其ノ四拾 ~鬼狩ノ夜 其ノ四~
白い霧が視界から消え果てた時、私は炬白と共にその場所に立っていた。体育館の脇に作られた、窓を開閉する為の足場。床とは梯子のみで繋がれた、中々の高所だ。
視線を斜め下に向けると、無数の黒霧人形達が体育館を埋め尽くしているのが見える。
そして、それを一人で打ち払い続けている一月先輩の姿も。モタモタしている暇は無い、急がないと……!
私は視線を上げ、しっかりと前を見据える。生気を失った小さな女の子の視線が、私を見つめ返した。
「……瑠唯ちゃん」
黒霧人形、そして今回の怪異の元凶にして、一番の被害者。鬼へと姿を変えた由浅木瑠唯ちゃんは、足場の手すりに背中を預けるようにしていた。
私の隣で、炬白が鎖を鳴らすのが分かる。
窓から差す微かな月の光が、瑠唯ちゃんのレモンのような黄色いパーカーを照らしていた。
《あのお兄さんの事、見捨てちゃったんだ……?》
瑠唯ちゃんは不気味な笑みを湛えながら、一月先輩を指差す。私は天照を固く握り、返した。
「違う。一月先輩は私に託してくれたの、あなたを止める為に……」
瑠唯ちゃんの生気の無い瞳から視線を逸らさず、私は続けた。
「だから絶対、私は瑠唯ちゃんを止める。止めてみせる……!」
そう放つと同時に、私は天照を構えた。剣道部でいつも練習してきた構え。
今手にしているのは竹刀や木刀とは違う本物の刀だけど、とりあえずは知っている構えを取る。私の側で炬白が両手でビン、と鎖を張った。
瑠唯ちゃんが、狂ったような笑い声を上げる。
《あは、あははははははは! いいよ、遊んであげる……!》
彼女の小さな体に渦巻いた黒霧が、湧き立つように瞬き始める。
来る……! そう思って身構えた時、側に居た炬白が私に発した。
「姉ちゃん、オレに余り近寄らないで」
「えっ?」
怪訝な声を返すと、炬白は補足する。
「こんな狭い場所だから、姉ちゃんが側に居過ぎたらオレ、思うように鎖を使えないんだ。だから」
「あ、なるほど……」
私は理解する。
転落防止の為か、窓を開閉する為の足場は広めに作られていた。おおよそ、幅二メートル程だろうか。私と炬白が立っていても、まだ余裕がある程のスペースである。
だけど、側には窓や手すりもあるから、炬白が鎖を振り回すには少々不便な地形だ。加えて私が側に立っていては、障害物になってしまうだろう。
……あの鎖が当たると、結構痛そうだ。いや、下手をしたら『痛い』なんて程度では済まないかもしれない。
「オレも配慮はするけど、なるべく側に居過ぎないように」
「分かった、距離を置きながら戦うね……!」
私は炬白から少し、離れた。
次の瞬間、黒霧が私に向けて放たれる。
「!」
何度も見て来たからだろうか、或いは体が覚えていたのか。反射的に、私は天照を前に掲げて盾にし、黒霧を防ぐ事が出来た。
天照に触れた途端、黒霧はまるで浄化されていくように消滅する。
「ふっ!」
振り回して勢いを付け、炬白が瑠唯ちゃんに向けて鎖を放った。
《フフ……!》
渦巻いていた黒霧が、一斉に瑠唯ちゃんの正面へと集結する。
円形の壁が構成されたと思った瞬間、炬白の鎖が壁に着弾した。紫色の火花が飛散する、瑠唯ちゃんに向けて放たれた鎖が横に弾かれ、窓ガラスを突き破った。元々割れていた窓ガラスも見受けられたけど、割れたそれがさらに一枚増える。
「防がれた? そんな馬鹿な……」
炬白が意外そうに発した。
そう、これまで炬白の鎖は幾度も瑠唯ちゃんの黒霧を破って来た筈。だけど今回は、撃ち負けたのだ。
「どうして……?」
発したその瞬間、黒霧が私の眼前まで迫っていた。
「!」
気付いた時には、もう遅かった。
黒霧が私の腹部にめり込むのを見た気がした。体が『く』の字に曲がり、糸に引かれるように後ろへ飛んで行く。
「ごほっ……!」
口の中に酸っぱい胃液の味が充満した。
後方へ飛ばされる最中で、私は気付く。後ろには壁がある――叩き付けられたら、只じゃ済まない……!
とにかく、何とかして背中を守らなければ……そう思っていた矢先に、何かが私の腹部に巻き付いた。
「!?」
銀色の、長い紐のような物――鎖だった。紛れも無く、炬白の鎖である。
「んっ!」
鎖が張った瞬間、後方へと飛んでいた私の体が止められた。続いて、体が一気に地に向かって落ちていくのが感じられる。
もう、痛みを感じずに着地するのは不可能だと分かったので、出来うる限り痛みを軽減できそうな格好で着地した。
「ぐっ!」
中学校の頃、少しだけ習っていた柔道が役に立った気がした。
着地、というか不時着した時の痛みよりも、黒霧に突き上げられた腹部の方が痛い。体を起こして咳き込んでいると、炬白が駆け寄ってきた。
「姉ちゃん、大丈夫?」
私の腹部に巻き付けられた鎖が、炬白の手によって回収されていく。
炬白のお蔭で、壁に叩きつけられる事は免れた。黒霧に突き上げられて飛ばされた時、炬白が鎖を私に巻き付けて引き留めてくれたのだ。
彼の行動が無かったら、私は後ろの壁に叩きつけられていたに違いない。下手をすれば、頭を強かに打っていたかも。
「げほっ! うん、炬白……ありがとう」
咳き込みながら、私は炬白に感謝した。またこの子に助けられてしまった、もう何度目なのだろう。
助けられてばかりでは、駄目だ。そう思った私は、腹部の苦しみを無理やりに押し込めて発する。
視線の先に居る瑠唯ちゃんは、襲ってくる様子は無い。
「炬白、どうしてさっき……鎖を弾かれたの?」
炬白は、自身の手にある鎖を見つめつつ、応じた。
「瑠唯……力を増しているんだ。この鎖の霊力ではもう、相対出来ない」
「え……!?」
さらに、炬白は戦慄するような言葉を続ける。
「鬼は生者の魂を取り込んで力を増すんだ。きっとオレ達がここに来る間にも、どこかで人を襲ったのかも……」
私達の知らない間に、誰かが瑠唯ちゃんに取り殺されたのだ。
何の罪も無い誰かがきっと、あの黒霧に首を絞められて――そう思うと理不尽で不条理で、怒りに気が狂いそうになる。
だけど、その怒りを瑠唯ちゃんに向けるのは筋違いなのだ。
だって……あの子は一番の被害者なのだから。本当の瑠唯ちゃんは、とても可愛らしくて優しい子だったのだ、あの子は鬼に成りたくて成ったんじゃない、人を殺したくて、殺しているんじゃない。
炬白がさらに、言葉を繋ぐ。
「姉ちゃんが持ってる天照でも、もう無理だと思う」
その言葉が何を意味するのか、私には考える必要も無かった。
天照が通用しないなら、瑠唯ちゃんに相対する事も出来ない……真由を助けられない!
「そんな……!」
「だけど」
私の言葉を遮るように、炬白が発した。
「方法が無い訳じゃ無い。この方法は、あくまで最終手段だったんだけど」
どこか言葉を濁す感じで、炬白は発する。
最終手段……どういう事なのだろうか。危険を伴うのだろうか?
「教えて炬白、お願い!」
私は縋るように、炬白へ促した。
◎ ◎ ◎
身の危険を承知の上で、世莉樺と炬白を行かせた一月。
彼は天庭を振るい、迫り来る黒霧人形を打ち払っていた。ただ闇雲に振っているのではなく、体力の消費を最小限に留めている。手近に居た黒霧人形を消し去り、一月は視線を斜め上へ泳がせる。
(世莉樺、炬白……!)
二人は、上手くやってくれているだろうか。
しかし、一月には何も分からない。一月の居る場所からは、炬白が世莉樺に駆け寄って何かを言っているという事しか、分からない。
「!?」
視線を戻した瞬間、前方の状況が一変していた。
これまでは自身の下へと迫る以外の行動を持たなかった黒霧人形が、一か所に集まっていく。一体、二体、三体、四体五体六体――体育館中を埋め尽くしていた黒霧人形の内、多数が寄り集まる。
そして、まるで複数のアメーバが合体して一体の巨大な個体を生み出すかのように、巨大化していった。
「なっ……!?」
巨大化する黒霧人形は、一月の身長など軽く凌駕する大きさに膨れ上がり――体育館の天井に届きそうな程のサイズにまで膨張した。
見上げなければ、頭部分が視認できない程の黒霧人形。
予想だにしていなかった状況に、一月は一瞬だけ戦意喪失したような気分になる。しかし、彼は直ぐに使命感を取り戻した。瑠唯によって引き起こされた怪異とは、一月は直接的な関わりを持たずとも、彼は鬼がどれ程の悲劇を生み出すのかを知っている。
その怪異の犠牲になろうとしている世莉樺の妹を救うべく、悲劇の連鎖を断ち切るべく、一月はこの場に赴いたのだ。
「ぐっ……」
逃げ出す事など出来なかったし、そんな気など毛頭無かった。一月は天庭を構え、眼前の巨大な黒霧人形を見やる。
次の瞬間だった。
巨大黒霧人形が、その腕部分を一月に向けて突き降ろした。
「うっ!」
天庭を盾のように構えたが、そんな行為など何の意味も成さなかった。
直接の痛みは無くとも、瞬く間に一月は視界が真っ黒に染まるのを感じ取る。黒霧が全身に纏わりつき、鼻から口から、耳から、体内へと侵入してくるのが分かる。
「が……!」
体の中で、まるでムカデのように黒霧が蠢く。
気持ち悪くて不気味で、一月は体が壊れそうになる程にもがいた。しかし、彼がどれ程身動きしても、天庭を振りまわしてみても――何の効果も成さない。
次第に一月は、自身の心がどす黒い感情に支配されていくのを感じた。
鬼の持つ怨みが、妬みが、嫉みが、人間のあらゆる負の思念が、黒霧を通じて流れ込んで来ているのかも知れなかった。
「!」
真っ黒に染まった視界の中、浮かんで来たのは一人の少女の顔だった。
一月が初めて『好き』という想いを抱いた、もうこの世に居ない少女――秋崎琴音。だけど、一月を見つめる彼女の表情は冷たかった。
まるで眼前を飛び回る羽虫を見るかのような、忌々しげな視線。
(琴、音……!?)
琴音の表情が、不気味に歪む。
苦しむ一月をまるで見せ物のように見つめ、彼女は抑揚を欠いた声を発する。
《赦さない……絶対に……赦さない……》
一月にとって何よりも忌まわしい記憶が、彼の頭を支配する。
眼前の琴音の顔が崩れ、黒霧へと変わる。そして、まるでそれ自体が意思を持つかのように――数秒前まで琴音の顔だった黒霧が、一月の顔へと絡み付いた。
何も見えなくなった。
鼻を、口を黒霧に塞がれ、もう一月は息をする事も出来ない。
「う、あ、あ……!」
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい――!
呼吸が許されない苦しさより、心が負の感情で満たされていく方が何倍も苦しかった。
――もう、一思いに殺された方が楽だ。
黒霧に体中を覆い包まれた一月は、思った。
しかし。
「!?」
次の瞬間――全てが消え去った。
体内を侵していた、心を負念で覆い包もうとした、視界を真っ黒に染め上げていた黒霧。とにかく、一月を苦しめていた物の全てが、跡形も無く消え去った。
「っ、うっ!」
一月の背中が、壁にぶつかる。
けれど今の彼には、寄り掛かる物があって好都合だった。彼の右手から天庭が滑り落ち、体育館の床に落ちる。
背中を壁に引きずるような体制で、一月はゆっくりと体育館の床に腰を降ろした
「はあ、はあ……!」
一先ずの安堵を覚えた。
瞳に涙を滲ませつつ、一月は荒れた呼吸を整える。
状況を確認しようと、彼は座り込んだまま視線を上げた――。
「……!」
自らの前方にあった後ろ姿に、一月は言葉を失った。先程の恐ろしい体験の事も、荒れた呼吸を整える事すらも頭から離れてしまう。
信じられなかった。
目を疑った。
幻を見ているのかとすら、思った。
「あ……!」
しかし――それは決してまやかしでは無く、紛れも無い現実だった。
小さな後ろ姿に、目も覚めるような純白の和服。その黒髪は腰まで伸ばされ、さらさらとした質感を帯びていた。和服の袂から出た小さな手には、青く美しい光を帯びた小刀が握られている。
一月の前に現れた、純白の和服を纏った幼い少女。その後ろ姿が、黒髪を空に泳がせながら振り返る。
そして、まるで桜の花びらのような唇が動き――少年に向かって、鳥の鳴き声のように可憐な声を発した。
「また……あえたね」
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