自由の夢を描くペン・エクレア2

『携帯にかけたって蒼衣くんは気付かないだろうし、閉店後だけど居るかな~って。せっかくの一周年なのに、行けなくてごめんねえ、こっちが忙しいのと、ちょっと夏の暑さがしんどくて。今日、どうだった?』


「いえいえ、ありがとうございます。覚えていてくださって。ありがたいことに、連日賑わってて、目が回りました」


『そっかそっか……無事に一年お店やれて本当によかったね。でも、油断しちゃだめよ。これからが本番みたいなものなんだから』


「ハ、ハイ……」


 静かだが、実感のこもった声に、蒼衣の返事も固くなる。


『あははは、怖がらせちゃった。じゃあ、ついでにもっと怖がらせとこ。今月末、休暇を取るから、名古屋に行こうと思うのよ。そのとき、お店に伺おうかな~って考えてるの』


「ウチにですか?」


『そ。だから、そのときまでに……新しい魔法菓子、一つ考えておいてくれる?」


 まるで取り置きのお菓子を一つお願い、といわんばかりの気軽さで言い放たれた。


「――えっ!? あ、新しい、魔法菓子?!」


『師からかわいい弟子への課題よ、課題。そうだなあ、できればエクレアで、蒼衣くんらしい『味』のもの』


 楽しみねえ、と声を弾ませる師とは正反対に、まさか独立してからも課題を言いつけられるとは思っていなかった。しかも自分を表現する『味』と言われ、しどろもどろになっていると『あははは、やっぱ困るよねー』と、広江の声に更に楽しげな様子が増した。


『フフフ、あなたの思う、あなたの『味』をエクレアの魔法菓子で表現してみてくれないかなあと思ってね。あ、もう一つ。たぶん蒼衣くんはたくさん試作を作ると思うけど、あなたのお友達――店長さんの意見はなるべく聞かずに決めること』


「てんちょ……えっ!?」


 最後に付け加えられた条件に、思わず「な、なんで」と悲鳴のような声が出る。


『んー、それも課題。いろんなこと、いろんな声に耳を傾けてみて?』


 曖昧な師に困惑していると、再び含んだ笑い声が聞こえてくる。


『じゃあ楽しみにしてるわね。後片付けの時間をお邪魔しました。おやすみ……あ、最後にもう一つ』


「なんでしょう」


『ピロートって、まだ店長さんと二人きりなの? アルバイトの子とかいるの?』


「いえ、いないですよ」


『……そうなの』


 すると広江が息を飲んだような音が聞こえてくる。なぜ、と問いかける前に『ありがとう』と受話器から慌てた声が聞こえた。


『変なこときいてごめんなさい。改めて、お疲れ様。おやすみなさい。魔法菓子、楽しみにしてるわ』


「……オヤスミナサイ」


 最後の最後に念を押され、また声を固くしてしまった。


「おーい、蒼衣、誰から? って、顔青いぞ?! どうした?!」


 子機を持ったまま呆然とする蒼衣を八代が揺さぶる。なんとか持ち直して事情を説明すると「ははー、ほんとお師匠は蒼衣のことがかわいいんだな」とのんきに言うものだから、蒼衣としてはおもしろくない。


「でも、君に意見を求めるのを禁止されちゃったよ。いろんなこと、いろんなものに耳を傾けるって……曖昧だなあ、師匠も」


 うっかり不安をこぼしてしまう。

 自分を表現する「味」を作れという課題に加えて、「八代の意見を取り入れることの禁止」という制限を付けられてしまった。ここ一年、商品開発には必ず八代の意見を聞いていた蒼衣にとっては久しぶりのことだ。修業時代も、あくまで作っているのはお店のケーキであり、自分の味を出すという機会はなかなかない。


「ま、俺にはお師匠の言うこともなんとなくわかるけどな。がんばれよ、パティシエくん。これは自分で気付いてナンボの課題だぞ~」


 八代に肩を叩かれた蒼衣は、そんなあ、と悲鳴を上げた。



:::



 お店を舞台にした、八ページ漫画。

 火曜日の夜。早野はやの明美あけみは、学校で出された課題を思い出し、ベッドの上ではあ、とため息をつく。

 名古屋にある、デザイン・漫画系専門学校に入学して半年が過ぎた。期待と夢に胸を膨らませて足を踏み入れた漫画の世界。一から丁寧に教えてもらえたアナログの技術、知っているようで知らなかったプロットやネーム、コマ割り。レベルと意識の差はあれど、四六時中漫画やポップカルチャーの話ができるクラスメイトや先生。いろいろな技法を試したい、いろんな話を描きたい――夢中で書き続け、先生やクラスメートの薦めで編集部への持ち込みも、今年の夏に初めてしてしまった。

 最初こそ、まさに色鉛筆やマーカーのように鮮やかな日々だったが、ここ一ヶ月ほどは筆を洗った後の、濁った色のような気分だった。

 手元のスマートフォンでSNSのアイコンをタップし、通知を確認する。

 一ヶ月前にアップした女の子キャラのカラフルな一枚絵は、万単位のRTやいいねを貰っている。かたや、同日に上げた四ページ漫画は、いいねですら十を越えず、落差が激しかった。唯一、同じ学校の友人である田中が「オチのコマが驚いた。おもしろかったよ!」とコメントを付けてくれていたのだけが救いだ。彼はこまめに明美のアカウントをチェックし、絵の投稿があればいの一番で反応してくれる。


『絵は綺麗なんだけどねえ。お話がどうも、ぴんと来ない。お話を作れるようになってからかな、持ち込みは』


 夏休みに持ち込みをした際に言われた編集者の言葉が頭の中にじわりと浮かぶ。四十を過ぎたと思われる初老の編集者は、ページをめくるのも適当で、つまらさそうな態度だったのが余計にいやな記憶としてこびりついている。

 早野は、緻密な絵を描くことには長けていた。幼いころから親が通わせてくれた絵画教室に通っていたのも、効果があったのだろう。周りの「美大に行けばいいのに」の声を無視し、憧れたのは、漫画の世界だった。

 心をときめかせるモノクロの魔法。紙の中に、さまざまな人生と想いが詰まった宝石箱のような世界。

 それなのに、いざ自分が作ると、なぜつまらないものになってしまうのだろうか。

 なまじ絵が描けてしまうがまずいのだろうか。絵は評価されても、話がダメなのだと言われるばかりだった。


『絵はすごく綺麗だよ。でも、早野がどんなお話を描きたいのか、なかなかすぐに感じられないね。これ! ってものが感じられない』


 担任にはその後「無理に漫画の表現だけじゃなく、ほかの表現も見て、幅を広げてみたら」とアドバイスも受けた。が、今はなにも見る気も、やる気も起きない。

 事実、夏休みに持ち込みに行った後から、なにも描けない日々が続いていた。無理矢理終夏休みの課題は終わらせたが、担任からの評価はさんざんなものだった。

 不意に、部屋のドアがノックされる。明美、と名を呼ぶのは母だ。


「お母さんさっき魔法菓子買ってきたんだけど、食べる?」


「魔法菓子?」

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