黒の正体
赤い緞子のカーテン。ゆらめく水槽。焚きしめられた香。幾重にも重なった紗の垂れ幕の内側には微かな熱がこもっていた。
ねっとりと絡みつくような重く甘い香の匂いは、熱以外の全ての生の痕跡を消してしまう。快適な温度で保たれているこの城の中で、その熱は「生」を感じさせる。そして異質なものだった。
寝台の周囲は敷物がはぎとられ、水晶のような床が剥き出しになっている。そこに、銀色の髪と小麦色の肌の少女が、うち捨てられた人形のように転がっていた。
腕、足、胴体。体中を黒革の紐で拘束され、後ろ手に縛りあげられている。それ以外に身に纏っている衣服はない。小さな口は球のついた猿ぐつわで塞がれ、僅かに開いた口の端から浅い呼吸が漏れていた。細い体は彼女自身の汗と、他者の唾液や体液で濡れ、光っていた。
少女は軽く身じろぎをし、びくっと体を震わせた。そしてゆっくりと頭を上げる。まどろんでいたのだろうか。
体全体を使い、上体を起こし、床に座り込んだ。
足の拘束具は外れていた。自由な角度を取ることができるように。股の間から、温度を失いつつある白濁した液体がどろっと流れ落ちた。
長い、長い吐息が猿ぐつわの端から漏れた。
■□■
壁一面がガラス状の蔦で覆われた部屋の真ん中に、トウマは座り込んでいる。壁も、天井からも穏やかな光が降り注いでいるが人工の光だ。明るいが暖かみはない。
磨き上げられた床に不鮮明に映っている自分の姿を、トウマはじっと見つめている。首に両手両足と、金属製の輪が鈍い光を放っているが、それには鎖も何もついていなかった。
芸術的なガラス細工のような美しい部屋だが、ここは紛れもなく牢獄だった。テーブルもベッドも、家具らしきものは何もない。例外として四角い、陶器のような正方形の箱がトウマから少し離れたところに置かれている。椅子のようだが丸い穴がある。トイレらしかった。
窓がなく、常に明るいこの部屋では時間の経過が曖昧になる。酷く長い時間が経過しているような気がしたが、多分、実際はもっと短いのだろう。
トウマにも時間の経過を数えるほどの余裕はなかった。
(カリヴァとガリュウは無事か)
トウマが囚われたことを知ったら二人とも行動を起こすだろう。床に映る自分自身を見据えながら思った。
(――まだ気づいていないか、それとも……捕まったのか)
がっ。
トウマは腹立ち紛れに拳で床を叩いた。血の雫がぽたりと滴り落ちる。トウマの手から二の腕あたりまで、重度の火傷のごとくただれ、傷になっていた。トウマは忌々しげに両手を見つめた。
その目は死んでいない。絶望もしていない。危険なほど底光りしていた。
(あと少しで回復する。そしたらまたチャレンジだ)
頭の中で燃えるような聖剣の姿を思い浮かべる。聖剣はいつもと同じようにトウマに寄り添ってはいるが、持ち主の意を汲んで形を取ろうとはしなかった。
どんなときに聖剣が本来の“剣”の姿になったか、トウマは思いを巡らした。
カレンが贄神に“呑まれた”とき。
贄神と対峙したとき。
いずれもトウマ、あるいはカレンの意志ではなく状況がそうさせた。
「いや……あんときは違ったな」
トウマとカレンが、贄神の元へ赴く者を決めるために刃を交えたときだ。辛い戦いだったが、トウマの答えは、あの場所に辿りついたときに出ていた。何度も考えて、出した結論。そうと決めたとき、聖剣は意のままに剣の形を取ったのだ。それに呼応するかのように、少し遅れて決戦の場に到着したカレンの魔導書も剣となった。
自分の右腕を撫でる。
(――だったら、オレは何に迷ってるんだ?)
簡単なはずの答えが上手く取り出せない。思考は同じ場所をぐるぐると回るだけで、答えは見出せなかった。
その間に、手のひらを湿らせていた血が乾き、皮膚が再生していく。時間経過で体力が回復したのだ。
トウマは手をこすり合わせた。
「よし!」
トウマはきっ、と何もない空間を見据えた。
これが5度目の挑戦になる。同じことを繰り返して我ながらバカだとは思うが、ただ待っているにしても根比べには違いない。
(――こんなことになってるって知ったらカレン、怒るかな……いや、軽蔑されるかもな、今度こそ)
自然と苦笑いが浮かんだ。なにせ敵方に捕まるのはこれで二度目なのだから。一度目は、かつてリグラーナにさらわれた。そして二度目は――自ら飛び込んだ。結果として巻き添えにしたカリヴァとガリュウには悪いと思っている。だが、今も、自分の手で解決したいという思いに変わりはなかった。
(――分かってくれなんて言わねえよ。分かるわけがねえし。だけど迷惑も掛けたくない)
トウマは立ち上がり、目の前の空間に向かって歩き出した。もう何度となく“触って”いるから場所の見当はつく。
その場所まで来たとき、トウマは両手をつきだした。指先に何かが触れ、ぱちっと火花が散った。一呼吸置いて、トウマは両手で“それ”を掴んだ。
バチバチッ。音とともに激しく火花が散り電撃がトウマの両手を包んだ。トウマの掴んだ“それ”は目に見えないが、天井から床まで張り巡らされており、網のような手応えがあった。
「くっ……そお!」
トウマは歯を食いしばり、目に見えない網を引き裂こうとした。が、火花が激しく散り、小さな雷が腕にまとわりつき、表皮を切り裂き、焼いていく。不可視の檻は最初は軽い電撃程度で警告をするが、力を加え続けたり破ろうとするアクションに対して攻撃の度合いを上げていくようだった。
床を血の雫が濡らしていく。皮膚が焼けていく嫌な匂いがした。回復が追いつかない。トウマの腕は容赦なく電撃の鞭で打たれ焼かれているが、手首にはめ込まれた輪と聖剣は無傷のままだった。
なおもトウマは手を離さない。心なしか、先ほどより網がたわんできたようだ。
「もすこし……か……ッ!?」
そう思った途端、電撃が一際強くなった。痛みと熱さが文字通り腕と神経を焼いていく。吹き出た脂汗が、トウマの顎から滴り落ちた。
「――しつこいね。さすが聖剣の主に選ばれただけのことはある。並の人間なら4回目で死んでるよ」
涼やかな少年の声。ルーンだった。5度目の愚者の挑戦が、とうとうルーンを目前にひっぱり出したのだ。
ルーンは入口にほど近い壁面にあるパネルを何やら操作した。すると電撃が止まる。トウマは自分の手の中の頼りない細い“もの”が硬質に変化するのを感じ、手が弾かれた。抗う力はなく、だらりと両手を降ろした。
目の前に、白銀に輝く金属質の大きな網が出現する。
トウマは手の感覚を確かめようと指を動かす。鈍いながらも動いた。焼け爛れた腕に、今さらのように激痛が走る。さすがに顔をしかめて大きく息を吐いた。どうやらまだ手は“生きて”いるようだ。
いくらタフなトウマでもこれほどの負傷だと回復に時間がかかる。体力も消耗していた。だがルーンを前に、意地でも床に座りこんだりしない。今もまだ戦いの最中なのだから。
「わぁ、酷いケガ」
閉じ込めておいて、ルーンはわざとらしく同情の声を掛ける。トウマは苦痛を堪えながら網の向こうで微笑んでいるルーンを見据えた。ルーンは小首を傾げ、トウマを見返す。灰褐色の瞳はトウマに向けられているが、遙か後ろを見ているかのようだった。
「……今度は金属の檻かよ」
「まあね。猛獣にはちょうどいいでしょ? 腕が焼け落ちるまで待ってもよかったんだけど、今のところ元気でいてもらわないといけないからね」
ルーンはふわふわとした足取りでトウマの正面に立った。
「この檻はねえ、内側から破ろうとすればするほど電撃が強くなるんだよ。武器があってもそうそう破れないのに、素手で向かっていくなんてさあ……バカだよね」
「武器がなけりゃ、体を使うまでだ」
「やっても無駄なのにねえ。自分を痛めつけるの、好きなんだ」
ルーンが向ける嘲笑を、トウマは睨み返した。
「無駄なら何もしなくていいのなら、それは死ぬことと同じだ!」
気圧されたのか、ルーンはわずかに目を見張った。
「生きるってのはよ――生き延びるってのは、這ってでも前に進むことだ。オレにとってはな……生きるために何かすることが無駄なわけねえだろうが。
無駄っていうなら、意味があることってなんだ!!
意味がなくちゃ生きてちゃいけないのか!?」
瞬きもせず、トウマを見つめるルーン。トウマの言葉に射抜かれたようだった。
が、それも束の間。すぐに冷たい笑みが唇に浮かぶ。
「……どっちでもいいや。大人しくしててよ。君の出番はまだなんだから」
「ネルは、どうした」
うふふ、とルーンは含み笑いをした。
「そんなに気に入ったんだ。いいよ、あげるよ。ご褒美に……いや、ご祝儀だね」
「なんの祝いだ?」
ハレルヤ! とルーンは笑い、くるりと片足で回転した。
「誕生日祝いだよ」
ルーンは笑顔のまま答える。表情は笑っているのに、奇妙に凍りついた表情。トウマは険しい表情でルーンを睨んだ。
「……3000年前。お前の先祖って奴が“贄神を生み出す仕組み”を作ってしまって、魔属から追放された。今のフィンゲヘナを恨んでいるのは分からなくもねえ……でもな、なんでオレがここに引っぱり出されたんだ?」
「だって君、リグラーナ様に気に入られてるんでしょ」
「そんなもん、理由になるか!」
なるよ、とルーンは答える。
「今まで通り、人間を心底軽蔑して鼻にもひっかけない、同族だろと絶対に他者を信用しない、そんな魔王だったらとてもやりにくかったのさ。入りこむ隙がないからね。人間も魔属も感情で動くイキモノ。史上最強と言われる女王様の弱点は感情でした」
楽しくて仕方がないといった感じで、ルーンはくすくすと笑った。
「魔王に何かあれば、肩入れしている人間の王も静観してられないだろうね。かくして二つの国は混乱し、乱れ……ふふ、ははは……とてもステキな喜劇だよ」
「じゃあ聞くがな……喜劇の中で、お前の役割はなんだ」
唐突にトウマが尋ねる。ルーンは薄ら笑いを浮かべたまま止まった。
「僕は――復讐のシナリオを書いた劇作家さ」
「違う」
トウマは金属の網の間から手を伸ばし、血塗れの腕を伸ばしてルーンを指さした。
「お前も! 喜劇役者だろ!? 3000年前の怨みに縛られた、操り人形だろうが!!」
あやつりにんぎょう。
ルーンはその言葉を、不思議そうに繰り返した。
「僕が……操り人形、だって?」
「操ってる気になってるようだが、お前も結局、3000年前の誰だかの果たせなかった想いにがんじがらめになってるだけだ」
ルーンはふらふらとトウマに近付いてきた。口元は笑みをたたえたままだが、目はトウマを見ているようで見ていない。見えない何かを凝視しているかのようだ。
「3000年、死人と同様に扱われ、存在を無視されてきた者の気持ちが、過去を捨ててきたお前なんかに分かるものか!」
「分からねえな。3000年前のそいつの怨みは、オレの怨みじゃない。お前の憎しみはどこにある? フィンゲヘナとエルドスムスをめちゃくちゃにして」
トウマはもうルーンを見ていなかった。見据える先は暗闇の奥。
「そこに――青空は見えるのかよ?」
す、とルーンの顔から表情が抜け落ちた。
「“生きている”ネルに会わせろ、今すぐに」
「……」
ルーンは怯えたように2、3歩後じさりした。そしてくるりと踵を返し、部屋を出ていく。とても頼りない足取りで。手足を繋ぐ糸の一本が切れてしまった人形のようだった。
部屋の扉が音もなく閉まる。
それを合図に、トウマはくたっと膝から崩れて床に座りこみ、そのまま大の字に寝そべった。
「……ってぇ!」
投げ出した腕に激痛が走る。かろうじて悲鳴を噛み殺した。立ち止まる訳にはいかない。
「けど……さすがに今度のはちょっときつかった……」
顔を傾け、自分の腕と、聖剣を見た。
右腕に巻き付いた焔のごとき姿形の聖剣は傷ひとつなくそこにある。だがトウマの想いに、今は応えてはくれなかった。
「くっそ……融通がきかないとこ、カレンそっくりだぜ」
自分の聖剣からも拒絶されたように感じて苦いものが込み上げる。大きく息を吸って吐き出すと、トウマは目を閉じた。
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