師が、えーっとなんだっけ、なんか、入れないようにしてるってかーちゃんが言ってた」

「えっと、そう、ケッカイ、結界だって。だからだいじょぶよ、スー。……でも、夜の森はそうじゃなくってもあぶないもの。足場もわるいし。」


 イノシシも居るしね、と付け足したメルチェの言葉には大して注意を払わずに、ぽんと手を打ち合わせて、


「わあ、やっぱり魔術師ってすごいんですね……」


 そんな事を嬉しそうに言った街の子に、エウメリアはむっと頬を膨らめた。


「スゴくなんかないわよ。決まりきったことしか出来ない魔術師なんて」

「そうなんですか?」

「そうよ! 魔術師の魔法はねえ、なんだかわざわざ難しくものごとを分解して、それからじゃないと出来ないって氏長うじおさが言ってたもの、全然すごくないわ。見なさい、魔獣は入ってこられなくても熊はあそこで魚を取ってるじゃないの。危なさでは一緒……というのは言い過ぎだけど、でも、ううん、あんまり大きく差はないって言ってもいいと思うの!」

「あー、そうですね……魔獣がいなくても熊が退いてくれないんじゃどっちにしても帰れない……」


 スサーナはがっくり肩を落とす。

 子供達はしばし、座り込んで下の川と、ざぶざぶと石を転がしたり、バケツに鼻を突っ込んだりしているらしい熊の影をながめる。

 普段ここで餌がとれると学習しているせいだろう。一向に川から離れる様子は見えなかった。


「エウメリアさん、他にカ……ええと、お家の方とか近くにいたりしないんですか?」

「そうね……餌がなくなったから、2日ぐらい置いて、新しい餌場を見つける前に箱の罠を仕掛けるって昨日言ってたから……今日は来ないと思うわ」

「なんでおまえは来てたんだよ」

「あんたたちが川に行こうとしてるのが見えたんだもの」

「ああ……」


 つまり、彼女も大人無しで帰り道を熊に遮られている、という点では同じことなのだ。子供達は遠い目を見交わして、しばらく黙った。


 空がだんだん濃い紫色に変わってくる。

 キケがぽそっとおなかがへった、と言った。

 たっぷり桑の実を食べたとはいえ、そろそろ結構な時間が経っている。

 スサーナは、ポケットにいつももっている飴を叔父さんが入れてくれたのを思い出してそれぞれに一つずつ配った。

 なんだかちょっと偉そうだから断られるかとも思ったが、エウメリアも黙って受け取った。

 みんなで黙って飴を舐める。

 飴がじんわり甘いのが余計にわびしかった。


 ――早く帰りたい。叔父さん心配してるかなあ。

 なんだか悲しい気分になったスサーナの雰囲気が伝染したのだろうか、メルチェが、帰って父さんの料理が食べたい、と涙声を出した。

 フィートが黙ってぐりぐりとメルチェの頭を撫でて……ひっく、としゃくりあげる。

 釣られた年下の子供二人がふすぐすと鼻を啜りだし、フィートとメルチェにぴったりくっついて、すぐに抑えた泣き声に変わっていく。


 スサーナがひとかたまりになってすんすん泣く子供達に困って、少し離れたエウメリアを見上げると、彼女もなんだか怒ったような涙をこらえるような顔をしていた。

 ――あー、この子も実は泣きそうなんだ。当然ですよね……。

 なんだかちょっとミステリアスに見えたとしても、8つか9つの子供であることには変わりない。

 スサーナは泣き出すことも出来ずにため息を付いた。


「麻酔銃でもあればなあ……」


 熊、といえば麻酔銃だと短絡的に連想して、もし万が一あったところで自分には撃つことすらできないじゃないか、とさらにしょぼくれる。六歳の女児は全体的に無力だ。


「マスイジュウ?」


 エウメリアに聞き返されてスサーナははっと口を抑える。


「あっ、口に出てました? えっとなんでもないっていうか。えーっと、熊を眠らせるものがあればいいな……みたいな……。」

「眠らせる?」

「えーっとえーっと、熊が寝てくれたら横をとおって帰れるかな……って、そのう……」


 へどもどと目を逸らしたスサーナの手をパッと取って、エウメリアは快活な声で言った。


「それよ!」


「ひっ…… へ?」

「眠らせればいいんだわ。こんな簡単なこと、なんで気づかなかったのかしら。」


 敵だと思われてはいけないから、熊が怯えたり警戒することをしてはいけない、とエウメリアは言われていた。熊を追い払う方法に一つ心当たりはあったが、それをしたらどれほど氏族の人たちに怒られるだろう、と、言い出せずにいたのだ。

 でも、眠るのなら別に傷つけるわけではない。


「簡単……なんですか?」

「……うっ、うーん……  ……出来るわ! いい、魔術師の使う魔法なんかよりすごいほんとうの魔法っていうものを見せてあげてよ?」


 エウメリアは涙目でこちらを見つめる村の子供達と、きょとんとした顔の街の子供に向かってせいいっぱい胸を張ってみせた。

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