其ノ四拾弐 ~鬼狩ノ夜 其ノ六~


 瑠唯ちゃんは、とても優しくて可愛い子だった。例え虫一匹の命ですら蔑ろにせず、本当に慈愛に満ちた女の子だったと思う。

 それなのに今、私の前に居る彼女は、


《お姉さん早く来てよ、お姉さんもてるてる坊主にしてあげるから……!》


 人の命をゴミのように弄ぶ存在に変わり、私の前に居る。

 あんなのは、瑠唯ちゃんじゃない。私が知っている瑠唯ちゃんは、もう何処にも居ない。

 居るのは、鬼だけだ。


「っ……」


 堪え切れない悔しさが、悲しさが、私の瞳に涙を浮かばせた。どうしてあの子が、あんな目に遭わなければならないのか。

 瑠唯ちゃんにあんな運命を辿らせた神様が赦せない、憎いとすら感じた。だけど、どれ程運命を呪おうと、神様を恨もうと――瑠唯ちゃんは帰って来ない、もう救い出せない。

 私がしてあげられる事は、一つだけ。以前私の下に現れた、本来の瑠唯ちゃんの人格が私に望んだ事を成し遂げる事。鬼に成ったあの子を、私の手で、この天照で止めてあげる事……!


「はああっ!」


 足に力を込め、私は体育館脇の足場を駆け出した。

 片手には、紫色の鮮やかな光を放つ天照。炬白と共に、彼の霊力が宿った霊刀だ。


《フフ、それっ!》


 まるでボールを投げて遊ぶ時のような、無邪気な声。

 だけど、私に向かって空を泳ぐように飛んで来るそれは、ボールみたいな生易しい物じゃない。

 瑠唯ちゃんが纏っている黒霧だ。


《姉ちゃん、来る》


 炬白に言われるまでも無く、私は一旦足を止め――天照を両手で構えていた。

 何時も剣道の練習をしているからだろうか、追い迫る危機を感じると無意識に体が動くような気がする。


「だあああ!」


 私は力の限りに、天照で黒霧を打ち払う。

 紫の光を宿した刃が触れた瞬間、紫色の火花が飛散し――黒霧は次第に霞んで消えていった。それを見届けようともせず、私は天照を握り直して再び駆け出す。

 これなら、いける。

 瑠唯ちゃんを止められる、悲劇の連鎖を断ち切れる、そして、真由を救い出せる……!

 再び私に向けて黒霧が幾つも飛んで来たけど、炬白が宿った天照を一振りすれば一撃で蹴散らせた。

 ものの数秒で、私は瑠唯ちゃんの側へと距離を詰めた。


《何で、止まらないの……?》


 瑠唯ちゃんが発したけど、私は意にも介さなかった。

 もうあなたに、私は止められない。気味の悪い黒霧など、天照で難なくかき消せるのだから。


「っ……」


 間近に見る、鬼と成った瑠唯ちゃんの顔。生気は消え去り、私が知っている瑠唯ちゃんの面影など欠片も無い。

 ――違う、この子はもう、瑠唯ちゃんでは無いのだ。自らの憎しみの捌け口として生きている人を喰らう、只の邪悪で悍ましい存在。それ以外の、何者でもない。


「はあああああッ!」


 そう自分に言い聞かせ、私は掛け声と共に瑠唯ちゃん――否、『鬼』を黒霧もろとも天照で両断した。

 巨大な紫の火花、同時に彼女を包んでいた黒霧が消え果て行く。同時に、彼女は後方へと吹き飛んだ。化け物が呻くような、耳を塞ぎたくなる声と共に。


《うぎあああああああああッ!》


 その声で改めて、私は認識する。

 彼女は――鬼だ、瑠唯ちゃんじゃない。瑠唯ちゃんを取り込んでその形を得ている、不浄な存在なのだ。

 消し去らなければならない、これまで殺された人たちの為にも、真由の為にも、何よりも瑠唯ちゃんの為にも。

 私は天照を片手に握り、倒れ込む鬼へと駆け寄る。


「もう誰も殺させない。あなたはここで、私の手で、終わらせる……!」


 鬼は、その身を足場に這いつくばらせて呻き声を発していた。

 もう私は、この鬼を瑠唯ちゃんと思うつもりは無い。認めたくなかったけど、ずっと分かっていた筈だ。

 私は、天照を振り上げた。

 その時――。


《痛い。痛いよ……》


 彼女が発した声に、私は天照を振り下ろそうとした手を止められる。その声は悍ましい鬼の声では無かった。

 普通の、女の子の声だったのだ。


《お姉さん、どうして私にこんな事するの……? 私、お姉さんの事大好きだったのに……》


「……!」


 私の脳裏に――生前の瑠唯ちゃんの泣き顔が蘇る。

 悲しみに沈んだ、可哀想なあの子が。


《結局お姉さんも同じなんだ……。私を虐めたクラスの子達と、私に酷い事を言ったお母さんと、私を殺した椰臣先生と……》


「っ……!」


 振り払った筈の迷いが、再び私を苛み始めた。

 天照を持つ手が震える。振り下ろせば、全て終わらせられるのに、真由を救えるのに……!


《姉ちゃん。耳を貸したら駄目だ、今の内に……!》


 切迫したような炬白の声は、その言葉にかき消された。


《大っ嫌い……皆大嫌い……》


 抑揚を欠いたような、冷淡な声色。

 次の瞬間、鬼の顔が――瑠唯ちゃんの頭がグリンと振り返り、私を見た。


「!」


 彼女の顔を見て――私は声を押し殺される。

 振り返った瑠唯ちゃんの顔には、目が無かった。まるで眼球を抜き取られたかのように、その眼窩がぽっかりと空洞になっているのが分かる。目があった筈のそこは真っ黒な穴で、吸い込まれるような闇のようだった。

 途端、彼女は狂ったような笑い声を発し始める。


《あは、あはっはははっはははははははっはは!》


 途端に、再び彼女の周りを黒霧が渦巻き始める。邪悪で悍ましい気配が、私の周囲を支配し始めた。


「!」


 瞬間、私は全身に生暖かい物が絡み付いて来る感覚を覚えた。

 天照を振る間も無く、私は黒霧に捕らえられ、背中から足場の床に打ち付けられる。


「あっ!」


 直ぐに起き上がろうとして、体の自由を奪われている事に気が付いた。私の体中に黒霧が絡み付き――両手両足が動かなくなっている。

 右腕の延長線上に、天照が落ちていた。倒れた拍子に、落してしまったのだろう。


《姉ちゃ、ぐっ……!》


 炬白の苦しげな声が聞こえ、私は床に伏したまま応じた。


「炬白、どうしたの!?」


 天照に宿っている筈の炬白に、何が起きたと言うのだろうか。彼が言っていた内容からして、精霊は自由に霊具に宿ったり、離れたりできる筈なのに。


《っ、黒霧が……これじゃ出られない……!》


 気が付けば、床に落ちた天照にも黒霧が絡み付いていた。紫の光が纏った部分では無く、光が欠如した柄と鍔の部分に。私に拾わせないためにそうしたのか、或いは炬白を天照から出させないためにそうしたのか。

 何にしても、私に考えている猶予など無かった。


《大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、皆大嫌い……》


 力を取り戻した彼女が、私に向かって歩み寄って来ているのだ。

 私の甘さが、この致命的な状況を招いた。さっき私が躊躇せず、あのまま天照を振り下ろしていれば……!


《私を虐めた奴らもお母さんも先生もお姉さんも……皆、殺してやる……!》


 眼球の無い空洞の瞳が、私を見下ろす。

 これから起こる恐ろしい事の予感に、私は悲鳴すらも押し殺された。


「ひっ!?」


 途端、私の首を黒霧が覆って行くのが分かる。

 両手足を動かす事すらも出来ない私に、抗う術など無かった。ただ、私の首を絞めて行く黒霧に委ねるのみ――。


「う……ぐ、あ……!」


 少し前とは、正しく形勢逆転の状況だった。

 だけど、私に諦めるという選択肢は無い。どうにか手探りで、指の先に落ちている天照を拾おうとする。

 しかし――それも本来は無意味な行為だ。

 天照も黒霧に絡み付かれている以上、拾い上げる事が出来ないのだから。


「んっ! んんっ……!」


 無意味だろうと、関係無い。

 とにかく、この状況を打開するために足掻く事。諦めてしまえば、その瞬間に全ては終わってしまうのだ。

 鬼は止められず、真由も助からない。


「ぐっ……!」


 けれど、黒霧は無情に、機械的に私の首を締め上げる。


《死んじゃえ……! 死んじゃえ!》


 呼吸が途絶え、視界が涙で潤んでも、私は決して目を閉じない。

 私には、負けられない理由がある。


《死んじゃ……ぐっ!?》


 その時、私の首は黒霧から解放された。

 何もしていないのに、どうして――疑問が浮かんだけど、考えている余裕は無い。呼吸を回復させようともせずに、私は天照を拾う。天照が難なく拾えた事から、天照に絡み付いた黒霧も無くなっていた事が分かる。


「うっ、ごほっ! げほっ……!」


 立ち上がった途端、私は世界が暗転するような感覚に襲われた。

 だけど私が倒れようとした先に壁があって、その身を預けて楽になる事が出来た。


「んっ……!」


 首を絞められた時間がそう長くなかったからだろう、数秒もすれば私の体は正常を取り戻し、普通に立っている事が出来た。

 だけど、私は気を抜かない。


《姉ちゃん、大丈夫?》


 私を気遣う炬白の言葉に、応じる。


「大丈夫、それよりも……」


 天照を構えつつ、私は前方に居る彼女――鬼に、瑠唯ちゃんの姿をした悍ましい存在に視線を集中する。

 彼女は――両手で頭を覆い、苦しげな声を発していた。


《う、うう、ぐうううう……!》


 怪物が呻くような声が、次第に澄んだ少女の声に変じていく。

 次に発せられた声は、紛れも無くあの子の声だった。


《傷付けさせない……お姉さんは、これ以上傷付けさせない……!》


「!」


 驚愕に、私は目を見開いた。

 だって――鬼と成った筈の彼女が発したのは、生前の瑠唯ちゃんの声だったから。

 彼女は苦しげな声を発しつつ、頭を上げる。くりりとした可愛らしい瞳、しかし悲しさと苦痛に満ちたその表情が、私を見つめた。


《お姉……さん……!》


 今にも消え行ってしまいそうな声を、彼女は必死に絞り出したように思えた。


「瑠唯ちゃん……!?」


 状況が理解出来なかった。

 鬼へと変わって私を殺そうとした瑠唯ちゃんが、突然本来のあの子に戻って――。

 まさか鬼が私を惑わそうとしているのかと思ったけど、私には分かる。この感じ、この雰囲気、あの子は間違いなく、私が知っている本物の瑠唯ちゃんだ。


《まさか、鬼に取り込まれつつも、鬼の中で本来の人格を守って……?》


 天照と同化した炬白が発した言葉を、私は聞き逃さなかった。


「どういう事、炬白!?」


 直ぐにでも、説明して欲しかった。本来の瑠唯ちゃんは、もう居ないのではなかったのか。あの子はもう、救い出せないのではなかったのか。


《……助けられるかも知れない、あの子を》


 炬白の言葉に、こんな状況にも関わらず光明を見い出した感覚になる。





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