第2話~古代エジプトの陵墓~

 旅人の男が目にした陵墓の壁面は、長い年月の間に風に晒されたせいで灰色にくすんでいる。


 陵墓の頂上には細い三日月が重なっている。まるで巨大な台座と宝剣のようだが、月の寂しげな輝きは、広大な砂漠の中心に取り残された陵墓の孤独さを、より一層引き立たせる。それは宝剣といえども、持ち主から打ち捨てられた剣に似ていた。


 陵墓の壁は月の光を浴びて、その陰影をはっきりさせている。光を受けている側は陵墓の粗い外面が見えるが、影の部分は黒い布で覆ったように真っ暗だ。


 旅人の男が前へ進むにつれて、砂丘の稜線はなだらかな下り坂になり、地面は固さを増して平坦になった。


 陵墓の周辺は古代人の手によって、いくらかの整地がされていたようだ。風に流されていく砂の下には、確かな石畳の感触がある。


 間近まで陵墓に迫った男が見上げると、天まで届くのではと思わせるような陵墓が、黒々とした暗黒の塔に見えた。


 砂嵐で陵墓の輪郭は見え隠れしているので、見ようによってはあぐらをかいて居眠る巨人にも見える。


 この砂漠の中心は、ある意味で孤独で空虚な巨大空間だ。


 並の者ならばこの寒さと孤独に耐えられず、世界中の人間は全て消え去り、生命息づく地は失われ、すでに地上には自分だけなのではと思ってしまうに違いない。


 それでも男は、恐怖も、孤独も無視して陵墓を目指す。長き旅路を進んできた男の全ての目的は、この陵墓に集結している。


 かつてのエジプト王国の果ての砂漠に眠る秘密、それこそが、東の地から訪れたこの男が求めたものなのだ。


 陵墓の壁には年月を経た粗さがあるものの、人が通る出入口らしきものはない。


 通説でも王族の陵墓の奥は貴重な宝を封じられているという。陵墓の建造を手がけた古代人が、わざわざ後世の人間に盗掘されるために、通用穴を開けるはずがない。


 つまり壁という壁は全て塞がれていて、遠目でもその事実が確認できた男は、階段状になっている壁面を登り始めた。四角錐に形作られている陵墓を登ることは、そこまで難しいことではない。


 しかし今夜は冷気を帯びた砂塵の烈風が吹き、おぼろげな月光の他には、まったくく光がない夜闇だ。


 いくら階段状になっているといえども、上がれば上がるほど、足を踏み外す危険は増える。男は指先で石段が脆くなっていないか確かめつつ、着実に壁を登っていく。風で外套が激しくはためいていて、わずかでも力を緩めれば、強風に煽られて転げ落ちるだろう。


 やがて男は陵墓の中腹まで登り、そこからは左へ左へとすり足で移動する。石段にしがみついたまま体を横に移動させ、それと同時に、手先で何かを探っている。


 フードの奥にある眼は見開いていて、意識を集中させて壁面を観察している。


 壁面にとりついた状態で左に進んでいった男は、月の光が届かない北側の壁で、移動を止めた。その場所は影になっているのでとても暗く、目を凝らさなければ自分の指すら見えない。


 そこで男は懐から丸い石皿を取り出した。


 石の皿の底には星のような形をした紋様が、不気味な赤黒い線で描かれている。星の紋様の中心には目玉を模した絵が据えられている。


「……」


 何重もの布に覆われた口の中で、男は静かに文言を唱え始めた。


 それは北方の国々が使うラテン語でもなく、彼の故郷であるアラビア世界の言語でもない。忍ぶように紡がれるその綴りと発音は、今ある文明が持つ俗物的な風味が一切感じられない。


 すでに失われたであろう文化が持っていた、超常した存在を讃えるような言語だ。


 静謐な祈りの言葉が届いたのか、男の手の中にあった石の皿が細かく震え始めた。皿の底に描かれた赤い紋章も、震えに共鳴して熱を帯びていき、ついには爛々とした紅の閃光を放った。


 光った石の皿を壁面に押しつける。


 陵墓の壁はあらゆるものを拒絶する冷たい四方石の集合体だが、その赤い光線に照らされた途端に、一部の石段が崩れていった。


 神秘の力に当てられたためか、石のひとつひとつの粒子が不自然に分離して、まるで役目を終えたかのごとく砂の山に変わり果てた。


 崩れた石段の空いた部分を覗けば、そこは陵墓の内部に通じる抜け穴になっていた。お世辞にも立派な出入口とは言えないが、人間一人が通るには充分な大きさだ。


 男は暗闇に目を凝らした。細く長い穴が伸びていて、肉眼では底が見えない。


 不思議なことに穴から外気を吸い込む音が一切聞こえない。砂粒を含んだ強風が吹いているにも関わらず、穴の中は完全な沈黙を貫いている。


 それはこの穴から先が、この場所とは異なった次元に通じていることを示している。


 肩にかけていた旅の荷物を下ろすと、男はそれを自分の腕の中で抱えた。穴はひどく細いので、背中に荷物があれば引っかかってしまう。


 穴は真下に伸びているように見えて、斜めに傾斜している。落下して大怪我する危険は少ないのは幸いだが、もしも途中で引っかかってしまえば、穴の中で飢え死ぬしかなくなる。


 男は念入りに荷物を胴体に括りつけた。外套の裾も腰元で結んで、無駄にバタつかないようにしておいた。


 心身の準備はこれにて整った。あとは己が目指した深淵に飛び込むだけだ。


 一度だけ顔を上げて、男は夜空を見納めた。


 凍りつくような空気は恐ろしいが、その冷気は夜空の輝きを際立たせる。


 荒れ狂う砂塵のはるか上を見つめると、極上のラピスラズリも比べ物にならない星空が広がっている。


 深青色の天空のドームはどこまでも深く、散りばめられた銀砂の星々で生まれた天の川が、無数の方角へ分かれて浮かぶ。


 これが現世の見納めなのだ。胸の内で男がそう呟いた。


 意を決して右足を闇の中に入れた途端、吸い込まれるような感覚を味わった。足の先にべったりとした何かがまとわりつき、男の体を奥へ奥へと導いていく。


 体全体を穴の中に沈めると、明らかに外と違う空気が漂っていると分かる。


 急勾配を降る男の体は深淵の中心へ吸い込まれ続け、やがて穴の出口に放り出された。体は勢いよく穴の先の広場に転がったが、男は素早く受け身をとったので、衝撃で骨が砕けることは無かった。


 男が降った先も漆黒の空気が広がり、自分の鼻先すら見えない暗黒となっていた。


 男は腹に括った荷物を下ろして、その袋から松明を取り出した。火付け道具を擦って火種を松明に移すと、油紙を巻いた松明が煌々とした灯りを発した。


 穴を滑り降りた先は直線の廊下となっていた。


 廊下の幅は人間5人分といったところで、小さな荷車程度ならすれ違える広さだ。天井の高さは男が片腕を伸ばせば、指先の爪がわずかに天井に触れるほどだ。


 この廊下はかなりの距離まで伸びているようで、穴を降った時間から察するに、この場所は陵墓のはるか地下に位置するのだろう。


 廊下の石壁は炎の灯りでほのかに白く見える。


 天井も床も強固な石が敷きつめられているため、現在の王宮の地下回廊と劣らない建築技術を用いて造られた場所だと推測できる。この秘匿された階層を造った古代人の文明は、男が考えていたものよりも進んでいたようだ。


 灯りを手にした男は真っ直ぐ先に伸びている暗闇の一本道を、慎重な足取りで進み始めた。音こそ男の靴音しか響かないが、周囲から押し寄せる闇の圧迫感は、男の鋭敏な警戒心を刺激する。


 しばらく廊下を進むと下り階段が見えてきた。


 階段の勾配は緩やかだが、これもまた長い階段であるため、降りきった先は確認できない。


 男は自分が巨大な怪物の口腔の奥へ進んでいく、か細い獲物になった感覚を味わった。長い階段を降りていくにつれて、周りに漂う空気の重さが増してきた。それと同時に、男のことを忌み嫌うかのごとく、わずかに空気が振動する。


 やはり、と男は思った。


 この先には人が目にしてはいけない領域が広がっているのだ。


 実際に亡霊や悪魔が現れたわけでも、声を聞いたわけでもないが、この得体の知れない圧迫感は尋常の世界にはない。むしろ本物の亡霊を目の当たりにするよりも、この空気の方がより寒々しく感じられ、肌も根源的な恐怖により粟立ってくる。


 階段を降りきると扉に突き当たった。中央に薄らと線が入っている石の門だ。


 門には古代人が刻んだ紋様が左右対称に刻まれ、門の構造は左右に横開きになるようだと分かる。


 男は門に刻まれた紋章をじっくりと見た。


 何かの植物をモチーフにしたものなのか、様々な曲線が折り混じって形作られた茎と、その傍らから生まれる若葉が数枚見える。


 だが、単に植物を模した紋章ではないのも確かだ。一見すると生い茂った植物の集合体に思える紋章も、細部に目を凝らせば、何匹ものクサリヘビが植物の一部となっている。


 ヘビ同士が複雑に絡み合って植物を作り出し、本能のまま喰い合いながらまぐわっている。


 フードの奥で男の眉が険しく中央に寄る。瞳は嫌悪と恐怖を抱いている。


 男がこの紋章を見る限り、この石門の先には古代人が秘匿した邪な教えの拠点が、今なお存在しているに違いないと考えた。その教えは世俗の者が耳にして耐え切れるものではなく、この世の中では忌むべき冒涜的な知識だ。


 腰に下げていた小袋から特殊な石灰を固めた棒を取り出すと、男は扉の紋様の上に、新たな紋様を描き始めた。


 扉を封じている邪悪な効力を真っ向から上書きして、自分の望む進路を拓くためだ。


「……」


 またも男は奇妙な文言を唱えた。


 その言葉に込められた祈りが男の描いた魔法陣に共鳴し、閉ざされていた石の扉に段々と亀裂が走る。クサリヘビを模した不浄な紋様が震えて崩れていき、まるで焼きごてを当てられた受刑者のように苦しんでいるようだ。


 扉が完全に崩壊して砂が散らばると、扉の先に広がる闇の中から、烈風が襲いかかって、足元の砂を巻き上げた。


 咄嗟に腕を上げて男は砂から顔を守った。


 この闇の先にある何かが、男の侵入を嫌っているのだろう。


 砂が散っていった後でさらに気を引き締め直して、男は松明の光を掲げて闇の空間に侵入した。

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