其ノ弐拾七 ~悲シキ真実 其ノ弐~


(……!?)



 次に視界を取り戻した時、世莉樺は窓ガラス越しに鵲村の風景を見つめていた。空は灰色の雲に支配され、陽の光など微かも降りていない。ただ、無数の雨粒が陰鬱に降りつけている。

 窓ガラスには、瑠唯の顔が映っていた。その物憂げな眼差しが、世莉樺にも見えた。


(瑠唯ちゃん、すごくショックだったんだ。お母さんにあんな事言われたの……)


 その時、世莉樺は誰かに肩を叩かれた感覚を覚える。同時に世莉樺の意思とは関係なく、瑠唯は後ろを振り返った。


「由浅木、まだ帰らないのか?」


 瑠唯の肩を叩いたのは、眼鏡を掛けた男である。

 歳若い男だが異様に痩せ細った体型をしており、何だか顔色も良くなく、世莉樺にはどこか不健康そうに思えた。


「椰臣先生……」


 瑠唯は、男を『椰臣』と呼んだ。

 その男を初めて見たにも関わらず、世莉樺には椰臣の事が理解出来た。この男が誰なのか、瑠唯とどういう関係なのか。


(瑠唯ちゃんの、担任の先生……)


 男の名は、『椰臣義嗣(やおみよしつぐ)』。

 笹羅木小学校の教師で、瑠唯の担任だ。恐らくは、生前の瑠唯の記憶が世莉樺に引き継がれているらしい。

 瑠唯の担任の教師が居る事から、世莉樺は自身が何処に居るのか、予想が付く。周囲の様子を一瞥した時、その予想は確信へと変わる。


(ここは学校……瑠唯ちゃんが通ってた、笹羅木小学校……!?)


 小さな机や、木目が剥き出しの床や壁。紛れも無く、今はもう廃校となった笹羅木小学校だ。


「こんな時間まで何をしてる? お母さんが心配するぞ」


 機械が発しているかのような、抑揚を欠いた不気味な声だった。まるで、この男の体内に埋め込まれたスピーカーから声が出ているかのようである。


「心配なんて……する筈ありません」


 俯くように視線を降ろしつつ、瑠唯は椰臣へと応じた。


「お母さんと何かあったのか?」


 優しく語りかけるように、椰臣は問い掛けてくる。


「……」


 世莉樺は、自らの視界が涙で歪むのを感じる。しかし、泣いているのは世莉樺ではなく、瑠唯だ。


「喧嘩をしました。お母さんと……私が嘘を吐いていた所為で」


 先程世莉樺が見た、瑠唯の家での光景だろう。世莉樺は瑠唯と同化したまま、会話を見守る。


「……そうか」


 椰臣は、瑠唯の頭の上に手の平を乗せる。そしてあやすように、自分の生徒である少女の頭を撫で始めた。

 教室には、瑠唯と椰臣以外には誰も居ない。


「少し、歩くか?」


 瑠唯は涙を拭いつつ、椰臣の提案に頷く。

 そして、椰臣と瑠唯は――笹羅木小学校の教室を後にしていく。


(何処に行くんだろう……?)


 瑠唯と一体化している世莉樺は、怪訝に思った。



  ◎  ◎  ◎



(ここって……!)



 瑠唯と椰臣が足を運んだ先は、世莉樺も知っている場所だった。否、知っている所では無いだろう。

 その場所は、世莉樺にとって忌むべき場所である。


(笹羅木小学校の……裏山!)


 鬱蒼と生い茂る草木が、雨の雫に揺れていた。小さな水溜りが幾つも地面に形成され、波紋が広がっている。

 笹羅木小学校の裏山――そこは、瑠唯が死んだ場所。彼女が遺体となって発見された所である。


(でも、どうしてここに……)


 瑠唯と椰臣は、張り渡された黄色のロープをくぐり抜けて進んでいく。生徒であろうと教師であろうと、本来ならば立ち入り禁止の筈の裏山の中を。

 一体どこまで行くのだろう、そう世莉樺が思った時、瑠唯と椰臣はようやく足を止めた。


(ここは……)


 瑠唯の視界が、世莉樺にも共有される。

 その場所は地面が高所になっており、木々が途切れている裏山の一部分が見えた。


「お地蔵様だ」


 椰臣の声に、瑠唯は振り返る。

 すると、かつては直立していたであろう地蔵が、斜めに立っていた。至る所に傷が付いており、右手首から先が壊れ、失われている。

 痛々しい姿にも関わらず、その表情は穏やかだ。


「可哀想……」


 倒れてしまい、さらに雨に打たれる地蔵が不憫に感じたのだろう。瑠唯は、自身が持っていた傘を地蔵に捧げ、両手を合わせる。


「由浅木は、優しいね」


 椰臣は、自身の差す傘の下に瑠唯を入れた。

 瑠唯は何とも思っていないようだが、世莉樺には少し違った。


(っ、相合傘……)


 瑠唯は振り返る。

 すると、椰臣が眼鏡越しに見つめていた。


「君への虐めの事は知っている。力及ばす……本当に済まない」


 椰臣は、瑠唯に対する虐めの事を知っていた。瑠唯の母から真っ先に電話を受け、改善するよう尽力していたのだ。


「いいんです。私の変な力が、そもそもの原因ですから……」


 と、その時瑠唯は、自身の肩に手が回される感触を覚えた。世莉樺にも、その感触が伝わる。


(ひっ!?)


 いきなり肩に回された、手の感触。瑠唯も困惑したらしい。


「先生……?」


 椰臣に視線を戻した瞬間、瑠唯はぞっとするような寒気を覚えた。世莉樺は瑠唯の感じたそれに加え、とてつもない不気味さを覚える。

 その原因は椰臣の卑猥な表情と、いやらしげな目つきだ。


「由浅木……君は本当に良い子だね、それにとても可愛い……」


「……!?」


 小学生の瑠唯にも、椰臣の不気味さは感じ取れたようだった。

 信頼していた椰臣の、見た事も無いような表情。驚く瑠唯を意に介さずに、男は瑠唯の肩を掴みつつ、続ける。


「先生……由浅木の事、ずっと見てたんだ。ずっと、君と二人になりたいと思ってた……」


「え……?」


 瑠唯には、その言葉の意味が理解出来なかったらしい。

 しかし、世莉樺には違った。世莉樺にははっきりと、椰臣の言葉の意味が分かる。


(何この人、まさかロリコン……!? やだ、気持ち悪い……!)


 瑠唯と二人きりになって、椰臣の本性が露わになった。男は、幼い少女に対して性的な感情を抱く性癖の持ち主だった。世莉樺の言う所の、ロリコンだ。

 不健康そうな外見もあり、眼鏡越しに瑠唯を見つめる男の瞳が、世莉樺にはとてつもなく不気味に思え、寒気がする。


(瑠唯ちゃん……この男と居たら駄目!)


 一刻も早く、世莉樺は瑠唯にこの男から離れて欲しかった。

 彼女はふと、都会に住む友人が携帯のサイトで知り合った男と会い、強引にホテルへ連れ込まれた事件の事を思い出す。その友人は心に癒えぬ傷を負い――何度も自殺を図った。

 このままでは、瑠唯がその友人と同じような目に遭う。世莉樺はその事を、危惧していたのだ。

 しかし、瑠唯は自分がどんな状況に置かれているかを理解出来ていないらしく、戸惑いを露わにするのみで、その場から動こうとはしない。


「皆君を化け物って言ってる……君を普通の子として見ているのは、私だけだ……」


(! まさかこの男……!)


 寒気すら覚える男の言葉から、世莉樺は一つの仮説を導く。椰臣は、瑠唯への虐めを無くす尽力など、一切していなかったのかも知れなかった。

 皆が瑠唯を嫌えば、彼女をまともに見ているのは自身だけ。自身だけが瑠唯を理解しているのだから、彼女の心は自分の物。そういう歪んだ思想を、この男は持っていたのだろう。


「君は、私の物だ……!」


「っ!? 痛い!」


 食い込むように、男の指が瑠唯の肩に食い込む。

 男にあるのは、薄汚い欲望だけだ。由浅木瑠唯という少女を独占し、自分の物にし、服従させたい。そんな常軌を逸した感情だけだ。


(やめて……瑠唯ちゃんに触らないでよ!)


 瑠唯が、薄汚い男の手に堕ちようとしている。世莉樺には我慢できなかった。けれど、その場に居ない瑠唯と同化しているだけの世莉樺には、何も出来ない。

 瑠唯を救う事も出来なければ、男を罵る事さえ出来ない。


「嫌、嫌っ! 止めて下さい!」


 瑠唯はようやく、気付いたらしかった。自身を見つめる男の異常さに、男の本性に。

 男の手を払おうと暴れはじめる瑠唯の力強さに、椰臣は内心、驚く。


「ぐっ! 大人しく……!」


 男は非力で、瑠唯ががむしゃらに暴れると怯んだ。再び掴もうとして来るその手を必死に振り払うと、一瞬の隙が生まれる。

 瑠唯はその隙を逃さずに、男から逃げようと駆け出した。


「おい! そっちは危ないぞ!」


 椰臣の言葉に、瑠唯は振り向きさえもしなかった。

 とにかく、この気持ちの悪い男から逃げなければ。その一心で、瑠唯は必死に足を動かす。雨粒が、彼女の黄色いパーカーや髪に打ち付ける。


(瑠唯ちゃん、逃げて! 早く!)


 瑠唯の焦燥感や、感覚を狭める心臓の鼓動が世莉樺にも伝わる。

 走っているのは世莉樺ならば造作も無い距離だが、小学生の瑠唯には違った。瑠唯の荒くなる息遣いが、雨音に混ざりはじめる。


「はっ、はっ、はっ……!」


 男はきっと、追ってきているに違いない――瑠唯は一度、後ろを振り返る。

 その時だった。


「きゃっ!」


 突然、足元から地面が消えた。瑠唯と同時に、世莉樺も驚愕する。


(っ!?)


 途端、瑠唯の小さな体がバランスを崩し、前方へと傾く。

 地面が消えたのでは無かった。逃げる事に必死だった瑠唯は、地面が途切れている場所に自ら踏み出してしまったのだ。


「うあああっ!」


 急斜面を転がり落ちる瑠唯、泥でぬかるんだ地面が、背中や腕や足に叩きつけられるのを感じた。

 その直後――。


「うっ!」


(ぐっ!)


 瑠唯と、彼女と同化している世莉樺。

 二人は同時に、後頭部に突き刺さるような激痛を覚えた。これまで体験した事の無いような、死に直結するような痛みを。

 それでも、急斜面を転がり落ちる瑠唯の体は、止まらない。


(うっ……痛い……!)


 後頭部の痛みに、瑠唯は手を当てる事すらも許されなかった。

 数秒――まるで叩きつけられるような勢いで、瑠唯の体は急斜面の下の地面に落ちる。

 うつ伏せの形で落ちた彼女は、僅かも動かない。





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