プラネタリウムと蒼衣の空(2)

 咲希が来てから四日経った火曜。蒼衣は名古屋市内にある製菓材料専門会社『ロータス商会』社屋の一室にいた。

 学校の調理室のように複数の調理台が並び、壁際には食器や食材を入れる棚がある。部屋の一番奥には、大きめの調理台とホワイトボードが置かれ、そこには『夏期向け商品提案講習会』と書かれている。

 蒼衣は、事前に申し込みをしてあった、夏向け商品の講習会へ訪れていたのだった。

 有名店のシェフパティシエが招かれ、流行と技術が間近で見られる材料卸主催の講習会は、多くの職人にとって格好の学び場であり、情報交換会でもある。

 もっとも、蒼衣としては技術とアイディアの勉強のためがメインであり、同業他店の人間と『交流』するのは、苦手とするところではある。その点だけ言えば、八代と共に参加するのが一番いいのだが、唯一の休みである定休日に、一日引っ張り出すのは気が引けた。

 賑やかな中、蒼衣は調理台の一番後ろに、遠慮がちに座る。周りが親しげに話しているのを尻目に、肩身が狭い思いを抱きつつ、開催時間を待った。

 すると、蒼衣の隣にだれかが腰掛ける気配があった。なんでわざわざ自分の隣に、と思わず胡乱げに見上げると、視線が合ってしまった。

「あれ、おまえ……」

「あ……」

 蒼衣は顔を見た瞬間、それがパルフェ時代の先輩の一人だということに気づき、顔がこわばった。

 蒼衣よりも少し年上の男性で、髪の毛は脱色した金色。短髪だが、耳には派手にピアスが着いている。かすかにたばこの匂いがして、たばこを吸わない蒼衣は思わず顔をゆがめる。確か、山本という名だったはずだ。

「その童顔、見覚えがある……えっと、おまえの名前、なんだっけ? 俺は山本だよ、覚えてるか? あー、なんか、女っぽい名前だったような」

 冷笑を含んだ声音は、蒼衣の神経を逆なでした。

 すぐに感情を抑えた声で「天竺です」と短く答えた。下の名前では呼ばれたくない、と強く思った。

 山本は明らかに不満そうな顔をした。

「ああ、そうそう、天竺。名字も珍しかったんだっけ。しかし、おまえまだあそこにいるの? とっくに逃げたと思ってたわ」

 逃げたのはそっちじゃないか、と叫びたくなる気持ちをなんとかなだめて、蒼衣は「いえ、辞めました」とだけ言った。

 山本は蒼衣の答えに「だよな」と興味なさげに反応した後、今の自分が別の店でチーフになりそうなこと、不眠不休で働いてるかを勝手にしゃべり始めた。

 山本のいる店は、名古屋でもそこそこ大きな店だ。パルフェほどではないが、メディアや業界紙には、よく名前が挙がる有名店。

 つまりは、忙しいと嘆くように見せかけた自慢話である。蒼衣は聞いているフリをしてやり過ごそうとした。

「で、天竺は今どこの店にいるの」 

「僕は今、友人と店を経営しています」

「――は? え、つまり、独立してる? マジ?」

 澄ました顔でうなずく。鞄から名刺を取り出し「彩遊市にあります」と住所を指さした。

「……ふーん、あっそ」

 山本は明らかによそよそしくなり、口を閉ざした。形だけ差し出した名刺も、受け取ろうとする気配はない。

 自分の店を持つ、というのは、職人にとっては一種の出世のようなものだ。下に見ていたはずの後輩が自分の店を持っていた、という事実は、山本を黙らせるのには十分だったのだろう。

 蒼衣は、珍しく他人に対して、優越感を持ったことを自覚していた。しかし、正しくない方法で得た、後ろめたいものであることは、あえて無視をした。



 開始時間になっても、ロータス商会の社員が慌ただしくしていることに首をひねっていると、やっとアナウンスが入った。

「申し訳ありません、加藤先生が急病により、本日の講師はこの方に変わりました」

 調理室に現れた人物を見て、蒼衣の顔から血の気が引いた。

 厳つい角刈りの頭で腕組みをする、いつも不機嫌な顔の壮年男性。

「ご紹介いたします『パティスリーパルフェ』のオーナーシェフ、五村ごむらさんです」

 会場がざわめきたつ。ほどなくして「鬼の五村かよ」という言葉が聞こえてきた。それは、体育会系の厳しさ、激しさ故についた業界内で五村をさすあだ名だ。

 すると、五村が蒼衣のほうに向かってあごをしゃくり上げた。

「文句があるなら今すぐ出てけ!」

 山本がヒッ、と悲鳴と共に立ち上がり、直立不動になった。先ほどの「鬼の五村」発言は、彼だからだ。

「フン、ウチの店を出てった軟弱ものか」

 吐き捨てられた言葉に、山本は背中を丸めて、居心地が悪そうに着席する。

 五村の怒声に、蒼衣は腕をさする。昔、激高した五村に鍋やホイッパーを投げつけられた箇所が、痛んだ気がしたからだ。

 今すぐ出て行こうか否か、悩み始める。しかし、ここへはお店の金で出ている。勉強したいと思ったのは自分だ。

 そして、なによりも、五村を見たときから、もう一人の自分が「もしかして」と甘い期待を抱いていることに、蒼衣は気づいていた。

 自分より先に逃げ出した先輩よりも、先に店を持てた自分。

 ――今の自分なら、五村に認めてもらえるかもしれない。

 過去の恐怖をも覆い隠すほどの得体の知れない自信が、蒼衣の心の中に膨らんでいた。



 五村の手元が、天井からつり下げられたモニター画面にアップで映し出された。手早く作り上げられていく生地、無駄のない動き。生地焼成の間に作られていくクリーム。

 鬼の五村と呼ばれるのは、性格の激しさだけではない。菓子作りへのこだわりと追求の苛烈さも表しているのだ。作り出すのは、大胆と繊細さを兼ね備えた、一級品のフランス菓子。

 やがて、画面で見るだけでは耐えられなくなった一人が、作業台の近くに寄っていった。五村が拒む様子がないのがわかると、大半の参加者が同じ行動をし始めた。蒼衣もおそるおそる立ち上がり、人だかりの隙間からのぞき見る。

 スパイスの香りが利いたスペキュロス生地のクランブルをタルトのように固め、その上にホワイトチョコレートのムースを流し入れる。

 その中にオレンジや梨などのピューレで作られたジュレを入れ、軽めのクレーム・シャンティイホイップクリームで被う。

 周りにビターなガナッシュを絞り、一口大にカットしたオレンジ果肉を飾る。

 五村の創作フランス菓子『タルトレット・ソレイユ』ができあがった。



 試食の時間。久々に口にする五村の菓子に、蒼衣の手が震えた。

 チョコレートのムースの甘さと口溶け、ジュレのみずみずしさと、スペキュロス・クランブルのざくざくとした食感。シャンティイ、フレッシュフルーツ、スパイス、三つの風味のバランスは絶妙。飾り付けのバランスも美しい。

 まさに食べる宝石の異名を持つ、五村の菓子だった。

 五村を盗み見ると、室内を歩き回り、眼光鋭く反応を伺っている。十年前と変わらぬ姿勢に、否応なしに背筋が伸びた。

 ふと、五村と目があった。

 ――気づいた。意を決して、席を立った。

「十年前にお世話になった、天竺です」

 声がかすれ、手が震えた。

 しかし五村は、かすかに眉をひそめただけだった。

「今は、魔法菓子の職人をやっています」

 自分が取り繕うような、ひどく情けない表情をしているのだろうとは思っていたが、すでにどうすることもできなかった。

「魔法菓子?」

 五村の目じりがぴくりとけいれんするのが見えた。そして、鼻先で笑う。

「ハッ、いかがわしい魔力とやらに頼る、たわけたアレか。くだらんな。あんな味のしない、食べ物というのもおこがましいものを」

 吐き捨てるように言って、五村は蒼衣から離れた。

 静寂が訪れ、場の空気が一気に冷えるのがわかった。蒼衣は突然の否定に、どう言葉を返していいのか、どんな顔をすればいいのかもわからず、その場に立ち尽くす。

 やがて、他の参加者から「魔法菓子?」「なんでそんな店が?」という困惑する声が聞こえてきた。

「魔法菓子? まさか店って……普通の職人になれなかったから、そんなアコギな商売に手ぇ出したのか。ハハ、よくも職人面してここに来たもんだ、なあ!」

 先ほどの萎縮具合から打って変わった、嫌になるほど強気な山本の言葉が、蒼衣にとどめを刺した。



 講習会が終わる前に黙って部屋を出ると、顔見知りの営業が追いかけてきた。しかし蒼衣は力なく笑みを浮かべて「失礼します」とだけ言って、社屋を後にした。

 彼は、普通の製菓材料を取り扱う会社に勤務しているが、魔法菓子に興味があるひとで、ピロートとの取引も好意的に受け止めてくれていた。

 まさか、講師が急遽変更になり、それが自分と因縁のある相手だとは知るよしもないだろう。蒼衣も、五村が魔法菓子に対して否定的なことや、さらに他の職人らも同じように思っていたことは、今日初めて知ったくらいだった。

 いや、初めて知ったというのは嘘になる。魔法菓子の世間的なイメージは、自分たちが思っているほど、いいものではないことを、蒼衣はすっかり忘れていたのだ。

 食品業界では、魔法菓子の華美な部分だけが一人歩きしていると聞いたことがあった。実際、一昔前は見栄えを重視するあまり、味は二の次が当たり前だったらしい。魔力、という目に見えない力があれば、たいした技術がなくとも作れる、というイメージも蔓延している。

 さらに、過去には知識不足からや、逆に華美と奇抜さを求めるあまり、魔力由来での事故や不祥事も起きている。自治体に存在する魔法菓子条例は、それが原因で作られたものだ。

 本当のところ、組み合わせや含有率の調整など、それなりに難しい面はある。そもそもベースになる製菓技術や知識もある程度なければ、商品どころか『食品』にすらならない。

 しかし、魔法菓子職人になるには魔力を感じ、扱える人間に限られている。魔力を感じられなければ、どれだけ知識があっても、魔力含有食材を扱うことが不可能だからだ。

 魔力を感じられる人間の『感性』にゆだねられる、曖昧模糊としたブラックボックスの世界。製菓のせの字も知らなかった素人が、瞬く間に『魔法使い』になれる奇跡――と、思われている。

 努力と経験を重んじる五村のような職人には、煩わしい存在だろう。

 駅に向かう途中、ぽつり、ぽつりと頭を叩くのは、冷たい雨だった。やがて本降りになり、傘を持ち合わせない蒼衣は、あっという間にびしょ濡れになる。

 自分の見ている世界と違うひとの群れにいるのは、息苦しい。

 湿気で張り付いてくる長い髪。それを、初めて心からうっとうしいと思った。

 


 蒼衣が戻ってきたのは、定休日の静まりかえったピロートの厨房だった。

 低くうなる冷蔵庫の駆動音、書きかけの工程表、常に残り続ける、甘い香り。

 そして、かすかに辺りを漂う魔力の気配。

 九年前、自分をよみがえらせてくれた魔法菓子。八代やいろんなお客が受け入れてくれたはずの魔法菓子。

 自分を支えてくれたもののそばにいるはずなのに、いっこうに心は落ち着かない。

 そしてついに、蒼衣は声も出さずに泣き出した。何年も見ないふりをしていた、自分の中の暗い感情が、大きな魔物の形をして現れる。

 魔物は、口を開けて「見ろ」と叫んでいるようだった。

 膨れ上がった自己愛と虚栄心がぐちゃぐちゃにつぶれて腐った中身――本当の自分を見ろと、泣きながら叫んでいた。

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