其ノ参拾弐 ~立チ向カウ炬白~
そこは、正しく地獄だった。
有無を言わせずに視界を支配する、紅蓮の炎。肌を焦がすような感覚すらも覚える、凄まじい熱気。とてもではないが、人間が居られるような場所ではない。
「うっ、はあっ……!」
呼吸を荒げながら、少女はただ逃げ回る。追い迫って来る炎から僅かでも自身を遠ざけようと、その小さな足を必死に動かして。
「ひっ!」
幼い少女に、巨大な炎の壁が立ちはだかる。うねるように揺らぐ炎が、少女にはまるで鬼の顔のようにも見えた。鬼の顔が自身を喰い殺そうとしているように見え、恐怖が小さな体を走り抜ける。
「い、いやあああああああっ!」
業火の中――恐怖に涙を浮かべながら少女は走り、逃れ、駆けずり回る。
炎の燃焼音が、まるで鬼が笑う声のようにも聞こえた。怖くて恐ろしくて、足を止める暇など残されていなかった。
その時、逃げ惑う少女の鼓膜を、一人の幼い少年の声が震わせる。必死に出すような、苦しげな少年の声だ。
「世莉樺姉ちゃん、ぐっ……助けて!」
少女にとって聞き慣れた声。そして正真正銘の人の声に、少女は僅かばかりの安堵を覚える。
少女が声の方向を振り向くと、そこには一人の少年がうつ伏せに倒れていた。その背中には見るからに重たげな食器棚が圧し掛かり、彼の体を床へと押しつけ、身動きを取れなくさせている。
「悠斗!」
炎への恐怖も忘れ、少女は駆け寄る。
――その後の出来事を、少女は忘れていない。
否、忘れようにも忘れられない。忘れる事など、出来る筈が無い。
◎ ◎ ◎
「嫌、いやあああああっ……!」
炎の中、世莉樺は震えていた。彼女は決して、瑠唯が放った鬼火に怯えている訳では無い。世莉樺を恐怖させているのは、彼女自身の『記憶』だ。
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
炬白は世莉樺の背中に手を触れつつ、呼びかける。
「嫌ッ! やだ! 嫌だ……!」
すると世莉樺は、恐怖を振り払うように頭を振った。茶色いロングヘアが、疾走する馬の尾のように靡く。
そして、両手で顔を覆い包むようにし、悲痛な涙声を、発した。
「赦して……悠斗、赦して……!」
渦を巻く鬼火の中、世莉樺は逃げようともしない。
自身の側に落ちている天照を拾おうともせず、ただその口から力無く、謝罪の言葉を絞り出すのみである。
(駄目か、気丈な姉ちゃんでも、あの弱みに付け入られたんじゃ……!)
廊下の床に膝を崩す世莉樺の背中を見つめつつ、炬白は心中で呟く。
そして彼は、険阻な面持ちで視線を移した。鬼火の元凶、由浅木瑠唯へと。
《フフ、何? お姉さん……泣いちゃったの?》
黒霧をその身に宿す少女は、世莉樺を嘲笑するように発した。
そして、瑠唯は徐々に世莉樺へ歩み寄って行く。
「近づくな」
世莉樺の後ろに居た炬白が、瑠唯に立ちはだかる。
燃え盛る炎を背に受けつつ、彼は腰から鎖を取り、両手で張るように伸ばした。
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽」
炬白の言葉と共に、鎖が紫色の光を纏う。彼は、自身の後方の世莉樺を後ろ目で確認する。世莉樺は、怯えるように床に座り込んだまま、動かない。
続いて炬白はもう一人、瑠唯によってこの場に連れてこられた者に、視線を向けた。世莉樺の友人の、朱美である。
(姉ちゃんとあの人、オレ一人で二人共助け出すのは……荷が重い)
炬白は決断していた。世莉樺と朱美の二人を助け出す事を。
しかし、炬白自身が思った通り、それは簡単に成せる事では無かった。朱美は気を失っており、世莉樺は炎に怯えていて、声も届かない状態だ。
(二人がオレのすぐ側に居なきゃ、転位は使えない)
助け出す手立ては、炬白には浮かんでいた。笹羅木小学校の体育館から、世莉樺を連れ出した時と同じ方法を使えば良いのだ。しかし、このままの状況ではその方法は使えない。
世莉樺は炬白の側に居るので連れ出せるが、朱美は今、瑠唯の側に居る。どうにかして朱美の側に寄り、彼女を瑠唯から引き離さなければ。炬白がそう思っていた時だった。
《あんたになんか、用は無いんだよ》
瑠唯が、炬白に向けて黒霧を放ったのだ。
「!」
迫り来る黒霧に向け、炬白は鎖を振り上げた。そして上から下に打ち下ろす。
紫色の火花が、黒霧を飛散させた。
《まだまだ……!》
瑠唯の言葉の直後に、炬白は自身の背後から凄まじい熱気を感じた。
振り返った途端、追い迫る鬼火が炬白に迫り来る。
「っ!」
防ぎきれない――そう判断した炬白は、その場から駆け出そうとする。
しかし彼は、足を止めざるを得なかった。自身の側に、世莉樺が居たからだ。
(しまっ……!)
瑠唯の狙いは、炬白だけでは無かった。
世莉樺を狙えば、炬白は否応なしに庇いに入る。瑠唯はそれを、予測していたのだろう。
「くそっ!」
迫り来る鬼火に、炬白が与えられた時は僅かだった。
彼は鎖を握り、精霊として持つ霊力を鎖へと注ぎ込める。鎖に纏った紫色の光が大きさを増す。
鬼火を、熱気を打ち払うように、炬白は鬼火に向けて鎖を振り抜いた。大きな紫色の火花が散る、同時に鬼火が爆散した。
「っ……!」
鬼火の直撃は免れたが、炬白に向けて炎の破片が振りかかる。
その直後だった。炬白の不意を突いた黒霧が、彼の右腕に巻き付いた。
(!)
炬白がそれに気付いた時には、もう手遅れだった。黒霧に引かれるように、彼は床へ叩きつけられる。
「っ!」
右手に握っていた鎖が炬白の手を離れ、床の上を滑り行く。彼の手から離れた鎖は紫の光を失い、只の銀色に戻っていた。
拾いに行こうとして、炬白は気付いた。黒霧が彼の右腕に巻き付き、炬白の身動きを封じ込めていたのだ。
《あはははは! 捕まえたあ!》
歓喜するかのような瑠唯の声、彼の腕を捕らえた黒霧によって炬白の体が浮かされ、放物線を描くように宙を舞う。
数秒、炬白の体が床へと叩きつけられた。
「がっ!」
苦痛に歪むような声が、炬白の口から発せられる。霊具の鎖は、瑠唯を隔てた先に落ちていた。さらに、右腕を黒霧に捕らえられ、身動きを封じられている。
このままでは、炬白は瑠唯の黒霧を防ぐ術が無い。
《……あんたは、後で殺してあげる》
床に伏す炬白に、瑠唯は背を向けた。
《先に……お姉さんを殺してあげるね》
「!」
瑠唯の言葉を受けた炬白は、焦燥感を感じた。自身に止めを刺す気がないと知っても、僅かたりとも安心する事など出来ない。
瑠唯は、世莉樺を先に殺害するつもりなのだ。
燃え盛る鬼火の中、瑠唯の後ろ姿が世莉樺へと向かっていく。
「止めろ!」
炬白は、小さな鬼に向かって叫んだ。
立ち上がろうと、瑠唯を止めようと、彼は必死に足掻く。しかし、炬白がどれ程力を込めようとも――彼の右腕を捕らえている黒霧は、彼の自由を許さなかった。
《お姉さん、怖い? 大丈夫……今、楽にしてあげるから》
瑠唯が側にまで迫って来ていてもなお、世莉樺はその場に膝を崩したまま動こうとしない。彼女ただ両手で顔を覆い、悲痛な涙声を発するだけだ。心も体も恐怖に支配され、自身の置かれている状況が一切見えていないようだった。
「姉ちゃん、逃げて! 姉ちゃん!」
黒霧に捕縛されながらも、炬白は世莉樺に向かって叫ぶ。
彼は激しい危機感に苛まれていた。このままでは世莉樺が殺されてしまう、炬白は瑠唯を止めようと必死に身動きする。
しかし、黒霧が炬白を阻んだ。炬白の体だけでなく、世莉樺を助けようとする意思までをも阻んだ。
《お姉さん、今まで遊んでくれてありがとね、もうさよならの時間だね……》
怯える世莉樺を見下ろし、瑠唯は笑っていた。残忍に冷酷に、幼い外見には余りにも不釣り合いな、加虐的な笑みを浮かべていた。そこには同情も哀れみも、世莉樺に対する慈悲の念は欠片も無い。
瑠唯が纏う黒霧が、次第に世莉樺へと追い迫って行く。
「赦して、悠斗……赦して……!」
自身の危機が迫っている中、世莉樺は涙声で赦しを乞うのみ。
それも、自身の命を奪い去ろうとしている瑠唯にではなく、既にこの世に居ない自身の弟――悠斗に向けて。
《お姉さん、さようなら……》
不気味な程静かに、瑠唯は囁く。
黒霧が世莉樺に向かって蠢き――彼女の体に触れようとする。
その時、
「世莉樺!」
その声に、世莉樺に触れようとした黒霧が止められた。
瑠唯と炬白は、声の主へと視線を向ける。
燃え盛る鬼火を背に、一人の少年が立っていた。その両肩を上下させながら呼吸している事から、急いでこの場へ駆けつけた事が伺える。
「お兄さん……?」
声の主は、炬白も知っている少年だった。
唯一、世莉樺が置かれた状況を理解し、彼女と同様に鬼絡みの怪異を体験した者。
金雀枝一月だ。
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