第3話~暗黒の宮殿~

 松明の揺らめく炎の輝きは、扉の先の闇を切り裂いて空間の全容を照らし出す。


「……!」


 顔を上げて周囲を見渡した男は驚愕した。


 その空間は男の想像を超えて広大だった。天井は陵墓の高さに匹敵し、面積も小さな町が丸々と入ってしまうほどだ。


 さらには扉を開く前では聞こえなかった、滝が流れるような水の音が男の鼓膜を打ってくる。


 男が立つ通路は空間の中央で一直線に伸びている石の橋だ。


 左右に道や足場は無く、橋の下には深い闇が広がっているばかりで、落ちれば命は助からないだろう。


 滝の音は四方から聞こえているため、にわかには信じがたいことだが、古代人が開拓した潤沢な水路がこの空間に設けられているに違いない。


 その流れる水がたまっていく気配はない。滝の水は橋の下にたどり着いた後、また何らかの水路を経て、さらなる深淵へ流れ着くのかもしれない。


 そして最も信じがたいのは、この地下空間のあらゆる壁に禍々しい壁画が描かれ、また精巧かつ生々しい巨大な怪物の石像が、規則性を持って空間の至るところに建立されていることだ。


 その邪悪さを一言で表すことは不可能だ。それは過酷な旅を経験した男の神経すら容易に蝕む。


 右の壁には章魚タコに似た頭部を持つ巨竜が描かれ、荒々しいかぎ爪と幾百の触手で人々を海へと引きずり込み、無力な人間は海に向かって嘆き拝む。


 正面の壁は顔が真っ黒に塗り潰された二本足の怪物の壁画で、怪物は陵墓の影に隠れた月に向かって吼え、その頭頂部から伸びた一本の触手は、輝かしい太陽を握り潰している。


 左の壁画は、天空から舞い降りた、歪んだ宝玉の集合体に人々が祈りを捧げている。その宝玉のような何かに近づいた人間の体は、触手を生やした醜悪な生物に成り果てている。


 それらの異端の壁画の出来映えは恐ろしいほどの迫真性を訴え、これを描いた者たちが抱いた、狂いきった信仰心の息づかいが感じられる。


 さらに異形の石像については直接的な恐怖が刺激される。


 両腕を広げて牙を剥く醜悪な魚人の石像、章魚タコの頭をした巨竜人の石像、数多の触手に覆われた人間の石像……そして先ほどの扉の紋様にあったクサリヘビのような蛇竜の石像も、男が立つ橋の左右に列を作って並んでいる。


 これほどの規模を誇る神殿は世界でも類を見ないだろう。


 この陵墓自体が歴史の闇に隠された忌むべきものだが、これらの異形の神々を崇拝していた古代エジプト人の熱意は、まさに政治や文化を変えるほどの激しいものだったと伺える。


 そしてその元凶は今もどこかに潜んでいるのだ。


 男は正面の壁に描かれている怪物の絵を睨んだ。感情をあまり表に出さない男が見せた、強い怒りだった。


「月に吼える魔獣……」


 旅人の男はその怪物の正体をわずかに知っている。


 この男はすでに滅んだ東の王国で生まれたが、その生涯は波乱に満ちている。


 幼いときから旅を続けて大陸諸国を渡り続け、災害や戦争も経験してきた。旅を始めて何十年経ったか男自身の記憶も正確ではない。


 そのような過酷な旅の途中で偶然出会った、とある「予言者」が壁画の魔獣のことについて言及していたのだ。


 曰く、それは神々の代弁者である。人の血肉を貪り、魂を辱め、やがては破滅をもたらす邪神の意思を汲んで、あらゆる地で暗躍する使者だと。


 そして、その使者には顔がない。決まった姿を持たず、性別も、種属も、全く不確かな存在なのだとヴードゥーの予言者は語っていた。


 だが男は予言者に話を聞く以前から、その使者のことを知っていた。


 数々の怪異に見舞われて四苦八苦した旅の途中で、その使者の気まぐれな悪意が怪異の根源なのだと感づいていたのだ。


 かの使者は冷酷残忍を極め、もしも人間と同じような唇があったなら、その唇の端を喜悦に歪ませ、人の不幸を眺めて微笑む卑劣さを持っている。


 顔を隅から隅まで塗り潰された怪物の絵画は、その残酷な無貌の使者と深く関連があるに違いない。


 男は蛇竜を模した石像が左右に並ぶ石橋を渡り、その正面にある顔の無い怪物の壁画に向かっていく。


 絡みつくような邪気が空気を重くさせている。


 背筋が凍るのは気のせいではなく、この巨大な万魔殿に祀られた邪神たちの威光が、今もなお男の精神を締めつけるのだ。


 橋を渡りきると顔のない怪物の壁画が立ちはだかり、男の進路はここで途切れていた。


 橋の途中に分かれ道や他の足場はなかった。


 この大空間に点在する石像と壁画を、たいした橋も台も足場も使わずこしらえた古代人の技術も気になるところだが、男にとって最も重要なことは、次に進む道を見つけることだ。


 どこかに隠された道があるに違いない。そもそもこの神殿自体が、歴史から秘匿されたものなのだ。


 この邪悪な崇拝が蔓延していた時代の王の権勢は凄まじいもので、人肉屍食も横行していたほどだったが、暴虐の王政は長く続かず、ついには反乱が勃発して暗黒王朝は崩壊したという。


 つまりこの神殿は邪な信徒たちの最後の隠れ家であり、尋常の方法では奥へ辿り着けない構造になっているはずだ。


 もう一度、男は自分が歩んできた橋を注意深く観察した。


 橋の左右に落下を防止する柵や壁はなく、橋の下を覗いても、はるか下で黒く深い水が流れている。


 蛇竜の石造は橋を挟んで左右にそれぞれ20体並んでいる。


 男はその石像に目をつけた。石像の一部に縄をくくりつけ、縄が届く限りまでなら、橋の下まで降りて探索できる。


 もしかすれば縄が伸びきる手前で、水面に到着するかもしれない。


 背負っていた袋から縄を取り出し、輪を結んでから蛇竜の石像へ投げつける。輪は狙い通り蛇竜の首に引っかかった。


 2度、男は縄を強く引いて首の強度を確かめてから、このまま体重をかけて降りても大丈夫だと判断した。


 蛇竜の石像に脚をかけながら男は慎重に降りていく。いくら下を覗いても真っ黒な闇ばかり広がっていて、水底には異形の下僕が潜んでいる可能性がある。


 今この瞬間にも、水面から魔手を伸ばして男の脚につかみかかることもあり得る。


 綱をつかんで降りていくほど、恐怖は増していく。


 この陵墓の中は一種の異界であり、どんな怪物が潜んでいても不思議ではない。男の手の中で汗がにじみ、綱をつかむ自分の手すら頼りないものに見えてくる。再び男は綱を握り直して、石像の下へ降りていった。


 綱が届く限界まで降りると、ちょうど橋の真下に別の橋を発見した。


 その橋はこの空間の至る所へいけるように複雑に分岐しているが、黒ずんだ石で造られていて、上から見ただけでは、この橋の存在を認識できないだろう。


 水面に近いせいかぬらぬらと濡れているが、そうそう崩れるものではないと男は判断し、橋へ軽々と飛び移った。


 橋に着地した男は酷い悪臭を感じた。


 原因は橋を濡らしている何かだ。見た限りではただの水だと思っていたが、異常なまでに粘つき、すえた生臭さが漂う。


 ついさっきまで怪物の寝床だったのかと思えるほど、この橋は不気味で不潔な粘液を帯びている。


 フードの奥で男は顔をしかめる。臭いだけなら平気だったが、この不可解な粘液質の何かがあるということは、すぐ近くに悪辣な生命体が存在していたということなのだ。


 危険はさらに大きくなったが、男は勇気を持って橋を進み始めた。


 上にあった橋と違い、今歩いている橋は空間の至るところへ分岐している。そして、すぐ下は水面となっていて、この空間の最下層にある唯一の連絡通路だと考えられる。


 古代の邪教徒たちが、どのようにしてこの最下層の橋にたどり着いて利用していたか知らないが、この隠された連絡橋を発見したということは、男の目指すものもいよいよ目前に違いない。


 まるで迷路のごとく通路は分岐しているが、長い年月を経たせいで破損している部分が多い。通行できる通路の先だけを探索していけば、そう長い時間をかけずに最深部へ到達できるだろう。


 不明な粘液で覆われた連絡通路を進む。


 口元に巻いていた布を鼻先まで引き上げて、悪臭を我慢し、うかつに足を滑らせて落下しないように足下へ注意を払う。


 神殿内に流れる滝の音は相変わらず激しく、凄まじい量の水が流れ込んできているのが分かる。


 なんらかの排水路があるおかげで、神殿内が水で満ちることはないのだろうが、それでもいつ水位が上がるかと男が気に病むのも無理はない。


 時折、通路の脇にある様々な邪神像のそばを歩く。邪神像の足下も細かな装飾が施されている。


 大抵の装飾は禍々しい触手や不気味な幽鬼の顔が彫られていて、中には苦悶を浮かべる人間を踏みつけている石像もある。


 それらの彫刻の保存状態はきわめて良好で、通路の劣化とは比べ物にならない。


 長らく人の手が入っていない場所で、このように劣化の差異があるということは、これらの邪悪な怪物を模した石像にも邪神の魂が宿ったゆえの必然か、それとも石像を創り上げた信徒たちの歪んだ崇拝の感情による奇跡なのか。


 男が下層の通路を見つけてから一時間経った。


 最終的に男が辿り着いたのは、神殿の入り口から遠く離れた、神殿内北西の壁画の前だった。


 その壁画は他の壁画と比べて異質だった。


 描かれた絵は当然ながら異教の邪神といえるものだが、それは怪物じみた姿ではなく、抽象的な輪郭をした輝く天体だ。


 恒星のごとく輝く天体は完全な円形ではない。


 強い熱量を表して描かれているものの、その輪郭は歪み、ねじれ、身もだえしながら踊り狂っているように見える。


 異質な点はもう一つある。


 その踊る天体の周囲に人々は描かれていない。他の壁画は何らかの民や信徒が喰われ、拝み、おぞましい支配者の威光にひれ伏している。


 しかしその天体のそばには、あの顔のない破滅の使者が控えているだけだ。


 ただの神官では、そこらの神性では、謁見することすら不可能な存在なのだろうか。


 あらゆる偽りの顔を持つ無貌の使者が、その輝く「何か」に対して遠慮を抱き、まるで側仕えする従者のように描かれているのだ。


 これまで幾度となく怪異に触れて旅をしてきた男といえども、最も不可解としか見れない絵が目の前にある。


 ゆえにこの壁画の先こそ、この神殿のさらなる深奥へ行く道なのだろう。ましてや他に探索できる箇所もない。


 男は懐から蛇のようにうねったナイフを取り出す。


 そのナイフの刃には東方の破戒僧が刻んだ呪印があり、その呪印の効力を帯びたナイフは、男が所有する道具の中で最も恐ろしい魔力を秘めている。


 意を決して男は壁画にナイフを突き立てた。刃は冷たく硬い石壁に沈み、カタカタとした奇怪な振動が男の手に伝わる。


 やがて振動が収まると男はナイフを引き抜いた。


 ナイフの刃はタールのように溶け落ちていたが、石壁も突いた穴を中心にして、放射状にひび割れていく。


 ついに壁は崩れた。男の目の前には新たな道が現れた。人間一人だけしか通ることができない、細く暗い隠し通路だった。


 キュウゥゥーーーゥ……


 そして通路の奥から虫が唸るような音が微かに響く。


「ようやく……これで……」


 目深に被ったフードの中の瞼がすぼむ。

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