神は死んだ

「――おかえり」


 カレンは無言のまま、厳しい視線を声の主に向けた。

 見慣れたセイントの制御ルーム。中二階の階段の上の制御盤の前の椅子に、彼は座っている。いつもと変わらない、仮面のごとき笑みを浮かべながら。オペレーターのゼロと異なり、彼は支配者として座している。そのことをカレンは痛いほど感じていた。


「キリク……ネルは贄神に同化してしまったわ」


 キリクは黙って笑みを浮かべたままだ。


「それもあなたの計算通りだったの?」

「知ってるかい? 君は怒ると右の眉のほうがちょっと吊り上がるんだよ」

「知ってるわ」

「でも、今はそうでもないようだね」

「ええ。怒りを通り越してるもの」


 勿論、カレンは怒っていた。だが他にもたくさんの感情が入り混じって、むしろ悲しい気持ちに近かった。


「僕を見たときに驚きもしなかったってことは、やっぱり分かってたんだね」


 キリクは椅子にリラックスした様子で腰掛けたまま、問い掛けた。


「レイから聞かなかった? 私、開き直ればお芝居が上手って」


 カレンの言葉を聞いて、くすっ、とキリクは笑った。


「ブリガドゥーンに入る前の日の夜に、キスしたことも?」


 カレンはぎゅっと唇を結んだ。頬が勝手に赤くなるのが腹立たしい。


「ご想像にお任せするわ……! あなたは何者なの? ネルと同じローゲの子孫?」


 それとも。

 カレンは別の予想をしていた。だがキリクは答えをはぐらかした。


「似たようなものだけどね……それにしても。君はいつから僕を疑ってたのか聞かせてほしいな」

「後でね。私、急いでいるの」

「そうだった。トウマはかなりボロボロになってたから、気力だけで後どれくらい保つだろう。リリアームヌリシアやイヨも魔力があと少ししか残っていないようだ」

「私が戦えないとでも思ってるの?」


 言うと同時に、カレンはシャインをキリクめがけて放った。が、光の球はキリクの前で砕け散る。空間が七色に光り、そして元に戻った。


「っ!?」

「魔法を使わないほうがいいよ。レイが消耗する」


 キリクが軽く右手を振ると、キリクの足もとにうっすらとピンク色の光が生じ、人の形を作る。レイが、苦しそうに座り込んでいた。全体が透けていてまるで幽霊のようだ。


「レイ!?」

「分解が進んでいる……ブリガドゥーンのシステム内に強制介入したから、かなりデータロストしたようだね。でもレイは好きで侵入したんだよね? カレンたちを助けたかったから」

『余計……な……お世話……よ、この、うそつき仮面!』


 このような状態になっても、レイはレイらしい憎まれ口を叩いた。


「レイ!」

『カレン!』


 レイは上体を起こし、階段のほうへ這っていく。キリクは椅子から身を乗り出し、レイの髪を掴んで引きずり寄せた。小さく悲鳴を上げるレイ。


「ふーん、かなり透けているのに実体はあるんだね、痛覚も」


 そしてぽん、とレイを突き放す。レイは床の上に転がった。

 カレンと歴史の話で盛り上がり相槌を打つとと同じような調子の呟きだった。キリクは口調も丁寧な物腰も以前のままだ。それだけに、今の状況下では不気味だった。


「キリク! レイに酷いことしないで!」


 察するに、レイは完全にキリクの支配下に置かれているようだ。


(――なぜ? レイが逃げられない何かがあるの?)

「レイはここにいるけどどこにでもいる。セイントの機能と同期してるのだから」


 それを聞いて、カレンは愕然とした。

 レイは悲しげに俯いている。


「レイ……どうして……ゼロは!?」

「消去したよ。カノン砲を撃つときに介入してくるだろうから先にデータ消去した。ああ、眉が寄ってるよ、カレン。でもそれはレイ自身が望み、やったことだ」


 カレンは階段の下からレイを見つめた。レイの頬をきらきらと光る粒が流れ落ち、消えていった。


『う……ごめんね……カレン、ごめんなさい』

「少し落ち着いて話をしないか、カレン」


 お茶でも飲まないか、という口調でキリクが言った。さすがにカレンも冷静でいられず、強い口調で叫ぶ。


「そんな暇はないわ!」

「じゃあ、先に“彼の時間”が短縮されてもいいのかな。ほら、制御ルームの入口の方を見てごらん」


 罠かもしれないと思い、カレンは横目でそちらを伺い、釘付けになった。

 ごく淡い光のカーテンがゆらめいており、その中に倒れ伏す獣人。その周囲には血が飛び散っていた。


「クリューガ!?」


 近距離線ではトウマに次いで攻撃力が高く、並はずれた敏捷性と持久力を誇るクリューガが屈した。セイントの守りを彼に頼っていただけに、カレンは激しく動揺した。


『クリューガは大丈夫……アタシが守ってるから……』


 レイが息も絶え絶えにささやいた。


「彼に用はないから消してもよかったんだけど、この通りさ」


 と、肩をすくめるキリク。


「カレン。君と話がしたいんだ」


 攻撃を封じておいて丁寧な物言いが腹立たしかった。が、カレンに逆らう術はない。ぎゅ、と唇を噛んだ。


「際どい綱渡りもあったけど、君が確証を持つほどミスをした覚えはないんだ」

「そうよ! あなたはすごくお芝居が上手で、私たちは自分のことも分からないおバカさんだって分かってるでしょ!?」


 キリクは椅子に深々と座り直し、足を組み換えた。


「馬鹿者だなんて思ってないさ。君たちは“良心的”でありすぎた。周囲に心配をかけまいと自分の胸の内に秘め、耐え、独りで解決しようとする。生半可に強いから他人に甘えることを許さなかった……てとこかな。君たちだけじゃない。皇帝陛下も、魔王もだ。君たちが過ちを犯し、ここまで蹂躙されたのは、君たちの善良なる心ゆえだよ……」


 キリクの言葉に、カレンは胸を突かれた気がした。

 無責任なら、あるいは弱さを自覚していたら、誰かにもっと早くうち明けて、情報を共有していたかもしれない。もっと疑問点が早くに浮上していたかもしれないのだ。皮肉だった。思いやりが心を閉ざし、自分勝手な行動を助長していたのだから。


「結局、君たちは誰独りとして他人を信用していないってことだね」

「――違う!」


 カレンは強く否定した。


「確かに私たちは黙っていることが多すぎて、行き違いが多すぎて、こんなことになってしまった。だけど! 打ち明けなかったのは、その人が傷つけば自分の心が痛むからよ! 信用してないからじゃない、大切な人を傷つけたくないから……!」

「結果として誰一人救えなければ、努力だってムダになるだろう?」

「でもその努力を、努力しない人が嗤うのは許さない!」


「僕だって努力してきたさ――それこそ気の遠くなるような時間をかけて」


「でしょうね。あなたのご先祖たちが時々目を覚ましたように『聖剣の主二人説』を唱えているものね」

「じゃあ、やっぱり君は僕の家系を調べたんだね」


 面白いものでも見るように、キリクは目を細めてカレンを見た。


「アンデルベリ、ベロルソフ、ブランショ、ケ=デルヴロワ、ディッテンベルガー、ウルキアガ。あなたの家系を遡ると必ず『聖剣の主二人説』を唱えた学者が出てくるわ。

 そして例外なく2世代後断絶する。数世代ならまだしも、全世代の家が断絶するのは珍しいわ。よっぽど運が悪いのか……故意に家を潰しているのか。でもそれだけじゃ、私はあなたを疑わなかった」

「他にも何かミスしたのか。結構ショックだな」


「本よ……案外迂闊だったわね」

「本?」


「ユージニアさんのメモリーオーブが隠されていたシークレットブック。アリーチェが教えてくれたわ。アリーチェはあの本の発売元のビブロニア社の筆頭株主よ。発売年度がすぐ分かったわ」

「アリーチェ嬢ね。“歩く図書館ビブリオテカ”の渾名は伊達じゃなかったんだ……とんだ伏兵だったなあ。で、シークレットブックが新しいものだって分かったんだね」

「そうよ。おじいちゃんが亡くなった後に発売された本だから、隠せるはずがない」

「隠し持つのに便利だからあれに入れてたんだけど、まさかそこまで調べると思わなかったよ! さすがカレンだ」


 軽やかなほめ言葉を無視し、カレンは詰問口調で言った。


「キリク。あなたはおじいちゃんの書斎に入ったとき偶然見つけた風を装ってたけれど、隠し持ってきたのを出しただけだった。あのオーブはあなたのモノ、でしょ? あなたはユージニアさんの何? 子孫?」

「うん、大体そんな感じかな」


 想像はしていたが、あっさり肯定されるとカレンは戸惑った。オーブには彼女の子供の記憶はない。グランドが去った後、誰かの子を授かったということだろうか。

 興味をいたくそそられるが、ブリガドゥーンの地中深くに取り残されているトウマたちのことを思うといてもたってもいられない。


「君も知りたいだろう? でもトウマたちのことが気になるようだね」


 どうしてこうも人の心の動きに聡いのだろう。いや、だからこそ彼はここまで上手くやってこれたのだ。

 キリクは椅子から立ち上がるとレイの腕と掴んで引っ張り上げた。レイはよろめきながら立ち上がった。


「君は知らないだろうけど。レイはね、元々聖剣の主に付き添う“端末”の役割を担うはずだったんだ。だからいろんなことができるんだよ。例えば……」

『うっ……!』


 キリクはレイの背中に手を押し当てた。半透明に透けた体ごしにキリクの手が消えていく。文字通り、レイの体の中にキリクの手が入っているようだ。


「スクリーンを開いてくれ、レイ」

『いやっ! 拒否……する!』

「拒否はできない。そうだよね」


 ぐ、とキリクはレイの背にさらに手を押し込んだ。苦しいのだろう、レイはかっと目を見開き口を開けた。


『あーっ……あ、あ』

「こうやってオーナーの意識を伝えることで信号変換し実現してくれるんだ。便利だろ? セイントのシステムと連動しているから、レイを通じて僕はセイントを操作できるようになっているんだ」


 カレンの予想以上に事態は悪かった。聖剣の主であるカレンたちでさえ、セイントの機能は使いこなせず、ゼロを通じて実現していた。

 封鎖された通信。タイミングよく閉ざされた転送装置。レイがセイントの機能を管制できて、かつ協力していたのなら辻褄があった。レイが共犯だったことは、ブリガドゥーンで分かっていたが、ショックだった。

 しかし、レイは泣きながら拒絶し、それでもキリクの命令に抗うことができないようだ。


「やめて……もう」


 苦悶を見せつけられているカレンまでが息苦しかった。


(――レイは嫌がってる。レイは私たちを裏切ったんじゃない!)

『拒否――』


 かくん、とレイは膝をついた。


「彼女がなぜ贄神攻略から外されたかというと、今も命令を拒否しただろう? 擬似的であれ感情が情報処理と衝突して役に立たないから……って話だった」


 世間話と同じ調子で惨いことを言ってのけるキリクに、カレンの怒りは噴火した。


「レイを痛ぶらないでッ! 話でもなんでもするわよ、さっさと続きを喋りなさいよ!」


 カレンが大きな声で叫んだが、キリクは手を緩めようとしなかった。

 レイは息苦しそうに喘いだ。空間に、ぱらぱらと透明なパネルようなものが幾枚も展開していく。

 パネルに砂嵐まじりの映像が映った。トウマが剣を振るっている。リリとイヨの魔法が炸裂する。


(トウマ……! みんな……!)


 魔導書に爪を食い込ませ、カレンはぐっと堪えた。これ以上取り乱してはキリクの思う壺だった。


「映像が悪い……ブリガドゥーンのシステムは贄神が占拠しているから、かな。そういうわけで今のところまだ生きているようだ。残った君のお仲間も、戦闘の真っ最中だよ」

「な……んですって」

「セイントとブリガドゥーンの空間通路を結合して、発生したモンスターを呼び込んでいるからさ」


 最も安全だった要塞が、安息の我が家が、いいように蹂躙されていく。

 カレンは何度も大きな呼吸をして、気を落ち着けようとした。目尻に涙が浮かんでいるのが分かる。瞬きをして紛らわせた。

 悔しくて、苦しくて、だが体が動かない。見えない鎖に縛られているのだ。


「キリク――何を望んでいるの? 歴史から抹殺されたユージニアさんの復讐? 名誉回復?」

「神は死んだ。君たちの手によって。だから新しい神が必要だ」


 ひっそりとキリクは呟いた。


「贄神は人類の敵よ。放っておけば生物は死に絶える! あなたが望むのは誰一人いない地獄の風景なの!? そこで王様になりたいの!?」


 キリクはレイから手を離した。レイはくたっと床に崩れ、動かなかった。


「優等生的な言葉だけどちょっとありきたりかなあ。まあ、君らしいと言えばそうだが」

「あなたのセリフこそベタベタな悪役よ! ちゃんと答えなさいよ……!」


 それもそうだね、とキリクはあっさり頷くと、言葉を紡ぎはじめた。


「――魔属であれ人間族であれ、生きていくにはルールが必要だ。心の寄る辺となり、指針となるものが。贄神が発現して3000年、この世界は贄神との闘いという構図の下運用されてきた。常に政治決断に影響を及ぼし、敵愾心を煽り、愛国心を育んだり……贄神は統治制度を越えた宗教みたいなものなんだ」

「神はそれぞれの心に宿るものよ、勝手に決めないで」


 キリクはゆっくりと階段を降りはじめた。魔導書を構え、身構えるカレン。


「なぜエルドスムス帝国に公式の神職がないか、その理由を君は知っているかい」

「エルドスムスは信仰を統治手段に選ばなかったからよ。グランドの血脈を標榜する皇帝家が――」


 そこまで答えて、カレンは口をつぐんだ。まさしく、キリクの言わんとすることはこのことではないか。

 階段の下までくると、キリクは立ち止まった。


「その通り。絶対悪である贄神との闘いで統治側の神性と絶対性を強調してきた。長い年月の間にそれがいつしか魔属との闘いにすり替わってしまったんだけどね。それは魔属側でも同じことだ。贄神が消滅したということは、神を喪ったんだよ」

「だから贄神を復活させたの……そんな、くだらない理屈で」

「くだらないって言ったら、ユージニアが泣くよ? これこそユージニアの望んだことなんだから」

「ユージニアさんが、そんなこと望むはずがない!」


 キリクは手摺りにもたれ、くすくすと笑う。


「君の見たユージニアは、グランドを失う前と失った直後の彼女だろう? 彼女を追放した国は、グランドの残した精子を利用して彼の子供を産みだしたのさ。3000年前にはそういう技術があったそうだ。

 救世主・グランドの正統な後継者……今のエルドスムス皇帝家は政治決断によって作られた。彼女は世界に絶望した。英雄という幻影も利用する世界に、無邪気に喜ぶ民に……自分を置いて一人闘いに赴いた男にさえ」


 と、まるで見てきたように語った。魔導書を抱き締めたまま、カレンは動けなかった。

 メモリーオーブの記憶、その後の世界、ネルから聞かされた贄神の生まれた経緯と世界のシステム――今まで疑問だった歴史の謎が符号していく。


「贄神を仮初めに封印したのはグランドだけだったから、聖剣システムがきちんと稼働した結果がそうだったのかは誰も分からなかった。それはユージニアだって同様だ。聖剣については曖昧なまま情報が残り、3000年の間、同じことが繰り返された。二本ある聖剣にそれぞれ一人づつの主が選ばれ、一人しか贄神の許へ“行くことができない”。“行かない”ではなくてね」

「そして、代々の聖剣の主が生贄となって贄神をコントロールする……」


 震える声で、カレンは呟いた。


(――私とトウマが……初めてだったの……)


 今更ながら背中が寒くなり、心が熱くなった。


「あなたがユージニアさんの子孫なら、なぜ聖剣の主が二人いたことをみんなに、皇帝に説明しなかったの? こんなに良く知っていたのに! 魔属との無益な争いも避けられたかもしれないのに!」


 肩をすくめるキリク。


「前にも言ったろう? 反対説を唱えたら帝国の、皇帝家の威信が揺らぐ。弾圧されて消えるのがオチだ」

「……矛盾してるわ。あなたが、あなたたちが本当に贄神の存在を望んでいたのなら、反対説なんかこれっぽっちも出す必要もなかった。私たちに対してしたように、笑顔で肯定していれば良かったはずよ」


 一瞬、キリクの顔から笑顔が抜け落ちる。だがすぐに口元に笑みが戻った。


「余興だよ。別に僕らの系譜が何か言わなくても反対説を唱えるひねくれ者はいたさ」


 かつ、とキリクは靴音を鳴らし、カレンの方に向き直る。カレンは身構えた。

 濃い色の金髪に碧色の瞳の好青年。豊かな知識に穏やかな物腰。彼ほどの容姿と才能に恵まれたなら他のことで大成しただろう。だが彼はそうしなかった。

 怒りと苛立ちの底で、青年を哀れに思う自分に、カレンは気がついた。一瞬見せた彼の表情が気になったからだ。


(――そうしたくても出来なかった理由が、ある――私は甘いのかもしれないけど――もしその理由から解き放たれたら、逆転できるかもしれない)

「ネルは、贄神を発現させてしまったローゲの子孫だと言ったわ。キリクはユージニアさんの子孫なのね。ユージニアさんは追放されたあと……誰かと……」

「もっとタチが悪いんだ」


 と、キリクは微笑んだ。


「彼女は意図的に僕らを“作り”、エルドスムスの前国家だった国に潜ませた。ローゲはたいした技術者だったそうだからね。自分を捨てた国と同じことをしたのさ。持ち出したグランドの精子と自分の卵子で子供を作る。その子供は忠臣の家に養子に入れられた。忠臣の家系が断絶しそうになれば他の家へ養子に入る……その繰り返しさ。カッコウの托卵みたいなものだ」


 決して、混じり合うことのない暮らし。忘れることのできない恩讐。

 キリクの言葉からは3000年という長い間、同じ志を抱き続けた者たちの孤独が滲み出ていた。3000年の間、一人の意志を継いでいくのは並大抵のことではない。しかもその意志は、いずれ大きな犠牲を出すことも予定済みだった。


「分かったわ――踊り続けていたのは、キリク、あなたたちよ……本当に、こんなことがしたかったの。今、嬉しい? 満足してる? 私にはそう見えない! 本や歴史の話をしてお茶を飲んで、笑ってるほうがよっぽど楽しそうだわ。贄神を神と信じるしかなかったのは他でもないあなたよ、そうでしょう?」


 カレンは言い切った。


「私とトウマは、もう一度贄神を封印する。神様はいなくなるけど、あなたは自由になれる。もう……彷徨わなくてもいいの、よ」


 つかの間、沈黙がその場を支配した。

 キリクの端正な顔から再び笑顔が消えている。漠然とした表情で何を考えているか分からない。


「3000年――母なる人、ユージニアの想いを背負って」


 ぽつり、とキリクは呟いた。


「君たちが贄神を消滅させたと聞いたときは頭が真っ白になった。まさか消滅させることができるなんて思わなかった」


 だが、そう簡単に信仰は捨てられるものではなかった。


「分かるかい? 世界がふわふわして頼りないんだ。君たちは僕から存在理由を奪った」

「あなたなら……今の社会にも順応できるじゃない。現に皇帝の信頼もあって、学者としての基礎もあって」


 カレンの言葉をキリクは遮った。


「僕の家系を見ただろう? なぜ全て断絶しているのか……幕を降ろさざるをえないからだよ。僕――僕らは」


 君たちよりもずっと長い時間を生きている。

 魔属との融合で、そう作られた。

 正しく意志を継ぐように。

 人間社会において長く潜伏できるように。


「いくら世俗との関わりを最小限にしても、姿形が若いままではおかしいだろう? 名を変え、素性を変え、だが系譜だけが繋がるように養家を密かに乗っ取ってきた。系譜を残すのは家系重視のエルドスムスでは生き易いからね……政治にある程度タッチできる距離は保たなくちゃいけない」


 積み上げた知性も、恵まれた容姿も、全てはユージニアの意志を全うするために消費される――正しく、人形劇を演じる人形。


「君もトウマも人を救うと簡単に言うけどね。そんなに軽くないんだよ、僕らの背負ったものは。ネル――ルーンフォルスもそうだ。説得できると思った? 甘いよ」


 畳みかけるキリクに、カレンは言葉をなくした。


「やっぱり君は誠実だね、カレン。僕の心中を察すれば偽りの慰めも出てこなくなる。3000年の想いに較べれば自分はどうだと内省する――それが君の弱さなんだよ。つまりは他者と較べて自分が正当でないと何も言えない良い子なのさ」


 魔法でもなく剣でもない。言葉の刃がカレンを切り刻んでいく。トウマであれば「うるせえ!」の一言で済むところが、カレンは理性でもって相手を理解しようとする。

 許すことは簡単ではない。受け入れることはもっと難しい。


「君はさっき、僕らの神は贄神だと言ったね。それは否定しないよ。

 前の贄神のとき、馬鹿な学者共にフィンゲヘナが贄神復活を企んでいると吹き込み、エレーナ姫を生贄に差し出すなんて馬鹿らしい説まで準備して皇帝を焚きつけた。たくさんの生贄を奉じるために情報操作をして種をまいてきた……これからだってそうだ。僕らは永遠に溶け込むことなんてない」


 カレンは目眩を覚えた。

 踊らされたのはカレンたちだけではない。前の贄神のときからエルドスムスもフフィンゲヘナも彼の手中の人形だったとは。

 キリクはカレンを見つめた。静かな碧の瞳には狂気はない。喜びもなかった。


「救われたこの世界も、もうじきおろおろし始める。神がいない世界は酷く不安定で脆いんだよ。世界が滅ぶかもしれない脅威に怯えながら、英雄の登場を期待しているほうが気が楽だと気づくに違いない」


 キリクはゆっくりとカレンの前に歩いてくる。カレンは動けなかった。

 語られた事実が悲しすぎて。

 ユージニアの望みが重すぎて。

 その対価に支払われた人々の命が多すぎて。

 まるで自分の想いなど価値がないのではないかと思えるほどに。

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