其ノ参拾 ~急襲~





「朱美急いで、もう授業始まっちゃうよ」


「ちょ、待って世莉樺!」


 間もなく昼休みが過ぎ、五時間目の授業が開始される頃。世莉樺は筆箱と数冊の教科書を持ち、朱美と共に廊下を駆けていた。

 剣道部室で一月と会った後、世莉樺は教室へ戻り、朱美と共に化学の授業の移動教室へ向かった。

 二人は勘違いし、第一化学室で授業が行われると思っていた。しかし、科学の授業が行われるのは第二化学室だったのだ。第一化学室と第二化学室は、まるで正反対の場所に位置しているのである。


「ホントごめん世莉樺、私てっきり、今日は第一化学室だとばかり思ってて……!」


 刻一刻と時は過ぎていく。授業開始までの猶予は、もう僅かだった。


「全然いいよそんな事。それより急がないと、科学の先生遅刻にうるさいし……!」


 茶髪を後方に靡かせ、世莉樺は駆ける。

 第二化学室までの廊下は人気が無い、恐らくクラスメイト達はもう、着席している事だろう。

 急がなければ、本当に遅刻してしまう。世莉樺が思った、その時だった。世莉樺の後ろを走っていた朱美が、廊下の小さな窪みに足を引っ掛け、転倒したのだ。


「きゃっ!」


 それ程派手に転んだわけでは無かった、しかし朱美は前方によろけ、膝を付く。彼女が持っていた数冊の教科書や筆箱が、床に落ちる。

 世莉樺は走っていた足を止め、友人に駆け寄った。


「ちょ、大丈夫!?」


 授業開始が迫っている事も厭わず、世莉樺は朱美に駆け寄り、助け起こす。そして朱美が落とした筆箱を拾おうと、一度朱美に背を向けた。

 後ろから朱美が申し訳なさそうに、


「世莉樺ごめん、こんな場合なのに……」


「ううん大丈夫、それより朱美、怪我とかしてない?」


 その問いに、朱美からの返事は無い。

 代わりに世莉樺の背中に向け、その声が発せられた。


「ひっ!? な、何これ!?」


「……!?」


 尋常では無い朱美の声に、世莉樺はその場で振り返る。

 そして――驚愕した。


《お姉さん……やっと見つけた……》


 そこには居たのだ、その身を黒い霧に包んだ少女が。

 鬼と化した、由浅木瑠唯だ。


「瑠唯ちゃん……!」


 何故、いきなり現れたのか――真っ先に世莉樺は疑問を覚える。しかしそんな事を考える余裕は、世莉樺には残されていなかった。

 瑠唯の体に瞬く黒霧が朱美を包み、彼女の体を、見えない糸で吊り上げるように持ち上げていたから。

 教科書を放り出し、世莉樺は瑠唯と朱美の下へ走り寄る。


「な、何なの!? この黒いの……! ぐっ!」


 黒霧を振り払うように暴れる朱美、彼女は黒霧に持ち上げられつつ、空中で手足を振り回す。

 しかし、瑠唯が放つ黒霧が朱美の首に絡み付き、彼女の声を止めた。

 瑠唯は生気の無い瞳で、世莉樺を見つめている。


「瑠唯ちゃん、止めて!」


 黒霧にその身を包む、鬼と化した瑠唯。最早、本来の面影は何処にも残されてはいなかった。

 瑠唯の姿は、廃校で遭遇したよりも、世莉樺には邪悪で悍ましく見えた。

 ましてや、瑠唯の死の真相を知ってからでは――。


《フフ……遊ぼう? 私と、たくさん……!》


 身に纏った黒霧や朱美と共に、瑠唯の体が宙に浮く。

 黒霧がロープのように、朱美の体や首に巻き付いていた。次の瞬間、まるで空を飛ぶかのように――瑠唯は飛んでいく。


「!」


 世莉樺は、直ぐに理解した。瑠唯は、朱美を連れ去る気なのだ。


「う、ぐあ……!」


 朱美が漏らす苦しげな声が、世莉樺の耳にも届く。もしかしたら瑠唯は、別の場所で朱美を殺害するつもりなのかも知れない。

 世莉樺は手にしていた勉強道具を放り出し、瑠唯の後を追う。


「朱美!」


 朱美の身が危ない、世莉樺の頭に授業の事など無かった。

 このままでは、朱美が殺されてしまう。笹羅木小学校の体育館で見たような、てるてる坊主のような死体にされてしまう。

 恐ろしい想像に、世莉樺は心臓を掴まれるような気持ちになった。


(そんな事、絶対に……!)


 絶対に、朱美を殺させない。世莉樺は瑠唯を追い、走る。

 呼吸は追いつかず、手足が壊れてしまいそうな感覚すら覚えた。しかし――世莉樺には、『止まる』という選択肢などある筈は無い。


「朱美! 朱美ーっ!」


 世莉樺は必死に、朱美を連れ去っていく瑠唯を追う。

 足音が迷惑になる、などと気にしている状況では無かった上、瑠唯が行くのは教室のある区画とは離れた、裏の階段の方だった。

 階段を上がり、踊り場を駆け、瑠唯を追ってどれ程走ったのか。本来は生徒の立ち入りが禁じられている、閉鎖された校舎の四階で世莉樺はようやく、瑠唯に追いつくことが出来た。

 否、追いついたのではなく、瑠唯が止まっただけだ。

 その可愛らしい顔に悍ましい笑みを浮かべ、瑠唯は世莉樺を見つめていた。


「はあ、はあ……!」


 荒ぐ呼吸に両肩を上下させ、世莉樺は瑠唯と向き合う。

 立ち入り禁止の校舎の四階には、勿論人の気配など無かった。電気すらも点いておらず、唯一の明かりは窓から差し込む僅かばかりの光のみだ。清掃されていない床には埃が溜まり、周囲には古い机や椅子が乱雑に積み上げられていた。

 資料室といい、今自身の居る四階といい、この学校にはまだまだ知らない場所があるものだ、と世莉樺は思う。


《鬼ごっこは、もうおしまい……?》


 瑠唯にとっては、遊びのつもりだったようだ。

 しかし、世莉樺にとっては全く違う。


「朱美を放して、その子は何も関係ない!」


 世莉樺の声が、埃まみれの四階に響く。

 瑠唯が不敵に微笑むと、朱美を捕らえていた黒霧が解ける。朱美が背中から、床に落下した。埃が舞い上がる。


「朱美!」


 世莉樺は自身の最も親しい友人に、朱美に歩み寄ろうとする。

 しかし、それは叶わなかった。


《お姉さん、今度はお姉さんの番だよ……》


 目の前に居る瑠唯が、鬼と化した由浅木瑠唯が、世莉樺の行く手を阻んだのだ。瑠唯の体に瞬く黒霧が大きくなり、廊下の天井にまで届く程の大きさになる。


「くっ……!」


 せめて世莉樺は、朱美に歩み寄りたかった。世莉樺が居る場所からでは、朱美の詳細な様子は確認できない。

 ただ朱美は、動かない。声を発する事も、起き上がる事も、手足を動かす事も、息をしているのかすら分からない。


《今度は、ちゃんとてるてる坊主にしてあげるね……?》


 瑠唯が、世莉樺に向けて片手を伸ばす。それが何を意味する動作なのか、世莉樺は知っていた。


(来る!)


 瑠唯の身に瞬く黒霧が、まるで生き物のように世莉樺にまで飛んで来る。

 片手を伸ばす動作は、瑠唯が黒霧を飛ばす前触れなのだ。


「っ!」


 寸前で世莉樺は床に片手を付き、姿勢を低める。彼女の頭上を、瑠唯が放った黒霧が通過していく。

 世莉樺は直ぐに横へ身を動かし、態勢を立て直した。


「姉ちゃん」


 世莉樺の隣に、どこからともなく炬白が現れる。


「炬白……!」


 不意に現れた少年に、世莉樺は内心驚いた。すると炬白は、その手に持った天照を世莉樺へ差し出す。


「今の姉ちゃんなら使える筈だ、この天照を」


 迷っている猶予は、世莉樺には残されていなかった。一刻も早く、朱美を助け出さなければならないのだから。

 世莉樺は、天照を受け取る。


《遊ぼう……? もっと……もっと!》


 直後、瑠唯はさらに黒霧を世莉樺に向けて放つ。


「っ!」


 天照を鞘から抜く猶予は、世莉樺には残されていなかった。

 反射的に世莉樺は、鞘に収められた状態の天照を、自身に向かって追い迫る黒霧の方向へ向ける。瑠唯が放った黒霧が、天照の鞘に着弾する。途端、黒霧がまるで弾かれるように、天照の周囲へと飛散した。


「え……!?」


 世莉樺は驚く。

 自身があれほどに苦しめられた黒霧を、天照は防いだのだ。


「さすが天照、鬼の黒霧なんて物ともしない」


 炬白が呟く。世莉樺は、自らが握る天照を見つめる。


(これがあれば……!)


 ようやく手にした天照の力は、苦労に見合うだけの物があった。

 この霊刀があれば瑠唯を止められる、そして真由を救う事が出来る。世莉樺は自身の中に、希望が芽生えるのを感じた。


《なあんだ、つまんない……》


 鬼と成った瑠唯の発した言葉に、世莉樺は顔を上げる。

 生気の無い瞳が、世莉樺の顔を映した。


《そんな物で、私を虐めるつもりだったの……?》


「……!?」


 自身を惑わせるための言葉、世莉樺はそう思った。

 彼女は天照を鞘に収めたまま、数メートル先に居る瑠唯の様子を伺う。再び黒霧を飛ばしてきても、天照で防ぐ事が出来るくらいの間合いを維持していたのだ。

 その、刹那だった。


《フフフ……あは、あっはははははははははははははははは!》


 瑠唯が腹を抱えつつ、狂ったような笑い声を上げた。同時に、彼女が体に纏う黒霧が不規則に瞬く。

 瑠唯が発しているのは純粋で可愛らしい笑い声では無く、まるで地べたに這いつくばって苦しむ動物を見て楽しむような、邪悪で悍ましい笑い声だった。

 世莉樺は、身構える。


「何が可笑しいの……!?」


 瑠唯が、笑うのを止める。次の瞬間、瑠唯は生気の無い瞳で世莉樺を見据えた。

 不気味さを湛えた微笑みと共に、世莉樺に向かって囁き掛けるかのように、


《だったら、見せてあげる……》


 その言葉に、世莉樺の側に立っていた炬白が反応した。


「まさか……!」


 彼が発した言葉に、世莉樺は炬白を振り返る。

 しかし、瑠唯が次に言葉を発した瞬間、彼女は視線を瑠唯へと戻した。


《お姉さん……私知ってるんだよ? お姉さんがこの世で一番怖い物……》





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