第9話 日常とお友達 6
怖い! 怖い、怖い、怖い。
フローリカは屑箱の上で小さく縮こまっていた。
よじ登る時にこすったのか、膝がすりむけてジンジンと痛い。
足元、屑箱の下では犬が三匹ウロウロ歩き回っている。
低い唸り声。時折屑箱の側面に前足を掛けて吠える。どう考えても友好的だとは思えはしない。
そう大きい犬種ではなかったが、両手に収まるような子犬を抱いたことしかなかったフローリカには巨大な怪物のように思えた。
どうしてこうなっちゃったんだろう。
フローリカは考える。
来た道を逆側から見たら全然知らない道になるだなんて知らなかった。
どちらから来たのかわからなくて、なんとなく見覚えのあるような気のする方に歩いて、歩いて。ふと気づいたら全然見覚えのない通りを歩いていた。
一度来た方に戻ろう、そう思って、多分こっちから来たと思う方角の方にがむしゃらに歩いた。細い通りや路地を歩くうちに、フローリカがこっちに行くだろうと思った方向とは違う方向に道が曲がっていたりして、いまどこにいるのかもわからなくなっていた。
そうして、不安で、心細くて、鼻を鳴らしながらトボトボと歩いていたら、数匹の犬が自分について歩いていると気づいたのだ。どう考えても懐いているとは思えない目をしていた。
犬がどうしてフローリカを追いかける気になったのかはわからない。
ポケットに入れていた、夕食に出た残りの
わかることは、恐ろしくて走り出した途端に犬も弾けるように走り出したこと。
恐ろしくて恐ろしくて、犬の届かない所に見えた手近な屑箱の上に急いで這い上がったこと。よじ登る足場にした、横に積んであったバケツはうっかり蹴り飛ばしてしまったということ。降りられなくなってしまったけれど犬の足場にももう出来ないのでどうやらそれが正解だったらしい、ということだ。
「こわい、こわい、こわいよぉ……パパぁ…ママぁぁ……」
犬はここまで登ってはこれない。頑張って待っていたら助けが来るかもしれない。
フローリカは自分をそう励ますけれど、同時にこうも思うのだ。
――パパもママももうわたしのことはいらないかもしれない。だって、おしごとのほうがだいじなんだもの。もとのお家にかえりたいなんておもったから、わたしがいなくなったからよろこんでるかもしれない。
もしそうだとしたら、助けになんか来るはずがないのだ。
一人で飛び出してきたのだということ、現在地がわからないだろうという事実は、恐怖と幼さのせいですっぽり抜けている。
いまここにひとりぼっちだという事実が両親に嫌われたのだという証拠のように思えて、フローリカはとても悲しくなった。
「どっせーーーい!!」
聞き覚えのある声が響いて、フローリカはぱっと身を起こした。
――なに、いまの。
およそ淑女の出していい声ではない。
「りゃーーっ!」
犬の上に水がぶち撒けられる。
「フローリカちゃん、だいじょうぶですかー!!!」
「あ、仕立てや、の…… スサーナ、……ちゃん」
犬たちに水をかけたあと、さらに がらんがらんがらん、とすごい音を立てて空になったバケツを投げつけたのは、昼間、あんなにひどいことを言った相手だった。
「しっしっ、あっちに行きなさいっ」
一瞬ひるんだ犬たちだったが、新しく現れた子供の方に向き直ると唸る。
スサーナは傍に転がっていたまた別のバケツを拾い上げてめちゃくちゃに振り回した。
フローリカの目に、スサーナに向き直った犬の赤い口と、ぎらぎらした目が焼き付く。
「あぶないよぅっ」
フローリカの悲鳴めいた声を合図にしたように、一匹の犬がスサーナの方に走りかけ。
ぼいんっ。
勢いよく顔にぶつかった、よくわからないものに気を取られた。
――なに、あれ。
フローリカにはなんだかさっぱりわからないものは、スサーナにはなんだかわかるようで歓声を上げる。
「すごい! がんばってうさぎさん!」
――うさぎ????????
確かにぽにぽにしていて白いが、なんだか薄いし、うさぎってあんなふうだっけ?
フローリカの脳裏によぎった一瞬の疑問も、救い主かと思われた白いものが犬たちに噛みつかれたことで雲散霧消する。いまはそれどころではない。
「やだぁ……っ!」
「ああーっ、うさぎさーーんっ!!!」
犬たちがフーッフーッと興奮した鼻息を鳴らす。うすっぺらいうさぎらしい形をしたなにかは、三方向から噛みつかれ、首を振った犬によってバラバラに引きちぎられる。
どういう仕組みをしているのか、ちぎれたうさぎさんはふっと薄れ、風に吹き散らされるように消えた。
フローリカは自分のポケットから、びっと布を裂いたような、でなければ糸を千切ったような音がするのに気づかない。
犬たちがスサーナに向き直る。
完全に敵を見る目。
――うわあ、これはやっちゃったかなあ。うさぎさんの説明が難しいなんて思ってないで、大人を呼んでくればよかった。
スサーナは考えなしだったことを反省しながら、肩をいからせて犬を睨みつける。
――身体を大きく見せて、目を離さないようにして、ゆっくり下がる。……これって、熊でしたっけ?犬にも効けばいいけど。
身につけているのは長袖のワンピース。薄いけど、なにもないよりいい。手にしたバケツで首元だけはなんとか守れると思う。最悪かぶっちゃえば歯が通らない気がするけど、視界が塞がれちゃうし、首以外だって噛まれたら命にかかわる場所は多いからきっと最後の手段だ。ああ、この世界に狂犬病がないといいけど。
思考をくるくると空回りさせながら、スサーナはじり……と一歩後退りする。
――せめて、フローリカちゃんが逃げられるようにこいつらを引き離さないと。
スサーナが一歩下がると犬たちが一歩進む。三歩、四歩、距離は変わらない。五歩、六歩。距離は保たれている、まだ襲いかかってはこない。
よし、このまま下がって……スサーナが思った矢先。
ガラン!
靴が何かをかすめて音を立てた。
スサーナの意識が僅かに犬から逸れる。
犬が一斉に走り出す。
「やだやだやだ!にげて!スサーナちゃん!」
フローリカの悲鳴。
スサーナが身を翻そうとするが、遅い。
噛まれる!! フローリカがきつく目をつぶったその時。
ぱん! ぱん! ぱん!
破裂音が響く。それぞれ犬の鼻先の空気が炸裂したのだとは子供達にわかるまい。犬たちは鼻っ面をしたたかに殴られて、悲鳴をあげると、尻尾を股の間に丸め込んで路地の逆の方向に走っていった。
スサーナはバランスを崩して座り込み、肩で息をしながら、かんしゃく玉みたいな音だった、と思う。
なんだろう、今の。うさぎさんが残してくれた奇跡だろうか。スサーナは首を傾げかけて、
「何故こんなところに子供が。」
呆れたような声が後ろから響いたので、かくんと首をあおのかせて後ろを振り仰いだ。
そこに立っていたのはローブと呼ぶべきだろうか、ずるずるとした服を着た長身の人影だった。さっきまではいなかったので、きっとそこらへんの建物から出てきたのだろう。この人が助けてくれたんだろう、スサーナは当たりをつける。
さっきから他人事のように冷静に考えるなあ、今生では私はとても度胸があるのかもしれない、などと思うスサーナだったが、犬が尻尾を丸めて道の向こうに走っていったのを見届けてからぶるぶると全身に震えが来て、立てない。行儀悪く首だけでやってきた人を眺めあげているのもそのせいだ。
「あの、ありがとうございます」
せめて体の正面は向けるべきかと思い、よじよじもぞもぞと向き直って、ぺこり、と頭を下げたスサーナをその人は胡乱げな目で見つめたようだった。
「座ったまんまでごめんなさい。えっと、なんだか足が震えて立てなくなってしまいまして……。助けてくださったんですよね。ありがとうございました。」
見上げた相手は、とても変わった人だった。
薄暗い通りでもはっきり見えるその目。
遠くにぼんやりついたランプの火を反射して万色に光っている。一度瞬いたその際に色が変わったようにも思えた。最高級のウォーターオパールのような色。
首の横に垂らされた長い髪は白く、そのうえこちらもホワイトオパールそっくりの遊色が薄く揺らめいている。
着ている衣服は初夏なのに厚く、ワインレッドを彩度を下げたような色に銀糸で細かな縫い取りがされていて、手首から先と首から上だけが露出している。暗い中でも容姿は整っているような気はなんとなくしたが、女性なのか男性なのか判断はつかなかった。
――すごいなあ、綺麗だなあ。さすがファンタジー世界。こういう色彩の方もいるんですねえ。
ぽやっと眺め上げたスサーナの視線を遮るように、その人は背に下げたフードに手を回して被る。するとまるで光が遮断されたかのように、その内側はすっと暗くなって、どれだけ目を凝らしても見えなくなった。
反射的に残念、と思ってからスサーナは慎みを思い出す。もしかしたらあんまりじろじろ見たら失礼だったのかもしれない。礼儀作法、なんて言うのはまだ全然わからないわけだし、前世でも人の顔をぶしつけに見るのはあんまりよくないことだったっけ。
「ああっすみません! あんまり綺麗だったので!」
あわてて謝罪するスサーナを、暗いフードの内側が見返して数瞬。
――なんだろう、珍獣みたいな目で見られているような気がする。
よっぽどの取り返しのつかない失礼をしてしまったのかと身構えるスサーナに、声が降ってくる。
「君は確か
「あっはい!おばあちゃんのお店です!」
こくこくと頷くスサーナに得心したようにローブの頭が縦に振られて、
「送ろう」
言うが早いか、スサーナは猫の子のように持ち上げられたのを感じた。
首筋をつまみ上げられれば息が詰まるに違いないのに、ふわっと身体が浮いたようで苦しさはまったく無い。
「ああっ、待って、待ってください! フローリカちゃんも! フローリカちゃんもお願いします!!」
このまま連れて行かれてはたまらない。慌てて足をバタバタさせるスサーナをもう片手で抱き取って、ローブの人は屑箱の方に進む。
――あ、良かった、フローリカちゃんも連れて行ってもらえるみたい。
ホッとしたスサーナだったが、屑箱の上に座り込んだフローリカを見てきょとんと首を傾げた。
いつのまにか背がぴったりと壁につくぐらいに下がって、信じられないものを見るような目でこちらを見つめている。
「スサーナちゃん、そのひと、まほうつかいよ……」
かすれたささやくような声。
直接暴力にさらされたさきほど、犬のほうが絶対怖いに違いないのに、フローリカの目には畏怖とも呼べる怯えが宿っている。
「えっ、そうなんですか」
なるほど、これが便利の化身の魔術師さん。言われてみれば確かに魔術師らしい格好だ。スサーナは納得するが、同時に疑問も覚える。
すごく便利で尊敬されているんだとおもったのに、話が違う? なんでフローリカちゃんはこんなに怯えているみたいなんだろう。
「あっ、そうか、偉い人に抱っこしてもらっちゃいけませんよね。あの、たぶんもうちょっとしたら降りて歩けます。それに目印もあるし自分で帰れますよ!」
魔術師は確かとても偉いのだと聞いたし、そう思えば納得がいく。これは例えば貴族の人とかに抱き上げられているのと同じなのだろう。なるほど、とても失敬で無礼だ。あとあと責任問題とかになってはいけない。
申し出るスサーナに魔術師はゆっくりと言う。
「君たちはここではとても目立つ。さっきからずいぶんと音も立てていた。経緯は知らないが、帰り道にいる君たちに気づいた者たちにはとてもいいカモに見えるだろう。子供だけで無事に帰れるとは思わないことだ。」
「うっ、それは……困ります。」
困るスサーナに黙り込むフローリカ。それを肯定と取ったか、魔術師は固まるフローリカをすっと抱き上げる。
棒でも飲んだかのようにガッチガチに固まるその姿に、スサーナは見知らぬ人に抱き上げられた人見知りの猫を連想して、あ、かわいいなー、とちょっとだけ気を反らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます