第3話 いろいろ聞き回ってはみたものの
てち。粗い布目に針を通す。すーっ。針を引く。糸の結び目が布地に引っかかる。引くのを止める。また布目に針を入れる。引き攣れない程度で引っ張るのをやめる。白灰色の麻の布地に短い赤いラインが一本入った。
スサーナは裁縫の練習をしているところである。まずは布一枚に並縫いをするところから。おばあちゃんがチョークで布に引いた線のとおりに針を入れるのが肝心だ。
あれから一月。チートで安楽生活計画は圧倒的頓挫を見せていた。
わかったことはいくつか。ここが塔の諸島と呼ばれる場所だということ。予想したとおりに海運が盛んで、海も穏やかで豊か。土地も肥沃で、牧畜も盛ん。一番大きな島がここで、街は一つで、村はいくつか。他の島もそれぞれ豊かで、大きな島には街があるってこと。
それから塔の諸島というだけに、塔がたくさん。塔には一本にひとり魔法使いが住んでいるということ。
もともと魔法使いが住んでいて、魔法でとことんまで豊かにした場所に後から普通の人が植民させてもらったせいで、領主様(どうも大陸の方にいるらしい)でも手出しできないぐらい魔法使い……魔術師の権利が大きいということ。
なにせ――聞いた感じだとこの世界では北極星のようなわかりやすい方角目安がないと思われる――航海にも一人魔術師を載せておけば目的地までの進路が取れる、とか。風がなくても風を起こすので帆船で最短時間移動が可能だ、とか、そういう船乗り目線の便利さから、ひどい病気をしても魔術師に頼めれば大抵は治る、とか。島の井戸には魔法がかかっていてきれいな真水が湧き放題、だとか。夏場に氷を売るのも冬場に夏の果物を売るのも魔術師だ、とかそういう主婦目線の便利さまでよりどりみどり。
これはいっそ魔術師に弟子入りすべきなのでは?と思ったスサーナだったが、魔術師は素養が必要で、生まれてきたときになにか身体的特徴でわかるものだとか。
つまり自分は違うということだ。スサーナはこころから残念だった。
魔術師以外でも魔法っぽいことを出来る人たちはいないでもないようだが、魔術師ではない人が魔術を使うことは禁じられていて、破るとひどいことになるらしい。聞いた大人の反応的にどうやら漂泊民が関わっていることのようなので、20代の社会性を持っているスサーナはかしこくそれ以上聞くのはやめておいた。
よかったことは、これまで不機嫌で体の弱いこどもだったスサーナがそこらへんに出ていっては大人を質問攻めにするので、面倒な子供だと思っていたらしい大人の目がなんだか大分穏やかになったこと。……とはいうものの、スサーナがふきげんなこどもだったのも転生の影響――いつもよくわからないノスタルジアに駆られていたせい――ではあるので、因果応報というか、とんとんというか。
思い返してみると、なにかしていると急にスイッチが入っては泣き出して帰りたい帰りたいようとしゃくりあげる子供だったのだ。おうちはここでしょう、などと声を掛けられてはそういうことじゃないとわあわあ泣き叫び、泣きすぎて引きつけを起こすこともあった。それは神経質で繊細で面倒な子供と認識されてもしかたない。さらに言えば、本人はまったく自覚がなかったが、夜毎に飛び起きては全く内容のわからない
完全に記憶の戻った今になってみると、そこまで強く帰りたいと思うわけでもないのだが。お別れはしっかり済ませてきたのだし。
まあ、とりあえず今は裁縫だ。
毎日やらされている裁縫の練習の時間である。
他の家族はみな仕事をしているので、部屋にはスサーナが一人だけ。子供用の小さな椅子に座り、低い机に裁縫道具を並べている。
針山と、短い針と長い針が一本ずつ。赤い木綿糸が一巻き。大きめのハンカチ程度の麻布が一枚。今日はとりあえずこれだけだ。
スサーナは愚直にチョークのあとに沿って針を入れていく。針を入れる、針を出す。あっ、斜めになった。
急いで針先を摘んだらちょっと指先を刺して、スサーナは渋い顔になる。
いたた。この布一枚全部に並縫いしたら遊んでいいと言われたけど、終わるまでに指がぼろぼろになっちゃうんじゃないかな、これ。
まあ修練あるのみ。上達あるのみ。スサーナは拳を握りしめ、自分を鼓舞する。
ちょっと指先を抑えて血を止めて、改めて布地に針先を通していく。今度はうまく行った。
「やったあ。……でもこれで喜ぶのもなんか……虚しいっていうか……」
本当なら22歳である。並縫いなんかすっすっと終わらせておばあちゃんを驚愕させるべきなのではないか。でも仕方ないよね、スサーナは遠い目で過去を思い返す。家庭科の裁縫は大の苦手だった。……熱意がなかった、というのが正確だろうか。ミシンがあるし服は買うものだから裁縫なんかできなくてもいいじゃないか、と思っていたが、こんなところで必要になるとは。
「でも、6歳ですし? ……こういうものは手が覚えるっていいますし? 継続は力ですし?」
早く上達しよう。少なくとも、お店のお手伝いができるぐらいまで。今の身体が器用で覚えが早いととてもいいんだけれど。
この一月でわかったことは自分が何も知らない、ということ。
異世界転生がどうのということではない。前世を思い出しても明白だが、6歳児の世界は狭くてあやふやで、世間的ないい悪いもよくわからない。なんなら自分の周りで起きた出来事の事実認識もふんわりしている、ということだ。
特に自分は神経質でむずかしい子供で、遊び場と言えば居室と中庭ぐらい、友達もおらず、商売をしている家で一人遊びをしているような子供である。つまり世界がそこで完結しているも等しい。商売を手伝っているとか大人の土産話を聞いているとかがあればまた別だろうが、いきなり発作的に泣き出す悪癖持ちの子供にそんなことをさせる商売人がいるだろうか。哀れに思った祖母がいろいろ小間使ってくれてはいるし、お針子たちもなにくれとなく構ってはくれるが、それも家の中のちょっとしたことに限られる。であるからして、世界の仕組みがわからない。法令、宗教戒律、道徳観念、他国との関わり……まず、他国なるものがあるのかどうか。世の中の普通と流行り。身分制度、自然環境、生態系、植生、なにもかもわからない。
つまり、今必要なのは、腫れ物扱いを脱すること。そのためには手に職をつけ、手伝いなどもし、安定した情緒を備えたと判断されることだ。スサーナはそう思う。
そうすれば、客に来ている大人に話しかけても慌てられることもなくなるだろうし、外に出かけることも出来るようになるだろう。同年代の子供というのも――今の精神が子供の遊びにどれほど付き合えるのかははなはだ疑問だが――重要だ。
そうやって世界を広げて、世の中のことを知れば。
あ、これいけるんじゃ?そんな、前世知識が必要とされる局面にぶち当たることもあるかもしれない――!
スサーナは、まだチートうはうはを諦めてはいなかった。
――まあ、そうでなくても、手に職をつけて損はないよね。
なんの知識チートも実を結ばなかったとしても、普通の6歳児が普通に学ぶように常識を識り、できることを増やし、技能を学び、いつかそれで日銭を稼ぐ。前世などというものを思い出さなければ辿ったであろう平均的ルートだ。
そうやって普通に生きていくのもきっと悪いことではないだろう。何より人生設計のルートは広くとっておくのが大切だ。
そう、とりあえずスサーナは末永く安楽に暮らしていきたいだけなのだ。
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