決裂

 ゼロのアナウンスから20分後、ようやくカレンは身支度をととのえて制御ルームに赴いた。朝風呂40分、夜風呂1時間のカレンにしてはハイスピードである。お気に入りの白のワンピースにコートドレスを着、青の魔導書を携えて、制御ルームの入口に立つ。

 すー、はー、と深呼吸を一つ。


(私、なんでこんなに緊張してるのかしら? とにもかくにも笑顔よ、笑顔。落ち着いて)


 一歩足を進めると、自動ドアがシャッと開いた。

 我ながら作りすぎていると思える笑顔で、カレンはことさら明るく言った。


「おは……よ」


 制御ルームには何故かティアやリリアームヌルシア、クリューガ、カリヴァにゲノム。あとキリクもいる。

 皆、一様に、爽やかな朝とはほど遠い深刻な表情を浮かべていた。ゼロは変わらぬ無表情で立っているし、レイも少し離れたところで壁にもたれている。

 一番の遅刻はカレンのようだった。


「おー、おはよ」


 中二階の階段に座っていたトウマが片手を挙げた。あっけらかんとした、いつもの挨拶だ。普通すぎて、構えていたカレンは愕然とした。


(なにコレ。何もなかったかのような)

「ごめんなさい、遅くなって……」


 ぎこちない笑顔を浮かべたまま、カレンは固まった。

 異物発見。

 それはトウマのすぐ隣に座っていた。袖なしのフード付きのロングコートを纏った、華奢な少女だ。顔はフードを目深に被りよく見えないが、鼻筋や口元の造形から相当の美少女であることは分かる。

 フードから流れ出ている銀髪の長い三つ編みが、剥き出しの腕の小麦色とよい対照となっておりエキゾチックな雰囲気だった。

 カレンと少女の目が合うと、少女は怯えたようにトウマの左腕に寄り添い、身を潜める。それでもフードの下の灰褐色の瞳はカレンをじっと見つめていた。友好的な視線とはお世辞にもいえない。


「カレンだよ。もう一人の聖剣の主」


 トウマが少女に言ってきかせると、少女はかくり、と頭を下げる。だがトウマの腕を掴んだまま離さなかった。

 眉間に皺ができそうになるのをカレンはぐっと堪えて平静を装った。


「はじめまして。お名前は?」

「ネル」


 簡潔に少女は名乗ると押し黙った。そのまま1分ほど経過するが何も喋らない。まさしく“お話にならない”。


「ネルはフィンゲヘナとエルドスムスの国境に近い、西の砂漠から来たんだ」


 代わってトウマが説明を始めると、ネルが口を開いた。


「私、話す」

「そうか? 無理すんなよ」


 かくり、とネルは頷く。トウマに向けて見せた顔は少し微笑んでいた。それもカレンは気に入らなかった。

 ネルはすっと、立ち上がり、カレンの前に立った。ネルはカレンよりも背が低い。カレンはやや上から、ネルはすくい上げるようにお互いを見ている。


「話し合いってえより、タイマンだぜ」


 呟くクリューガ。カリヴァが咳払いをして、槍でクリューガの頭をポカリとやった。


「……私はブリガドゥーンの民。この世から忘れられ、捨てられた者たち」


 カレンが来る前に概要だけは聞いていたであろう仲間たちも、改めて複雑な表情を浮かべた。きょとんとしているのはリリだけだ。カレンも“ブリガドゥーン”を知っていた。

 ブリガドゥーンは村の、というより民族の名称に近い。住んでいる場所はエルドスムス帝国と国境を接する魔属領内だが、誰も確たる場所を知らない。辺境の交易ルートからも外れている。


 それでも名だけは聞こえている。不幸と不吉の響きをもって。その起源は数百年とも数千年とも言われるが、定かではない。

 長く争ってきた両国の国境に近いということは、どちらにも属しているか、属していないかのどちらかだ。拮抗する大国に挟まれ、ブリガドゥーンはどちらの国にも属することができなかった。

 なぜなら、その住民たちは争いで生まれ、あるいは引き裂かれた、人間と魔属の間に生まれた人々だからだ。

 多くの場合異形に生まれ落ち、持つ力は人外のもの。そういった子らは“忌み子”として遺棄されるか、命を断たれることが多かった。一方の魔属は種族社会で純血主義である。純血種こそが最も魔属の力を保つことができ、強いとされていた。人間社会よりも種族と、種族の中の階級制度に縛られている。それ故に絶対権力で治める魔王が必要なのだった。


 人間から弾き出され、魔属にも認められない。

 どちらにも寄り添えず、混じることもできず。

 彼らはいつしか集落を作るほどに“生き残った”。


「私たちは今までひっそりと暮らしてきた。魔属にも人間にも、誰にも迷惑をかけてない。なのに……!」


 ぎり、とネルが歯ぎしりをする。鋭い犬歯が口の端からちらっと見えた。ネルもまた、確かにブリガドゥーンの者なのだ。


「隠れ里を見つけるために、エルドスムス帝国軍の奴らが私たちの仲間を捕らえ、拷問にかけて殺した。今も、私たちを追い続けている」


 しん、と制御ルームは静まり返っている。ネルの口調は淡々としているが、それだけに不幸の大きさが聞いている者に迫ってくるのだった。

 エルドスムス帝国軍と聞いて、カレンの頭の中でようやく情報が繋がり始めた。


――辺境で頻発する集団失踪・誘拐事件。現在、皇帝の勅命で捜査をしているはずだ。


『この失踪や誘拐騒動に魔属が関わっているという噂もあるからだ。お前達のおかげで、エルドスムスとフィンゲヘナはこの度平和条約に正式に調印した……だが、それを好ましく思わない輩がいてもおかしくはない。これが帝国の人間が企てた件であるならば、帝国に対する謀反として成敗できる。だが魔属内での争いであれば、余は手出しができぬ』


『仮に魔属が絡んでいたとして、あの誇り高いリグラーナがそのことを知れば恥と思い、どれほど心を痛めるだろう。それだけではない。情けない話だが、帝国内でも未だフィンゲヘナとの和平を快く思わない者がいる。これに乗じて世論を煽り騒ぎ立て、和平をなかったことにしてしまう動きが活発化することも考えられる』


『この時期に国境付近で、誰の仕業とも分からぬ集団失踪や誘拐事件が多発しているというだけでも不穏なのだ。非常にデリケートな問題ゆえ隠密に情報を探らせているが、誘拐の実体が明らかになった場合、お前達に力を借りねばならないやもしれぬ――』


 グレゴリアの説明がぐるぐると踊り始める。


「帝国軍が、どうしてあなたたちの隠れ里を探しているの?」


 カレンは慎重に尋ねた。事は、決して単純なものではない。警戒が必要だった。


「詳しい理由はわからない。だけど辺境の誘拐犯はお前達だろう、と決めつけられたと聞いてる」


 カレンから視線を外し、ネルは床を見つめる。


「昔から言われてることだけど、でも、なぜ、今さら責め殺されなければならないのか、わからない」


 カレンは内心溜息をついた。疑わしきは罰せよ、と帝国の能無しが突撃したのだろう。グレゴリアは隠密と言っていたが、相変わらず末端の人選は危なっかしいようだった。

 一般的に、ブリガドゥーンは不幸な生い立ちと勝手な憶測で派手に装飾されている。辺境で盗賊たちによって村が焼き払われたり、強奪が行われたとしても、ブリガドゥーンだと汚名を被せられることがままあるのだ。そのくせ、実体も、所在も誰も知らない。帝都に住んでいたカレンは実在さえ疑っていたくらいだ。


「ブリガドゥーンは人さらいだと……不幸を分かち合う仲間を増やすために人をさらっているといわれ続けた。でも、それは欺瞞」


 嘘ではなく欺瞞、とネルは言った。


「人間も魔属も、忌み子が産まれれば村の近くまで捨てにくる。運がよければ巡回している村の者が発見する。運が悪ければ死ぬ」


 ブリガドゥーンが世間から隔絶されているのに現代までひっそりと生き残ったのは、そういう理由があったのだ。

 人間も魔属も、この重い事実の前ではうなだれるしかない。


「ブリガドゥーンも出自を隠して交易に出ることがある。そのとき、聖剣が復活したことと、贄神が滅びたことを知った。だから……」


 ネルはカレンを見た。


「助けて、ください」


 生気のなかった灰褐色の瞳が強く輝いている。

 これほどの話を聞かされたとあっては黙って見過ごすわけにもいかないだろうが、問題は何をすべきか、だった。


「私たちに、何をしてほしいの」


 カレンが問うと。


「帝国軍の奴らを止めて。そして、濡れ衣を晴らしたい。誘拐事件の犯人を捕まえて真相を明らかにしたい。そして……」


 静かに暮らしたい、とネルは呟いた。

 確かに、彼らが平穏に暮らすには真犯人の確定まで必要だ。だがそれをどのようにやるのか。


「――オレが行くよ」


 トウマが言った。

 予想通りの言葉に、カレンは溜息をついた。


(分かってるのかしら、事の重大さを)


 トウマに見えているのは虐げられた人々だけだろう。

 カレンはもう少し冷静だった。嘆願の使者がミステリアスな美少女だからだ。充分偏見に満ちた感情的な理由ではあるが、冷静な思考を保つには役に立っていた。

 カレンの探るような視線を受けとめて、ネルがぽつんと言った。


「信じて、くれないんですか」


 さすがの直球勝負に、カレンも一瞬動揺したが、冷静に答えた。


「そういわけじゃないわ」

「私がバカみたいに泣きわめけば、信じてくれたんですか」


 ネルは痛烈な皮肉を言った。


「それも違うわ。ただ、とても大きな問題なので、私たちで何ができるか考えているのよ」


 にこり、とカレンは微笑んだ。久々に出た、絶対零度の微笑みだ。

 視界の端にクリューガが寒そうに腕をさすっているのが目に入り、面白くない。

 ふう、とネルは息を吐いた。


「感情を、出すのは苦手。それに泣いたって……誰も助けてくれない」


 淡々と紡がれるネルの言葉はカレンの良心をちくちくと刺激する。手を貸さない理由は今のところ、見あたらない。

 カレンが折れないのは感情的な面での抵抗があるからだった。それといくばくかの不安。


「――トウマ、ちょっと二人だけで話をしたいの」


 カレンが言うと、トウマは頷いて立ち上がった。


「食堂に行きましょ。みんなはここで待っていて」


 ネルが心配そうにトウマをみつめている。トウマは、安心させるように片手をひらひらと振った。かくり、とネルが頷く。無言の会話だが通じているようだ。それもカレンには面白くなかった。



 二人っきりの食堂はとても静かで、いつもより広く感じられた。


(こんなことで、二人だけで話なんてしたくなかった)


 カレンは苦い思いを噛みしめながら、椅子に座った。その向かいにトウマも腰を降ろす。


「ねえ、トウマ。さっきの話の続きの前に……話しておきたいことがあるの」

「ん? なんだ?」


 カレンは魔導書に巻き付いている金鎖を弄びながらごにょごにょと呟く。自分のこととなると、先ほどの冷静さはどこへやら、頭も口も回らない。


「えっと……昨日、グランタルのおじいちゃんの書斎で、ね」

「あー……」


 トウマは曖昧な返事をして、頭を掻いている。動揺したカレンは別のことを口走ってしまった。


「……珍しいもの、見つけたの」

(――順番違うでしょ、私!)


 自分で自分につっこんでみるが、どうしようもない。


「ふーん?」


 怪訝な顔をするトウマ。


「そっそれはゼロに預けてあるから、そのうち見ることができるわ。歴史的大発見で、私たちにも役に立つと思う……の」


 さっぱり要領をえない。


「それでね、あの、来てくれたときに……大変なことが起きて、その直後だったからあんなことになってたんだけど……」


 思い切って核心部分に触れたところ。


「あんときは悪かったな。邪魔しちゃって」


 からっと、トウマが言った。

 想定外の態度に、カレンの頭の中はさらに混乱した。


「リリ公に呼んでくるよう、頼まれたんだ。そーいや、アイツから用事、聞いた?」

「ううん……うん……」


 カレンも曖昧な返事をした。

 安堵より落胆のほうが大きい。否、かなりショックだった。トウマが昨日のことを気にしているという前提で物事を考えていたのだから。

 その途端、ネルの顔が脳裏をよぎる。


(ブリガドゥーンの話のほうが大事なんだ。私が誰かの胸で泣いていることより。泣いてしまった理由より――当たり前よね。悲劇で、命が危険に晒されてるんだもの)


 しかも、ネルはトウマのことを信用しているようだった。頼られれば尚更、そちらへ意識が傾くのは無理もない。


「話って、そのことか?」

「そうだけど……どうでもいい話ね。忘れてちょうだい」


 カレンは自ら話を終わらせると、頭を切り換えた。理性的な話をするほうが、ショックを軽減できる気がした。加熱していた頭は今、かなり冷えている。


「さっきの話の続きだけど、皇帝の言ってたこと覚えてる?」

「ああ。その事件のおかげでネルたちが迫害されてる。バカじゃねえか、その帝国軍の奴ら。とりあえず捕まえて拷問ってどんな無能だよ。ちったぁ頭使って真面目に調べろっつーの!」


 それについてはカレンも同感だった。


「気になるのは誘拐事件の犯人ね。何が狙いなのかしら……エルドスムスとフィンゲヘナ、犯人がどちら側であっても大変なことになるわ」

「だからさ、オレたちがさっさと片づけりゃいいんだろ」


 いとも簡単に言ってのけるトウマに、カレンはかちんときた。


(やっぱり、分かってない)


 バン、と大きな音を立て、カレンは魔導書をテーブルの上に置いた。先ほどから蓄積されているもやもやが、タイミングよく怒りという形にかっちりとはまったのだった。トウマは無意識にカレンの感情の引き金を引くのが、本当に得意だった。


「よおっ……く考えて、トウマ。中立の私たちが裁定すれば確かに表面的には角は立たないだろうけど、それはエルドスムスもフィンゲヘナも手を汚さないってことなのよ。意味分かる?

 聖剣の主が中立であるためには、両国の汚いものを掃除する掃除係になってはいけないわ」


 建前ではなく本音だ。皇帝から依頼を聞いてから心の隅で心配していたことだった。

 聖剣を手にしてから、カレンはずっと恐れている。自分たちが利用され、間違った方向に力を使ってしまうことを。数千年の厄災、贄神をも倒した力である。自分の個人的な感情の赴くままに力を使ってしまうと、贄神よりも厄介な災難になりかねないのだ。

 トウマはふぃーっと大きな溜息をつく。


「カレンは……反対なんだな?」


 そう言われ、カレンは言葉に詰まる。話の成り行き上、トウマがブリガドゥーンに赴くことは避けられないだろう。聖剣の主が動くことと事件の重大性だけで引き留められないのは分かっていた。

 だが、なぜ自分がここまでブリガドゥーンの話に気乗りしないのか、カレンにもはっきりと分からない。とにかく苛立つ。そんな感情的な理由くらいしか思いつかない。だから理屈を振りかざす。大きな、政治的な臭いのする理屈を。


「そんなことないわ。ただ、今、確かな情報が少ない中で私たちが動くことがどんな影響があるかわからないのよ?」

「そうしてる間にも、帝国のバカ共に殺される人もいれば、誘拐される人だっているんだぜ」


 トウマも退かなかった。


「疑いたくはないけど、どうしてネルが本当のブリガドゥーンの民だってわかるの?」

「わかんねえよ」


 あっさりと、トウマは認めた。


「は?」

「そんなのわかるわけないじゃん。ブリガドゥーン自体も伝説みたいなもんだからさ。だから行って確かめればいい。情報って誰がいつ持ってくるんだ? オレは自分の目で見たものを信じたい。他人の情報なんか待ってたら、それこそ、そいつらにいいように使われてるんじゃねえか」


 トウマの言うことにも一理あるのだが、カレンはますます苛立ちを募らせる。あまりにも簡単に解決すると考えているからだ。


「トウマは聖剣の力も、自分の力も過信しすぎだわ! 贄神を倒した力で、このややこしい事件を簡単に解決できると思ってるの? ううん、贄神のときのほうがもっと単純だったのよ、あれは絶対的な悪で災いだったから。でも今度のことは――」


 トウマはカレンの言葉を遮るようにテーブルに手を投げ出し、そして右腕を見た。聖剣の宿る手だ。


「誰も助けられなくて、何のための力なんだ」

(――トウマ、こんな顔するなんて)


 怒りではない。苦痛を堪えているような表情をトウマは浮かべていた。


(だけど、トウマはわかってない)


 胸に疼く軽い痛みを堪え、カレンは強い口調で言い放つ。


「聖剣の力は、贄神も倒した強大な力よ。分からない? 気持ちのままに好き勝手に使って、もし暴走したら贄神以上の被害を与えかねないのよ! 私はね、怖いのよ、今でも聖剣を持っていることが。トウマは怖くないの? どうして? こんな大きな力、私の手に余る……」


 トウマは驚いたようにカレンを見つめている。何か言いたげに口を開きかけた。その口元をカレンは凝視していたが、トウマは結局何も言わなかった。


(何も言ってくれないんだ。聞いてもくれない)


 昨日の涙の理由を聞かれなかったことより深い失望感が、カレンの心の温度を下げていった。

 暫くの沈黙の後。


「現実的な話をしましょう」


 カレンから口を開いた。トウマも渋々、頷いた。


「カレンならどうするんだよ」

「まず皇帝を動かして無茶な捜査をやめさせるわ。そして最新の情報を集める。ブリガドゥーンの潔白を証明するためには現地に赴いて調べることも必要ね。これは私たちでもできるわ。犯人探しはできれば皇帝とリグラーナに任せましょ」


 ぱちぱちぱち。

 トウマは拍手をした。もちろん心からの喝采ではない。


「頭のいい回答だよ、大人だよな。多分、カレンが正しいんだろう……だけど」


 トウマは立ち上がった。


「オレは今すぐ、ネルたちを助けたい。オレの手で」

「“ネルを助けたい”んでしょう」


 カレンも立ち上がる。とても好戦的な気分だ。


「あなたの言うことも立派よ、トウマ。すごく人間愛に満ちていて聞こえがいいわ。きっとみんな賛成してくれるわよ」


 カレンとトウマは睨みあった。

 お互いの気持ちが見えない。思いやる余裕もない。苛立ちと、自分が考えていることをぶつけ合うだけの不毛な言い争いだ。贄神との戦いのときの対立とは違う。知らない者同士の衝突ではなく、二人の考え方が真っ向から対立しているのだ。

 ただ、本筋に沿っているようで沿っていないこの諍いの中、カレンには分かったことがある。


「私の同意なんてなくても、自分が思うようにしたらいいのよ。トウマはいつだってそうてきたじゃない。勝手に決めて、勝手に前に進んで。私も、みんなも慌てて後を追いかけて。トウマは目先の未来が一番大切なのよね。過去に積み重ねたことも、経験も、思い出も……どうだっていいんだわ」


 カレンは魔導書を抱きかかえると、トウマに背を向けた。

 一年前、カレンは何か大切なものを見つけたような気がした。トウマも同じ――と思っていた。

 ぎゅっ、と強く魔導書を抱きしめる。

 トウマは、やがて静かに言った。


「オレは、ブリガドゥーンに行く。今日中に出発したい」


 カレンは何も言わなかった。行ってらっしゃいも、さよならも。言わないことがカレンの意地だった。我ながら下らないと思うが、トウマの選択に対するささやかな反抗だった。


「防衛戦は任せた」


 靴音が遠のいていく。


「さっき、カレンが言ったこと――外れてない」


 靴音が止まる。


「オレは、過去を切り捨てて生きてきたから」


 カレンは振り返った。と、同時に再び響く靴音。

 階段を上るトウマの後ろ姿が、カレンの目に飛び込んできた。拒絶するでもなく、受け入れるでもなく。孤独な背中だった。

 このとき、カレンは初めて、トウマの心の奥底を覗いた気がした。

 置いて行かれた寂しさと、もっと上手く伝えることができなかったのかという後悔。自分が立っている場所がひどく頼りなくて、カレンは傍らの椅子にくたっと座り込むのだった。

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