其ノ弐拾八 ~悲シキ真実 其ノ参~




「ひ、ひいぃぃぃぃッ!?」


 泥の上にうつ伏せに横たわる瑠唯の背中に、狼狽えるような男の声が届く。紛れも無く、椰臣の声だ。

 淫らな性癖を瑠唯に向け、彼女を襲おうとした教師は更に言葉を続ける。


「ち、違う……私は何も、殺すつもりなど……!」


 動かない瑠唯を、椰臣は死んだと誤解したらしい。救護もしようとせず、情けない叫び声を上げながら男はその場から走り去って行った。

 ぬかるんだ地面を荒々しく駆ける足音で、世莉樺はそれを察する。


「うっ……」


 瑠唯は、呻くような声を漏らした。

 両手両足、全身が鈍い痛みを放っている。しかし最も深刻だったのは、後頭部の痛みだった。


(ぐっ、痛い……!)


 瑠唯が感じる痛みが世莉樺にも伝わってくる。後頭部を襲うのは、それまで感じた事も無いような激痛だった。まるで頭を切り開かれ、中に石をねじ込まれているかのような感覚である。

 流れ出た血液が両目に入り、ピリピリと鋭い痛みを放っていた。


「あ、ああっ……!」


 立ち上がろうとする瑠唯。しかし、両手も両足も動かなかった。


(両手足の感覚が……!)


 動かないというよりも、世莉樺には両手足の感覚が無くなってしまったように思えた。それでも瑠唯は立ち上がろうとしたようだが、やはり両手足は言う事を聞かない。

 代わりに、後頭部から血液が流れ出る。

 そんな最中、世莉樺は思い出した。


(そういえば、瑠唯ちゃんの死因は……!)


 瑠唯の母によれば、瑠唯が命を落とす原因となったのは後頭部の外傷。

 という事は――。


(事故といえば事故だけど……瑠唯ちゃんが死んだのは、あの男の所為!)


 これが、瑠唯の死の真相だったのだ。

 瑠唯の遺体が何故、立ち入り禁止の筈の裏山で発見されたのか。

 その理由は、椰臣だ。あの男が瑠唯を連れ出し、そして彼女を襲おうとし、瑠唯が死ぬ原因を作り出した。

 これまで知る由も無かった真実を知った世莉樺、しかし彼女を、生前の瑠唯が味わった苦しみや痛みが襲う。


(ぐ、頭が……!)


 後頭部から流れ出た血液が、瑠唯の頬や顎を伝いって雨水の溜まる地面に流れ落ちる。

 落ち葉の上に形成された透明な水溜りを、瑠唯の血が赤く染めていく。

 頭が割れるような激痛が、容赦なく瑠唯を、世莉樺を蝕む。


「痛い……痛い……っ……!」


 瑠唯の両目が、涙で滲む。

 どれ程力を込めようと、彼女は立ち上がる所か両手足を動かす事すらも出来ない。

 彼女に出来るのは、瞳に涙を浮かべつつ、後頭部の激痛に耐え、その身を地べたに這いつくばらせる事のみ。

 雨足は次第に強さを増し、容赦なく瑠唯の小さな体に降りかかる。


「ぐっ、うっ……」


 どうして両手足がいう事を聞かなくなったのか、瑠唯には分からない。

 けれど世莉樺には、容易に想像が付いた。恐らく、先程負った後頭部の外傷の所為ではないだろうか。それが起因し、瑠唯の手足を動かす機能に障害が生まれたのだと、世莉樺は思う。

 けれど、冷静に考える余裕など、世莉樺には残されていなかった。


(寒い……)


 雨が打ち付け、さらに水溜りに寝そべっている事も重なり、瑠唯の体温は奪われていく。

 流れ出て行く血液、身動きの出来ない体、下がっていく体温。瑠唯の頭に、恐ろしい言葉が浮かぶ。


「死ぬ、の……? 私……」


 その言葉は、『死』という一文字。

 小学生の瑠唯でも、自身が置かれている状況は理解出来たのだ。

 ここは人気のない裏山で、しかも天気は雨。誰かが助けに来てくれる可能性など、無きに等しい。


「やだ……やだ、よ……!」


 泥の上に伏したまま、後頭部から血液を溢れ出させながら――瑠唯は力無く発する。

 瑠唯が抱く絶望が、死への恐怖が、世莉樺にも伝わる。


「お母、さんに……謝りたいのに……!」


 絶望や恐怖に苛まれる中、瑠唯が思い浮かべていたのは、自身の母の事だった。ただ一人の家族だった母に、自身は嘘を吐き続け、その結果仲違いをしてしまった。

 だから瑠唯は、謝ろうと思っていたのだ。

 けれど、もしこのまま死んだら、謝る事など出来る筈が無い。それにもう二度と、母に会う事も、母の顔を見る事も出来なくなる。


「お母さん、おかあ……さん……!」


 無情にも、残酷にも、雨音が瑠唯の力無い言葉を吸い込んでいく。どれ程力を込めようとも、瑠唯の両手足は泥の中を微かに動くのみだ。


「う……っ……」


 恐怖と絶望の中、瑠唯は血液と共に、自身の命が流れ出て行くのを感じる。自身の命の炎が、消えかかっていくのを理解していた。

 最後の最後まで、瑠唯は母を呼んでいた。声が出なくなっても、心の中で呼び続けていた。

 どれだけの間、泥の上に伏していたのか。どれだけの間、後頭部の痛みに耐え続けていたのか。どれだけの間、恐怖と絶望に苛まれ続けていたのか。どれだけの間、冷たくなる自分の体温を感じていたのか。

 そして、どれだけの間自身のただ一人の家族を、母の事を呼び続けていたのか。

 由浅木瑠唯は、十代になったばかりの幼い少女は、自らの血液を泥や水溜りに流しながら、降りしきる雨を全身に浴びながら、余りにも短い生涯に幕を下ろした。

 無念にも母に謝罪する時間すら与えられず、瑠唯の瞳はもう二度と、光を映す事は無かった。



  ◎  ◎  ◎



「……!」


 我に戻った時、世莉樺の両目からは涙が流れ、頬を伝っていた。

 場所は、元の自室である。世莉樺の側には炬白が居て、その側には残留思念の瑠唯が居た。


「姉ちゃん……大丈夫?」



 炬白の言葉に、世莉樺は応じなかった。応じずに、世莉樺は立ち上がる。

 そして何も言わずに、瑠唯に歩み寄り――世莉樺は、瑠唯を優しく抱きしめた。瑠唯の死の瞬間を体験した彼女は、そうせずには居られなかったのだ。


《お姉……さん……?》


 瑠唯を胸に抱き寄せ、世莉樺は嗚咽の声を漏らす。

 彼女の死の真相を知った世莉樺には、言いようの無い気持ちが込み上げていた。瑠唯にあんな運命を辿らせた神様が憎く、彼女をあのような状況に陥る切っ掛けを作ったあの椰臣という教師が赦せなかった。

 悔しくて悲しくて、瑠唯が可哀想で、理不尽に対する堪えようの無い怒りや悲しみが、涙となって世莉樺の瞳から零れる。


「怖かったね……瑠唯ちゃん、怖かったね……!」


 涙の混ざった世莉樺の声。瑠唯は、何も返さなかった。

 初めて自身の味わった痛みや悲しみを理解してくれた世莉樺に、その身を委ねるのみである。

 炬白は側で、視線を外した。

 その後、瑠唯は自身が世莉樺に見せた体験に関し、自身の口から補足する。

 三人は、向かい合うように立っていた。


「じゃあ、あの教師はもう?」


 炬白が問い返すと、瑠唯は首を縦に振った。


《鬼に成った方の私は、真っ先に椰臣先生を殺したの。それも直ぐには殺さないで、徐々に先生を追い詰めて、自殺に追い込んだ……》


「……つまり、精神的に嬲り殺しにした」


 炬白が補足する。

 考えてみれば恐らく、一度で殺すよりも苦しむ殺し方だろう。


「それから君の魂は鬼に取り込まれて、鬼の一部と変わり……生前の君を蔑んでいた者や、君が死ぬ原因を作った教師への憎しみから、生きている者を無差別に怨念の捌け口にし始めた……そんな所かな?」


 壁に背中を預け、炬白は自身の推測を語る。彼の推測は当たっていたらしく、瑠唯は首を縦に振った。


「許せない……教師の癖に、自分の生徒にそんな事をするなんて……!」


 世莉樺は拳を握りしめ、怒りを露わにする。

 瑠唯に手を出し、事故死する原因を作った椰臣という教師。どんな道理があろうとも、許す訳にはいかなかった。


「けど姉ちゃん、その教師は鬼に成った瑠唯に殺されてるんだ。オレ達にはもう何も……」


 炬白の言葉に続くように、瑠唯が言う。


《先生は、私を殺すつもりは無かった。それに、あれだけ苦しむ先生を見ていると、私は何だか……》


 椰臣が死ぬ以前の事を、瑠唯は世莉樺と炬白に打ち明けた。

 鬼と成った瑠唯は、毎晩のように椰臣の所へ現れ、決して殺さずに彼の精神を蝕み続けたのだという。気の小さい椰臣は罪悪感に怯え、恐怖し、悪夢に苛まれ、やがて異常な行動を取ったり、意味不明な事を口走るようになった。

 そしてついに耐え切れなくなり、自室で首を吊ったのだ。


「同情する価値があるかは怪しいけど、それはそれで気の毒かもね」


 炬白は言う。

 すると、世莉樺は気付いた。瑠唯の体が、次第に透け始めている。


「瑠唯ちゃん、体が……!」


《……!》


 瑠唯は、驚く様子も無く、自身の腕を見つめた。

 透ける腕に、瑠唯自身も気付いたらしい。

 すると瑠唯は、黄色いパーカーのポケットから何かを取出した。


《お姉さん、これを……》


 瑠唯が世莉樺に手渡したのは、オレンジ色の折り紙で折られた、折り鶴である。


「これは……?」


《もし良かったら……私のお母さんに渡してあげて》


 世莉樺が折り鶴を受け取るのとほぼ同時に、瑠唯の体が透ける速度が速まる。


「瑠唯ちゃん!」


 受け取った折り鶴を片手に、思わず世莉樺は叫んだ。

 すると瑠唯は、焦る様子も無く――。


《きっと、私は二度とお姉さんの所には出て来られなくなる。私の魂は、もう鬼に取り込まれてるから……》


 その身が完全に消える直前、彼女は悲痛な面持ちと共に、世莉樺と炬白に紡いだ。

 最後になるであろう言葉を、自身の想いを。


《お願い……! 私を、鬼を止めて……!》





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