第8話 日常とお友達 5

 フローリカはすすり泣いていた。


 パパが自分のことをわかろうとしてくれないのが悲しくて、胸が一杯になって衝動的に部屋を飛び出した。

 人の気配がするたびに避けて、ふと気づいたら玄関ホールにいたのだ。


 かえろう。

 一人ででももとのお家に帰るんだ。


 玄関をすり抜けて外に出る。

 外はしんと静まり返った白い小路。


 港まで行けば船に乗れる。

 フローリカは来たときのことを思い出す。

 港まで行けばいい。お家からコラッリアの港まではパパや番頭に連れられて何回か往復したことがあった。

 だから、きっと港までつければ、コラッリアに行く船にさえ乗れれば、お家まで帰れるはず。

 フローリカはそう思った。


 ポケットにはお手伝いをして貯めている半アサス貨百円相当が5枚入っている。きっとコラッリアまでの渡し賃に足りるはずだ。

 フローリカは、周辺をキョロキョロと見回して、それから頼りない足取りで小路に駆け出した。




「フローリカちゃーん」

 スサーナは机の下を覗き込んで呼んだ。

 暗くてしんとして、埃っぽい。誰かがきた様子はないように思われた。


 スサーナは二階の端から部屋を見回っているところだ。客室がある方は他の大人が見回っているようなので、倉庫や季節用品が入っている部屋などが集まったあたりを一つ一つ覗き込み、机の下や戸棚の影、箱の中など、スサーナが隠れん坊に使うならここだという場所を確認して回っている。


「いましたか?」

「いいえ、こっちには」


 スサーナが探している部屋の外を叔母たちが声を掛け合い、そしてまた別の方を探しに行くのが聞こえた。


 さっき、ブリダがフローリカを探しているのに出会ったときからそれなりに時間が経っている。きっと飛び出した時からなら、もっとずっと長く。階下のざわめきがだんだんと緊張の強いものに変わってきている。さっき外に探しに出ていったのは叔父たちだろう。

 ――きっと外に出たんだ。

 スサーナは眉をしかめる。そこらへんで座り込んでいるぐらいならいいけれど、おかしな所に行ってしまっていたりしなければいいけれど。外はこの館に比べてあんまりにも広くて見つけづらい。このまま夜が更けてしまえば初夏とはいえ気温も下がるだろう。段差もある。馬車も走っていれば、確か運河もあったはずなのだ。

 どんな危険人物にも危険生物にも会わなかったとしても、6歳児には危ないことばかりだ。


 どうしよう。なにか出来ることはないか。

 スサーナはみぞおちに酸っぱいような嫌な感触を覚えながらイライラと目を彷徨わせる。

 ああ、こんな時に物語の万能チート主人公なら、きっと何かしらうまい方法が思いつくだろうに。なぜ自分はこんなに秀でたところがないのだろう。もしなにか特殊性があってこんな記憶を持ってここにいるのなら、何もかも解決するうまい方策を思いついたっていいじゃないか。

 それなのに、何も思いつかない。自分は外の道がどうなっているかすらあやふやだ。

 小さな子供が大変なことになっているのかもしれないのに。いつ取り返しの付かないことになってしまうか、わからないというのに。


 情けなさに喉がきゅうっと熱くなる。嗚咽が漏れかけるのを驚きすらしながら抑える。横隔膜が勝手に痙攣する。

 感情の振れ幅に身体が追随している。幼い身体は情動が身体にそのまま伝わってしまうのだとようやっと悟った。

 ああ、泣いている暇なんかないのに。あの子に話してみろと勧めたのは自分なのだから、ちゃんと見てやらなくちゃいけなかったのは私なのだ。

 それが、こんな。

 ぽたりとしずくが床に落ちる。目のフチが沁みるように熱い。

 なんとか、しなくちゃいけないのに。

 床の染みはぽたぽたと数を増やしていく。




 ぽゆん。


 足を軽く叩かれる。妙にぷわぷわと軽い感触。


 ぽゆん。


「うーっ、大丈夫ですから、あっち、いってて……  ん?」


 お針子の誰かだろうと目をゴシゴシこすりながら振り向いたスサーナは自分の目を疑った。


 そこに立っていたのは戯画化された、線の崩れたしろうさぎであった。


「ひっ」


 短めの耳が二本。点のような黒い目。しもぶくれ気味のりんかく。主線は黒。ばってんで表現された口。


「え、えっ」


 やあ、と挙げた手が薄い。完全に二次元のぺらぺらしたなにかなのに、立って動いている。

 主線をよく見ると、まるで糸のような……細かな並縫いのように見える。


「あの、えっ、わ、私が刺繍した……?」


 耳まで入れてもスサーナの腰ほどまでしか無いよくわからないものは、ひらひらと――よくわからない表現だが、スサーナには他に表すすべがわからなかった――頷くと、ぴゃっと単純な主線で表現された腕で彼方を指した。


 予想外の方面からのファンタジーの濁流に飲まれかけていたスサーナは、これでようやく茫然自失状態から立ち直る。


「な、何?何か言いたいことがあるんですね?」


 ひらひら頷く刺繍のうさぎは、ぴっぴっと二三度またどこかを指し、スサーナを見上げて……多分見上げて、ぽいんっとひとつ跳ねてみせた。

 そして、てちってちっと部屋の入口まで進んでいって、もう一つ跳ねる。


「ついてこいって言ってるの?」


 ぽいんっ。


「あ、あ、待って!」


 そのとおり!とばかりにずんずん歩き出したうさぎのようなものの後をスサーナは慌てて追う。

 これは私がフローリカちゃんに渡したハンカチに刺繍したうさぎだ。スサーナは思う。

 こうして見るとちょっと不気味だけど、いやいや、いまはそんな事を考えているときではない。この子はもしかしたらフローリカちゃんのところに案内してくれるのかもしれない。

 そんな都合のいいこと、と思うけれど、そう、そうだ、ここは魔法使いがいる世界なのだから。不思議な事が起こったっておかしくないのかもしれない。


「ねえ、あなたはフローリカちゃんがどこにいるのかもしかしてわかるんです?」


 ぴん、と薄い胸を反らすうさぎのようなもの。ぴっぴっと耳を揺らし、スサーナを見上げて、どこかを指さしたまま、またぽいんっと跳ねる。

 多分これは肯定だ。


 ついていってみよう。スサーナは決める。どうせ自分ひとりでは他に取れる方策もないのだ。





 誰かに見られたら一体どう説明したらいいのかと思ったが、結局一階まで誰にもすれ違わなかった。


 うさぎさん(仮称)は自信ありげにずんずん進んでいく。

 玄関ホールまでやってきて、玄関の扉の前でぽいんっと跳ねた。


「やっぱりお外なんですね……あ、ちょっと待って!」


 スサーナは大急ぎで台所に駆け込むと、花籠の中のジャスミンの花を掴めるだけ掴んで服のポケットに詰め込んだ。

 後ろをついてきたうさぎさんがぽしゅっと首を傾げる。


「わたし、全然お外に出たことがないんです。二次遭難でもしたら大変」


 そっかあ、とばかりに耳をひらひらさせたうさぎさんが、じゃあ行こう!というポーズを取り、また先に立って進んでいく。


 ――意思疎通できてるってことでいいのかな、これ。


 だから世界の法則を知らないって困るんだ。全然安心できない。スサーナは思うが、まあ、花を落としながら歩けば最悪お家までのルートはわかるだろう、と覚悟する。


 玄関扉を細く開ける。短い階段の先には、見知らぬ、と言ってもいい印象の、白い小路。うさぎさんが励ますようにスサーナを見上げてぽいんっと跳ねた。





 かつかつと石畳に足音が響く。

 館の前の少し広い小路をそれて、もっと小さな家……日本の建売住宅ぐらいに見える大きさの家々が壁のように道の両側に立ち並ぶ路地に入っている。ずらりと並ぶ家は皆白亜の色をしていて、月明かりを反射して白く光っている。建物と建物の間にはほとんど隙間はない。二軒に一軒ぐらいの前にはランプがぼんやりとオレンジ色の光を放ち、どの家も扉の両側に小さなプランターを吊るしている。

 宗教的な意味があるのだろうか。プランターにはみな何らかの文様と文字が書いてある。スサーナの読解能力ではなにかのお祈り、多分家内安全を祈る文句だということぐらいしかわからなかった。プランターからこぼれる赤い花を見て、スサーナは昼間ここを通ったならどれだけ美しいだろうとすこし残念に思う。いまは夜で、美しさに見とれている暇はない。

 路地に設えられたアーチをいくつもくぐる。

 片手に掴んだジャスミンの花をぽろぽろと落としながらスサーナは時折後ろを振り向いた。壁の白とも石畳の白とも違う花の白色が月の光を反射してぼんやりと輝くように見える。

 大丈夫、迷ってない。

 スサーナはまた急いでうさぎさんの後を追う。うさぎさんは胸を張って? ずんずん歩いていく。


 またしばらく歩く。家の壁は真っ白ではなくなってきて、木で作った家や、レンガのようなもので出来た家が増えてきた。ところどころ家の前に看板があるのはなにかのお店なのだろうか。商業区に入りかかっているのだろう。

 路地に物が置いてあるのが増えてきて、すこしごちゃごちゃした印象を受ける。

 ぽさぽさの犬が一匹、道端に置いてある荷物の匂いをふんふんと嗅いでいる。首輪をしていないけど野良犬なんだろうか。


 さらにそれなりに歩いて、もう一本路地に入る。

 さっきまで定期的に吊るされていたランプも減った。いや、ランプはあるけれど油が切れているのがほとんどだ。いくつか割れているものもある。


「ねえ」


 スサーナはうさぎさんに話しかける。


「本当にこんなほうにフローリカちゃんがいるんですか?」


 うさぎさんは頭を揺らし、ぴっぴっと短い腕で行く先を指さした。

 腕をぐるぐるする。たぶんはやくはやくの仕草だろう。


「うーん」


 まあ、疑っても仕方ない。

 行先がちょっと雰囲気が悪いみたい、というぐらいで怯えてどうする。一度死んだ身だ。女は度胸というやつ。……少し違うな。えーと、昔夏休みに再放送していた……そうそう、伊達にあの世はなんとやらという方が正確だろうか。……別にあの世を見た記憶なんかないけれど。

 それに、こんな方にフローリカちゃんがいるとするなら、前世に飲み屋街や歌舞伎町なんかも歩いたことのある自分より、ずっと怯えているに違いない。早く見つけてあげないと。


 スサーナはぐっとお腹に力を入れ、えいっと気合を入れて、うさぎさんの後を早足で追っていく。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る