期待の大型新人と雲クリームの反乱6

 土曜日の午前中である。

 蒼衣は珍しく、本日二回目のシュー生地を作っていた。雪平鍋には、糊化が進んだ水・バター・小麦粉が練られた生地があり、蒼衣は焦がさぬよう、タイミングを見計らっていた。

 生地の状態を見極め、火から下ろす。背後にある作業台に場所を変える。先に用意しておいた卵液を熱々の生地に少しずつ入れていく。手早く切るように混ぜ、硬さを調節する。

 パータ・シューシュー生地の完成である。

 開店と同時に「ふわふわシュークリーム」が大量に買われて売り切れてしまったため、追加のシュー皮とクリームを作っていたのだ。シュークリームはプラネタリウムと並ぶ、ピロートの主力商品なので、土曜日の午後に品切れでは心許ない。

 生地を絞り袋に入れ、やや性急な手つきで絞り出していく。温まったオーブンに入れて、タイマーをかけた。


「まさか、八代がいないときにあんなに売れるなんてなぁ」


 はぁやれやれ。いつもの調子で独り言を言ったつもりだったが、


「店長、一日休みでしたっけ?」


 幸久の声がして「ひょえっ」と間抜けな声を出してしまう。今日は朝からアルバイトに来てもらっているのだった。


「あ、ええと、夕方には戻ってくるよ。運動会は午前中だけだから」


 八代は今日、娘の恵美が通う保育園の運動会に参加するため、朝から不在であった。


「運動会……」


「保育園最後の運動会だからねえ。八代……店長は本当に娘さんのことが大好きで。土日が忙しい仕事だけど、行事はなるべく出てもらうようにしてるんだ。僕らの仕事も一期一会だけど、子どもの成長も同じでしょう?」


 恵美も来年小学生になる。子どもの成長は早いなあと思っていると、幸久は気まずそうな顔をして「保育園児なら当たり前か」と小さな声でつぶやいていた。


「レジ閉めのために夕方は戻ってきてくれるけれど……今日は二人でがんばろう。とりあえず、この道具を洗ってもらっていいかな」


「はい」


 幸久の声音はまだ固いし、やはりぎこちない。

 自分で言ったはよかったが、なにせ土曜日である。客足は平日より多い。まだ勝手のわからない幸久と、上手く連携できるかどうか。「不安」の文字で頭が埋まる。

 しかし蒼衣がしっかりしないと、店が回らない。

 仕切り直しに、前掛けの紐をキツく縛り直す。そしてやっと、今後の作業をどうするか、思考が動き出した。

 雲クリームは、さすが「雲」だけあって、気温や湿度に敏感だ。オーブンが稼働しており、室温が上がっている今の厨房ではうまいこと泡立たない。

 シューの焼成が終わってから室温を下げて、それからクリームに移ろう。

 これを考えるだけでも、とても頭を使った気がするのが自分でも情けない。

 蒼衣は、急な予定変更への対応が得意ではない。今日やるつもりだった試作は後回しにし、ボイスロッカー・ロール用の声変わり実ソースを仕込むのも、残量を見てから決めようか。そう考えていると、ふいに幸久の声がした。


「シュークリームって、そんなに大量に買う客がいるんですね」


 道具を洗い終わったらしい彼は、オーブンの中を見つめている。


「ウチのはほら、食べると浮かぶ効果が面白がられてて。あと、単価も安いから、たくさん買われるんだ。だけど時間が経つと、皮が湿気ておいしくないから大量に作り置きしたくないし。雲クリームも、すぐに効果が抜けちゃうから」


 話題を振られ、思わず饒舌になる。


「また大口の注文が入っちゃったら大変だから、急いで作らないと。うちの主力商品だからねえ」


 すぐに作れるよう、計量だけでもと材料棚を見ていると、来客を告げる音が鳴る。いつもの癖で店頭に出ると、そこには商店街の浅野がいた。目が合うと「おう、今日は八っちゃんいねえのか」と先に声をかけられた。


「浅野さん、いらっしゃいませ」


 今日は打ち合わせはなかったはずだ。買い物に来るのは珍しいなと思っていると、浅野は「シュークリームを二十個くれねえかな」と言った。


「申し訳ありません、今売り切れていて」 

 しまった、と蒼衣は思う。値札を下げていなかったのだ。


「え、売り切れなのかい」


 浅野は訝しげな様子になる。


「せっかく来たのになあ。いやさ、今、親戚がうちに遊びに来てるもんで、せっかくだからごちそうしてやりたくてね。でもよお、みんな一緒のやつじゃねえとほら、不平等だもんでさあ。シュークリーム辺りがよいと思ったんだけども」


 彼ははあ、と大きなため息を吐く。


「夕方に帰っちまうヤツもいるもんでよぉ。いやあ、魔法菓子は珍しいし、蒼衣くんのはこう、みんなでワイワイ食べるには丁度良いんだわ……どうにかなんねえかなあ、蒼衣くん」


 今ここに八代が居れば、上手く取りなしてくれるに違いない。浅野はじめ、商店街に関わるひとたちとの「ピロート」との関係性は、比較的良好である。しかしそれは、顔なじみの八代が間を取り持ってくれているからだろう。

 天竺蒼衣個人として対峙するのは、初めてかもしれない。不安は尽きないが、今対処出来るのは自分だけだ。いつまでになら作れるだろうか、時計を見る。現在時刻は十一時三十分だった。


「ええと、十三時過ぎなら、用意が出来ます」


 シュー皮はあと少しで焼ける。冷房を効かせれば、熱も取れて、クリームも作れるだろう。


「なら間に合う! じゃあ十三時過ぎにまた来るんでよろしく頼むよ」


 浅野はそう言って店を出て行った。

 はたと我に返った蒼衣は、慌ててメモを書き付ける。浅野さま、十三時、シュークリーム二十個。書いておかないと、別の作業をしたときに忘れてしまうことがあるのだ。


「い、急がなくちゃ」


 慌てて厨房に戻ろうとすると、また扉が開く音がする。お客が来てしまったのだ。引っ込むわけにもいかず、蒼衣は心の中で泣きながら、なんとか笑顔を作って接客を始めた。



 接客を終え、厨房に入るなり、シューの焼成時間のタイマーが鳴る。慌ててオーブンから取り出す。場を離れてしまった故に焼成が気になったが、無事膨らんだシューを見て少し気持ちが落ち着いた。

 網を用意し、その上にシュー皮を並べていると、幸久が「シェフ」と声をかけてきた。

 顔を上げると、不服そうな表情をした幸久がいて思わず「はいっ」と声がうわずる。


「俺、なにをすればいいですか」


 そういえば、次の指示を出していなかった。蒼衣はシュークリームの注文が急ぎで入ったことを説明し、計量および接客をやって貰うことをお願いした。

 さっきは思わず蒼衣が出てしまったが、本来ならば彼が店頭に出るのが理想だろう。とはいうものの、厨房は常になにか仕込んでいるため、洗い物はすぐに出るのだ。わざわざ呼び寄せるのも非効率だ。


「とりあえず、先に計量してもらおうかな」


 蒼衣は天板を置いてから、引き出しからルセットの書かれたノートを見せる。

 すると、幸久の目が明らかに興味を持って輝く。片付けばかりさせて悪かったなあ、と心が痛むが、一応、職人の世界の手順は踏んで貰わねばいけない。


「雲クリーム、砂糖、水、魔力安定剤、35%生クリームをこの分量で用意してくれるかい? 雲クリームは冷蔵庫、安定剤は材料棚に。ああ、先にエアコンの温度を下げるから、少し寒いけどごめんね」


 エアコンのパネルを操作したあと、冷蔵庫に案内し、雲クリーム「クラウドクリーム(濃縮)」と書かれたプラスチック容器を見せる。ついでに生クリームも取り出す。棚から安定剤の瓶を取ってもらう。


「ええと、雲クリームは揮発性が高くて、温度変化に弱いから……」


 幸久が、蒼衣の説明を聞きつつ容器に手をかけたそのとき、再び来客を告げるベルが鳴る。


「計量、やってて。僕がお店に出るから」


 作業途中で別の作業に移るのはあまりよくない。そう判断した蒼衣は、再び自分が店頭に出ることにした。

 蒼衣は「お願いね」と言い残し、店の表に出た。


:::


 蒼衣が去った厨房で、幸久はルセットを見ながら、材料の計量をしていた。

 最後にしてと言われた雲クリーム以外の材料を量り終える。


「寒っ」


 冷房が効き始めてきたのだろう、寒さに身を震わせた幸久は、雲クリームの容器に手をかける。

 蓋を開けると、白いもやもやがぎっしりと詰まっている。さながら、ドライアイスの煙のようだ。


「うわ、マジで雲なんだな……あれっ?」


 スプーンですくおうとすると、するすると落ちてしまい、上手くスプーンに乗ってくれない。大きくすくっても結果は同じで、これでは量ることすらできない。

 蒼衣から聞いた注意事項は「揮発性が高いから一番最後で」だけだ。スプーンからこぼれ出すと、煙のように消えてしまう。なるほどこれが「揮発性」か、と納得しつつも、つまりは、無下にスプーンでいじっていると、全てなくなってしまうのではないか。


「ヤバい!」


 思い至った幸久は焦り、ゆっくりとすくう。なんとかボウルに分量を入れたが、今度は別の懸念が浮かんだ。

 このまま蒼衣が来るまで待っていたら、揮発してしまうのでは?


「急いでるって言ってたよな」


 蒼衣が見せてくれたレシピノートを再度見る。走り書きの字はお世辞にも綺麗とは言えないが、内容は職人の一挙一動をつぶさに観察したように細かく、コレを読めば誰でも作れる気がしてくる。

 シェフパティシエたる蒼衣は、戻ってくる気配がない。それは、間を空けて鳴るチャイムの音でわかっている。

 厨房もよく冷えている。


「……俺だって」


 一瞬考えを巡らせ、幸久はおそるおそるホイッパーを手にした。


:::


 まったく、厨房に帰れる気配がしない。

 店頭に来た蒼衣は、つぎつぎ訪れるお客の相手をしつつ、背後の厨房の様子が気になって仕方なかった。

 土日はもとよりお客の数が多い。店内がひとで溢れるほどではないにしろ、一客お見送りすると、入れ替わりで一客……のような状態だ。


「ありがとうございました、またおこしくださいませ」


 それでも最後の言葉には感謝を込め、お客をお見送りする。


「閑古鳥よりはマシなんだけどなぁ」


 去年の今頃のように、オープン直後の知名度のなさを思えばうれしいことだ。だが、ここに八代が居てくれたらどれだけ心強いか――と考えて、慌てて首を振る。

 時計を見ると、十二時十五分を過ぎている。


「も、戻らないと」


 ずいぶんと幸久を一人にさせてしまった。次にやることも指示していないので、手持ちぶさただろう。そう思いながらドアを開ける。

 すると、カシャカシャカシャ、と音がするではないか。見ると、幸久がボウルでなにかを泡立てている。


「ゆっ、幸久くん……?」


 おそるおそる近づくと、ボウルの中には。ふんわりとした霧の塊――雲クリームが入っていた。


「こっ、これっ、雲クリーム」


「ああ、シェフが戻るの遅かったんで――」


 その瞬間、蒼衣ははたと気付く。ドアから、店頭側の温かい風が流れてきたことに。

 ――雲クリームは温度変化に弱い。または、急激な温度変化で、簡単に状態が変わってしまうのだ。

 泡立てている間は、温度変化があってはいけない。あたたかな空気が触れてしまった瞬間、すなわち……。


「危ないっ!」


 勢いよく幸久を押し倒す。「なにをっ」と叫ぶ彼を押しつけると。

 程なくして、ぼふん!! と大きな音が起こり、辺り一面が白いもやにつつまれた。

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