其ノ参拾参 ~尽力スル二人~
水を被り、炎の中へと身を投じた一月。
彼の判断は間違っていなかった。水を被らなければ、恐らく今頃は炎に焼かれていたのかも知れないから。
そしてもう一つ、彼の予測は的中していた。世莉樺が、居たのだ。
「世莉樺?」
しかし、一月は直ぐに彼女の様子がおかしい事に気が付く。世莉樺は床に膝を崩し、その両手で顔を覆っていたのだ。
駆け寄ってみると、悲痛な涙声で「悠斗……悠斗……!」と漏らしていた。
「!」
直後、一月の視界に彼女が映った。炎の中に整然として立ち、自身を見つめる幼い少女だ。横にボリュームを持ったショートヘアに、レモンのような黄色いパーカーが印象的な、可愛らしい女の子。しかしその瞳は泥水のように濁っており、生気が感じられなかった。さらに、彼女の体には黒い霧が巻き付くように纏っていた。
(この子が、鬼……由浅木瑠唯……!)
眼前に居る少女こそが、世莉樺の言っていた『由浅木瑠唯』、そして紛れも無い『鬼』なのだと一月は確信する。
その根拠は、彼が以前にも見た鬼、秋崎琴音の姿から。瑠唯が持つ雰囲気は、鬼へと姿を変えた彼女を思い起こさせた。禍々しく、邪悪で、悍ましい、死者の負念が集合した鬼の姿。その雰囲気といい、黒霧といい、鬼と成った瑠唯と琴音は寸分も違わない。
《お兄さんも……一緒に遊ぼう?》
鬼――瑠唯の声に、一月は返事をしない。彼は、世莉樺を守るように瑠唯に立ちはだかる。
その時一月は、世莉樺の側に落ちていた天照に気付いた。
(これって……)
学校の資料室に保管されていた霊刀だと、一月は直ぐに気付く。世莉樺が所有していたそれを、彼はその手に取った。
その、直後。
「お兄さん!」
自身を呼ぶ声に、一月は振り向く。
その先には黒霧に捕らえられた炬白が居た。地面に伏しつつ、炬白は廊下の一点を指差す。
一月がその方向を視線で追うと、銀色の輝きを持つ鎖が落ちていた。
(あれは……!)
その鎖に、一月は見覚えがあった。そう、炬白がいつも腰に下げていた鎖だ。
「お願いお兄さん、あれをオレに!」
精霊である炬白が、肌身離さず持っている鎖。彼にとって如何に大切な品なのか、一月には直ぐに分かる。
炬白の言葉を受ける前に、一月は既に床に落ちた鎖に向かって駆けていた。その片手には、鞘に収められた天照が握られている。
《鬼ごっこ……? いいよ》
瑠唯が発した直後、一月は自身に黒霧が飛んで来るのを感じる。捕まればどうなるのか、彼は身を以て知っていた。
「!」
足を止める。一月は素早く膝を折り、姿勢を低める。
彼の頭上を、まるで命を持っているかのような黒霧が通過していった。直ぐに立ち上がり、再び一月は炬白の鎖を拾い上げようと駆け出す。
《フフ……なかなかすばしっこいね?》
瑠唯は、一月を捕らえる事を楽しんでいる様子だ。例えを用いるならば、地を動き回る蟻を指で捕まえて握りつぶすかのように。
《じゃあ……これだったら、どう?》
瑠唯が、その手の平を広げる。その小さな仕草と同調するかのように、彼女がその身に纏っている黒霧が四方に散った。まるで、巨大な黒い花が宙で咲くかようだ。
「お兄さん、危ない!」
炬白の言葉を聞くまでも無く、一月は自身の状況を理解出来た。数個に拡散した黒霧は、一月を取り囲むかのように迫っているのだ。
彼に、逃げ道は無い。
「ぐっ……!」
追い迫る黒霧を見つめ、一月は歯を噛みしめる。生命の危機を感じつつも彼は、この状況から脱出する策を頭の中で探っていた。
直後、彼は自身の右手に握られた霊刀の存在を思い出す。世莉樺が所有していた、天照だ。
「っ……ああああッ!」
世莉樺は動けない、炬白も黒霧に捕らえられ、同様だ。彼らを助けられる者は、この場に自分のみ。
半ば無我夢中になりつつ、一月は天照を鞘に収めたまま、盾のように自身の前方へと突き出した。
「!?」
効果は劇的だった。
天照の鞘に黒霧が触れた瞬間、黒霧はまるで弾かれるように、天照の周囲へと飛散したのだ。
一月には、僅かも被害は無い。
(っ、今だ!)
天照の力に感心している余裕は、一月には与えられなかった。
瑠唯が次の黒霧を放って来る前に駆け出し、一月は床に落ちた炬白の鎖をその手で掴み上げる。
「炬白!」
そう呼びつつ、一月は炬白に向けて鎖を投げた。鎖は吸い込まれるように炬白の手の中に向かう。
「よし……!」
鎖を掴み、炬白は間髪入れずにあの経のような言葉の羅列を紡いだ。紫の光を纏られた霊具――鎖を振り抜き、彼は自身を捕らえている黒霧を切断する。
自由を取り戻し、炬白は立ち上がった。
「お兄さん、あの姉ちゃんを!」
炬白の差す先には、運悪くこの場に居合わせてしまった朱美。その言葉の意味は一月に伝わったらしく、一月は天照を片手に彼女へ駆け寄る。
(よし、オレは姉ちゃんを……!)
そして炬白は、世莉樺に駆け寄った。
その間にも瑠唯が彼に黒霧を飛ばしたが、炬白は鎖を使い打ち払う。
「姉ちゃん、ここから逃げないと……」
しかし世莉樺は、
「悠斗、悠斗……」
怯えるかのように、悠斗の名を呼ぶだけだ。炬白へ返事するどころか、彼の顔を見る事も無い。ただ両手で顔を覆い、悲痛な涙声を発するのみである。
(……!)
炬白は、後方から飛ばされた黒霧を気配で察した。振り向くと同時に、彼は紫の光を帯びた鎖を一閃する。
紫の火花が発せられ――黒霧が消失した。
「姉ちゃん」
炬白は再び世莉樺の側で片膝を折り、彼女を宥める。
彼女の肩に触れようと、手を伸ばす――。
「嫌っ!」
炬白の手が触れる前に、世莉樺が張り裂けるように叫んだ。
周囲には鬼火が燃え盛っている、このままでは手遅れになってしまう。
(ぐっ、このままだと……!)
猶予は残されていなかった。このままでは、皆鬼火の熱気に焼かれてしまうかもしれない。
炬白の選択肢は一つ。世莉樺に一月、そして朱美と共にこの場から避難する事だ。
「姉ちゃん、落ち着いて」
世莉樺の様子に、変化は無い。炬白は無理やり世莉樺の両肩に手の平を乗せ、彼女を呼ぶ。
「姉ちゃん」
世莉樺は、その身を揺するかのようにして拒む。両肩に乗っているのが炬白の手だとは、気付いていないのだ。
「いっ、嫌! 止めて!」
半狂乱になるように、世莉樺は頭を震わせる。茶色いロングヘアが、激しく乱れた。
「姉ちゃん、頼む」
世莉樺は両手で顔を覆ったまま、悲痛な声を発し続ける。炬白は更に、言葉を重ねる。
「お願い姉ちゃん、落ち着いて」
世莉樺は両手で顔を覆ったまま、悲痛な声を発し続ける。
炬白は更に、言葉を重ねる。
「お願い、このままだと皆危ないんだ」
世莉樺は両手で顔を覆ったまま、悲痛な声を発し続ける。
炬白は更に、言葉を重ねる。
「姉ちゃん、オレを見て!」
炬白が発した言葉に――世莉樺は我に返るように、顔を上げた。
やっと、彼女はまともな言葉を発する。
「こ、炬白……?」
世莉樺の頬には、涙の跡が残っている。
「……そう。姉ちゃん、オレだよ」
落ち着きを取り戻しつつも、世莉樺は嗚咽の余韻に両肩を上下させていた。しかし、一先ずは落ち着きを取り戻せたらしく、炬白は安堵する。
「炬白!」
声の方を振り返る、一月が立っていた。片手に天照を持ちつつ、彼は朱美を背負っている。
「お兄さん、オレの側に!」
言われるまま、一月は炬白の側へ駆け寄った。
すると炬白は片手で印を結び、常人には理解しえない言葉の羅列を発し始める。同時に炬白の側を、否、炬白や世莉樺達を覆い包むように、白い霧が渦巻き始めた。
《……もういいや》
瑠唯は、追おうとはしない。
その身を黒霧に包ませながら、小さな鬼は世莉樺達を見つめていた。
《どうせ、すぐにまた会えそうだし……》
白い霧が晴れた時、世莉樺達の姿は消えていた。その後、瑠唯の姿もまた空気に溶け入るかのように消失する。
同時に――廊下を支配していた鬼火も、まるで静まり返るように消滅した。
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