其ノ参拾壱 ~鬼火~


「私が、一番怖い物……?」


 世莉樺が発すると、瑠唯は表情を歪めるようにして笑った。彼女を覆い包む黒霧や、生気の無い瞳とも合わさり、世莉樺には悍ましく感じられる。


《そう……お姉さんにとって怖くて堪らない物……》


 世莉樺は、天照の鞘を強く握る。


「適当な事を言って、私を惑わせようとしてるの……!?」


 その言葉で、瑠唯は笑うのを止めた。

 笑みが消えた代わりに、瑠唯はその表情を恐ろしい形相に変えていく。どうしたらそんな事が出来るのか、そう問いたくなる程だ。

 泥水のように濁った瞳を見開き、口裂け女のように口の両端が広がっていた。

 そして、瑠唯は聞く者全てを恐怖に沈めるような声を世莉樺へと発した。


《だったら……見せてあげる》


 同時に瑠唯は、天を掴むようにその右腕を上げていく。


「姉ちゃん!」


 世莉樺が炬白の声に応える前に、瑠唯は右腕を振り下ろした。

 その瞬間、それが起こった。


「うっ!?」


 火の気など全く見当たらない廊下に、炎の壁が出現する。

 瑠唯と世莉樺、そして炬白の周囲を、血のように赤い炎の渦が包み込む。焼けるような熱気が発せられ、廊下を支配した。

 周囲の壁や天井や乱雑に積み上げられた机へと、瞬く間に炎が燃え移っていく。


「……!」


 その瞬間、世莉樺は驚愕したように両目を見開く。

 炎の熱から身を守ろうともせず、熱風に髪や制服を靡かせたまま、その場で棒立ちになる。


「鬼火……!」


 世莉樺の後方に居た炬白は、まるで眩しい日光を防ぐように腕を額へ当てる。

 彼の身にも、炎の熱気は伝わって来ているようだ。雨や風、人間にとっての常識的な現象ならば、精霊は受け付けない。だが、この炎は違うのだ。

 廊下に突如巻き起こった炎、これは人間の常識とは程遠い物だった。


「くっ、ここまで霊力を高めてたのか……」


 大蛇のようにうねり、燃え盛る炎。目を焼かれるような錯覚すら覚えるオレンジの光の中。炬白は、廊下を一瞬にして炎の地獄に変えた張本人へ視線を向ける。

 彼の視線の先には、黒霧をその身に纏った小さな少女が居た。


《あはははは! あっははははははははははははは!》


 炎を背に、瑠唯は笑っていた。純粋で無垢な、しかし不気味で悍ましい笑い声だ。

 廊下を支配する炎は、瑠唯が放った鬼火なのだ。

 鬼火とは、鬼としての霊力を燃やして周囲に撒き散らせる力。鬼ならば誰しも使える訳では無く、大勢の魂を取り込み、鬼としての力を極大まで高めた鬼だけが、扱える。霊的な力であるため、精霊にも効果を及ぼすのだ。


「姉ちゃん!」


 弾け飛ぶような火の粉を払い、炬白が自分を呼んだ気がした。

 だが、世莉樺から返事は発せられない。口が凍り付いてしまったかのようだ。

 炬白はもう一度、呼んだ。


「姉ちゃ……」


 その時、世莉樺の腕から天照が滑り落ちた。同時に世莉樺はその場に膝をついてしまう。

 炬白から彼女の顔は見えなくとも、世莉樺が両肩を抱いて震えているのが分かる。


「……!」


 炬白は、直ぐに世莉樺へと駆け寄る。世莉樺は固く目を閉じていた。

 まるで、目の前の恐ろしい光景から自身の目を背けるかのようだ


「嫌……いやああああああああッ!」



 張り裂けるような悲痛な叫びが、世莉樺の口から発せられる。まるで過換気症のように、呼吸が荒くなっていた。

 意志が強く、気丈な性格の世莉樺が怯えていた。それもまるで、この世の物とは思えぬ幻影でも目の当たりにしているかのような、尋常ならざる怯え方だ。

 悲痛な叫び声が震えはじめ、その瞳から一筋の涙が頬を伝う。

 これまで世莉樺が流した、他人の為に流す涙とは違う。今彼女が流しているのは、恐怖の感情から流れ出た涙だ。


「赦して……赦して悠斗……!」


 呟くかのように、世莉樺の涙声が発せられる。

 その間にも彼女は、目を固く閉ざしていた。

 まるで、その目を一瞬でも開ければ、全てが終わってしまうという妄想にでも憑りつかれているかのようである。


(この炎を消さないと……!)


 炬白は、一旦世莉樺を視界から外す。

 まるで守るように世莉樺を背に、腰から鎖を取り、鞭を張るかのような仕草で伸ばす。

 そして、例の経を唱えて鎖に紫の光を宿した。


「だあっ!」


 精霊をも蝕む熱気の中、炬白は鎖を横に振り抜く。命を持っているかのように蠢く鬼火が、一瞬だけ両断された。しかし、数秒と待たずに炎は元の形を成し、世莉樺と炬白に向けて容赦なく熱気を浴びせる。

 炬白は忌々しげに、舌打ちした。


(駄目か、オレの霊力じゃ消し切れない)


 炬白は再び、世莉樺を振り返る。


「やめて……! 悠斗、お願い……!」


 世莉樺はやはり、地面に膝をついていた。悲痛な面持ちを浮かべながら、そこには居ない筈の者の名前を呼んでいる。

 亡き弟――雪臺悠斗の名前を。



  ◎  ◎  ◎



 火災の発生を知らせる警告音が、教室中の人間を釘付けにしていた。

 それまで行われていた英語の授業の事など、教師を含めて誰一人として気に掛けていない。


(何だ……?)


 少し前まで、ノートに英文を写していた一月。彼はシャープペンシルを走らせる手を止め、警告音を教室中に拡散するスピーカーを凝視している。

 生徒達のざわめきで、教室が満たされ始める。


「今日、避難訓練だったっけ?」


「誤作動じゃないの?」


 次の瞬間、スピーカーを通じ、切迫した男性の声が発せられる。


『これは訓練ではありません、本校にて火災が発生しました! 繰り返します、これは訓練ではありません!』


 生徒達も聞き覚えのある、鵲村第一高校の教頭の声。教室中がパニックになる中、一月は座席から立ち上がった。


『生徒諸君及び、教員は落ち着いてかつ速やかにグラウンドまで避難して下さい! 出火元は、立ち入り禁止になっている本校最上階の模様、絶対に近づかないように!』


 そのスピーカーの声の直後、教室中が切迫した声で支配される。


「お、おい、本当の火事だってよ!」


「やべえよ、早く逃げねえと!」


 男子も女子も生徒達は一斉に、流れ出るかのように教室の外へ走り去っていく。教室のドアに少年少女達が殺到し、壊れてしまうのではと思った。

 英語の教員が、「落ち着いて!」等と叫んでいたものの、パニックになった生徒達には何一つ意味を成さない。


(立ち入り禁止の最上階、あそこに火の気なんて……?)


 生徒達が我を失うように逃げ惑う中、一月はただ一人冷静だった。

 立ち入り禁止ならば、当然ながら誰も立ち入らない場所だ。そんな所で何故、火事などが起こったのか。


「……」


 疑問を残しつつも、一月は教室を出ようと出入り口へ向かう。他の者達は皆、我先にと逃げ去ってしまったようだ。

 廊下からは、生徒達の声や足音、さらに警告音が慌ただしく、喧しく響いている。

 そして一月が廊下へと足を踏み出した、その時だった。


「っ!?」


 一月は、表現しようの無い気配を感じ取った。

 背筋がぞくりと冷たくなるような感覚に、彼は足を止める。同時に一月は、既視感に近い物を感じた。


(この感じ、もしかして……!?)


 以前にも一度、一月はその気配を感じた経験がある。

 忘れる筈も無い――彼が遭遇した怪異。自らの想い人であった少女が、鬼へと姿を変えて自身の前へと現れた時の、冷たい感覚だ。

 心臓が凍り付くような感覚に、一月は全身が硬直するような錯覚を覚える。


「鬼か……!?」


 一度鬼と遭遇した一月には、鬼の存在を感じ取る力が備わっていたのだ。

 そう、彼が感じ取ったのは紛れも無く、鬼の気配。死者の負念が寄り集まり、形を成した化け物が近くに居る事を示していた。

 一月は携帯電話を取出し、世莉樺へと電話を掛けた。

 しかし、電話は繋がらない。


「っ……!」


 一月が思い当たる中で、鬼の事を知っているのは世莉樺だけだ。

 とにかく彼女と連絡を取らなければ。そう思った一月は、他の人物へと電話を掛ける。剣道部の後輩で、世莉樺のクラスメイトの佑真だ。

 今度は、電話が繋がった。


『どうしたんですか先輩!? 火事みたいですよ、早く逃げないと!』


 電話越しでも、佑真が焦燥に駆られているのが分かる。一月は無駄な答えは返さずに、自身の用件を述べた。周囲の雑音に消されないよう、声を張り上げる。



「佑真、世莉樺は側に居るか!」


 世莉樺と連絡が通じないならば、彼女の側に居る人間を通す事。

 一月の判断は懸命だった、しかし佑真からの答えは、


『え? いや、それが世莉樺……今何処に居るのか分からないんですよ、何かあいつ、授業にも来なかったし……!』


「!」


 突然自身を襲った、鬼の気配。そして行方知れずの世莉樺。

 一月の中で、その推測は容易に立てられた。


(世莉樺、まさか鬼と……!?)


 世莉樺は今まさしく、鬼と遭遇しているのかも知れない。

 一月は電話を切り、駆け出す。その時には既に大方の生徒達は避難してしまったらしく、廊下に人の気配は無かった。

 スピーカーからの警告音のみが、喧しく響いている。


「……くそっ!」


 状況的に、世莉樺が危険な目に遭っている可能性は高い。世莉樺の身を案じた一月は、鬼の気配を追って、校内を走る。

 そして、その場所に辿り着いた。

 学校の最上階へと続く、階段だ。


「うっ……」


 階段は既に、炎が上がっていた。

 オレンジ色の業火が燃え盛り、ボウボウと空気が燃焼する音が聞こえる。まるで、炎の門だった。

 熱い空気を吸わないよう、一月は出来うる限り、呼吸を浅くする。


(鬼の気配も、この上から……!)


 そして、炎に包まれる階段の上からは、鬼の気配。決して錯覚や、幻想などでは無かった。人智を超えた鬼が、死者達の負念の集合体が、この階段の上に待ち受けているのだ。恐らくは、この炎も鬼によって放たれた物なのかも知れない。

 この先に進むべきか、一月がそう考えていた時、


(っ、世莉樺の声!)


 炎が空気を焼く音に混ざり、階段の向こうから、一月が聞き慣れた声が聞こえた。

 否、声では無い――『悲鳴』だ。

 この炎の向こうに、世莉樺が居る。それも彼女は、悲鳴を上げるような状況にあるのだ。


「世莉樺! 世莉樺ーっ!」


 世莉樺が居る事を確信した一月は、階段の上まで声を発してみる。

 しかし、返事は無い。炎の燃焼音に遮られ、声は世莉樺まで届いていないのか。或いは世莉樺は既に、返事が出来るような状況にないのか。


(……行くしかない!)


 迷っている猶予は、一月には与えられなかった。

 世莉樺の身が危うい今、ここで逃げ出せば彼女を見捨てる事になる。

 熱気が襲い来る中、一月は側にあった掃除用具入れを荒々しく開け、水色のポリバケツを取り出した。掃除用具入れを閉めようとも、バタバタと倒れてきたモップや箒を戻そうともせず、近くの水道の出口部分にバケツを置く。水道の蛇口を思い切り捻り、バケツに数秒で水を満たす。


「ふっ!」


 そして、躊躇いもせずにバケツに満たした水を頭から被った。

 空になったバケツを無造作に投げ捨て、一月は躊躇もせず炎の中に身を投じて行く。





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