其ノ四拾五 ~鬼狩ノ夜 其ノ九~
一月は後方を見やり、世莉樺と炬白の様子を確認する。彼の持つ天庭には既に千芹が宿り直し、青い光が美しく纏っていた。
「……」
無言のまま、遠方に居る世莉樺に向く。彼女が頷き、一月も頷き返した。
既に、作戦は頭の中に入っている。一月と千芹が瑠唯に向かって行き、そして炬白と世莉樺がその隙を突く。
それが、世莉樺達が立てた瑠唯を救い出す策だった。
「行こう」
一月は天庭に、千芹に呟く。
正直な所、本当に瑠唯を救えるかは定かでは無い。
炬白が世莉樺を送り出した後、彼女がどう働くか――瑠唯を救い出せるか否か、それは世莉樺にかかっているのだ。
《うん……》
千芹の声を受けると、一月は体育館の床を蹴った。溜まり込んだ木屑と埃が舞い散る、一月は一直線に瑠唯に向かって走って行く。
世莉樺と炬白も密かに、その背中を追っていた。
《う、ああああはははははははああああ!》
瑠唯の声は最早、聴くに堪えない不協和音と化していた。歓喜しているとも取れれば、逆に悶え苦しんでいるとも思える。笑い声を発する口は三日月のように裂け、瞳を欠かれた眼窩には、まるで吸い込まれるような暗闇が広がっていた。
(助けてあげたい……!)
天庭を片手に走りつつ、一月は思った。彼は世莉樺と違い、瑠唯との直接的な関わりは無い。しかし、それでも一月には分かる。鬼と化した彼女は、救いを求めているのだ。
恐ろしさの陰に、悲しさが滲み出ている。そう感じた。
《ああっはっはははははははは!》
ゲラゲラと笑う瑠唯の表情は、出来損ないの面のように歪んでいた。蛇が蜷局を巻くように黒霧が巻き上がり、一月に向かって飛んで来る。
「!」
一月は躊躇う。
彼に差し向けられた黒霧は、回避するにも、天庭で防ぐにも大き過ぎる。
《いつき、まよわないで。天庭を振って!》
「っ!?」
千芹に言われるまま、一月は半ば反射的に天庭を振り抜いた。その刃が、黒霧の先端部分に触れる寸前――。
《阿毘羅吽欠蘇婆訶!》
千芹の可憐な声と共に、天庭に纏っていた光が増幅する。清涼感に満ち満ちた、透き通るような青い光が、体育館を照らし出す。
天庭が黒霧に触れた。
その途端、一月を丸ごと包み込むほどの大きさだったそれが、跡形も無く消滅していく。
「おおおっ!」
一月は止まらない。
黒霧を消滅させ、勢いを弱める事も無く突進する。飛んで来る黒霧を天庭で造作も無く打ち払いながら、瑠唯との距離を詰めていく。
「だっ!」
間合いに踏み入ると同時に、一月は瑠唯に向けて天庭を突き出した。
しかし、その青い刃が瑠唯に触れる事は無い。瑠唯が避けた、のでは無かった。
《フフ、何処を狙っているの……?》
一月が、外したのだ。
空かさず黒霧が集まり、一月の腕に絡み付く。黒霧は天庭に触れる事は出来ないが、生身である一月には触れられるのだ。
だが、一月の表情に焦りは無い。恐怖も浮かばせず、黒霧に嫌悪感を示す事も無く、余りにも冷静に言った。
「僕は、君を傷つける気は無い」
彼の言葉を合図にするかのように、千芹が天庭と分離する。天庭から青い光が消え去り、代わりに白い和服姿の少女が現れた。
彼女は袂を探り、竹筒を取り出す。器用な指使いでその栓を外し、中の液体を瑠唯に向かって振りかけた。
《! 何、これ……霊水……?》
千芹が振りかけた液体を浴びた瑠唯、途端に彼女、そして黒霧が動きを止めた。
否、止められたのだ。
「じっとしていて、すこしだけ……!」
千芹の言葉が向けられた先は、『鬼』ではなく『瑠唯』だ。
彼女が瑠唯に向けて振りかけた液体は、霊水から作られた茶である。人の口に入れれば鬼の穢れを取り去る事も出来、そしてもう一つ、使い道があった。先程千芹がしたように鬼に向かって振りかければ、短時間ではあれど、その動きを完全に封じることが出来る。
千芹は竹筒に栓を嵌め、袂に戻した。
「世莉樺、炬白!」
一月が呼んだ時には、二人は既に側にまで迫っていた。千芹によって動きを止められた瑠唯には、抵抗する術は無い。
側を通り過ぎる間際、炬白はチャンスを作ってくれた千芹に感謝する。
「ありがとう千芹、助かったよ」
炬白は、その片手を瑠唯の額に置いた。後方を振り返り、彼は世莉樺へ片手を差し出した。
その手の平には、一頭のカササギユキシズク。
「姉ちゃんに協力してあげて、今からこの子を救いに行くんだ」
炬白の言葉を理解したのか――カササギユキシズクは炬白の手の平から離れ、ひらひらと舞う。
僅かに宙を舞った後、淡い光を持つ蝶は世莉樺の肩へと降りる。
「……!」
世莉樺は、自らの肩に舞い降りた蝶を、『月光蝶』の異名を持つカササギユキシズクを見つめる。暗い体育館の中、蝶が放つ白い光が神秘的に、そして神々しく辺りを照らしていた。
「あなたも……瑠唯ちゃんを助けたいの?」
世莉樺が知っている限り、蝶は人が近づけば逃げて行ってしまうものだ。しかし、カササギユキシズクは飛んでいく様子も無く、世莉樺の肩の上で羽を微かに動かしていた。まるで、意志を持って世莉樺に付き従っているようにも思えた。
「姉ちゃん、やるよ」
世莉樺は炬白を振り返り、頷いた。彼の言葉が何を意味するかは、説明されるまでも無い。
「うん!」
力強い返事をする。
炬白が世莉樺に向かって片手を伸ばし、世莉樺はその手を取る。精霊でも、人と変わらない温かみを帯びた手が、世莉樺の手を包んだ。
「姉ちゃん、瑠唯を救ってあげてね」
世莉樺は炬白と視線を合わせ、頷いた。
炬白は瑠唯の額に片手を触れたまま、呪文を唱え始める。数秒、呪文が止まったと思った瞬間、炬白は世莉樺の片手を引いた。
「!」
驚きを浮かべる世莉樺、炬白は瑠唯の額から手を放し、代わりに世莉樺の手を瑠唯の額へ触れさせる。
その時――。
「っ!?」
世莉樺の視界が、一瞬にして白い光で満たされる。
◎ ◎ ◎
気付いた時――私は、真っ暗な場所に居た。何処に視線を向けても、目に入るのは吸い込まれるような暗闇だけ。まるで空間そのものが存在しないかのようで、自分が今何に立っているのか、それすらも分からない。
「ここは……?」
きょろきょろと周りを見渡しつつ、私は思い出す。
そうだ……私は、鬼の魂の中に送られたのだ。瑠唯ちゃんを連れて帰る為に、悲しい目に遭ったあの子を助け出す為に。
右手に持っていた筈の天照が無い。
入り込む時に落したのか――否、そんな事はどうでも良い。とにかくあの子を、瑠唯ちゃんを助け出す事だけを、考えなくては……!
「あ……」
天照は無くなっていても、カササギユキシズクは肩に乗ったままだった。この蝶は、僅かも飛んで行ってしまう素振りを見せない。
淡く白色の光を放ちながら、カササギユキシズクが私に言った気がした。早く行こう、あの子を助けに行こう、と。
私は前を見据えて、暗いその場所を駆け出した。
そうしたら程なくして、その後ろ姿が視界に入る。
「瑠唯ちゃん……!」
小さくて悲しげな後ろ姿に、私は駆け寄った。近づく度に、その黄色いパーカーを着た背中が鮮明に映って来る。
暗闇の中に佇む瑠唯ちゃんは、返事をしなかった。
私は恐る恐る、もう一歩近づく。
「……来ないで」
すると、私に背を向けたまま――瑠唯ちゃんは発した。ちゃんと、耳に届く声だった。
「お願い、それ以上……私に近づかないで」
瑠唯ちゃんが、私に近づくのを拒む。
その時――私は気付いた。
「……!」
瑠唯ちゃんの足に、腕の先に――黒霧が絡み付いていたのだ。まるで瑠唯ちゃんをこの暗い場所に捕らえるように、留まらせているかのように。
私は、視線を彼女の後ろ姿へと戻す。顔は見えないのに、とても悲しそうに見えた。
「助けに来たんだよ」
瑠唯ちゃんに語りかけつつ、私は決意を新たにする。
そう、私はあの子を助けに来たのだ。瑠唯ちゃんは、帰らなくてはならない。あの子が居るべきは、こんな真っ暗な場所では無く、光のある世界なのだ。
少なくとも瑠唯ちゃんには、救われるだけのチャンスが残されていても良い筈だ。
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