其ノ拾九 ~瑠唯~


 瑠唯は、世莉樺の顔に向かって手を伸ばす。世莉樺は気付かない。


《……》


 瑠唯の白い手がゆらゆらと、まるで人魂のように暗闇に浮かんでいた。

 ゆっくりと、だが確実に瑠唯の手が世莉樺に触れようと伸ばされていく。

 窓の外で雷鳴が鳴り、瑠唯の腕が、レモンのように黄色いパーカーが映し出される。

 眠っている世莉樺は、瑠唯に気付く様子もない。


「ん……」


 無意識に発したであろう一文字と共に、一瞬だけ世莉樺の眉間が狭まる。

 彼女の顔が、白いシーツの上に広がった茶髪と共に少しだけ動く。


《……》


 瑠唯は一度、戸惑うように表情を変化させる。

 世莉樺に向かって伸ばされていた腕が、一旦停止する。

 しかし、世莉樺がそれ以上の反応を示さなかった事を確認し、瑠唯は再び手を伸ばし始めた。

 少しずつ少しずつ、瑠唯の小さな手が世莉樺の顔との距離を狭めていく。

 そして、瑠唯の指が世莉樺の頬に触れようとした瞬間だった。

 突如部屋の電気が点き、暗闇だった世莉樺の自室が明るく照らされる。


《!》


 瑠唯は、弾かれるように後ろを振り返った。

 ドアの横に備えられた電気のスイッチに、手を被せている少年が居る。

 炬白だ。


「……!」


 彼は険阻な面持ちを瑠唯に向け、叫んだ。


「姉ちゃん!」


 部屋中に届き渡る程の音量で、世莉樺の名前を叫ぶ。

 眠っている彼女を起こす事に、内心炬白は罪悪感のような感情を持っていた。しかし、そんな事を考慮している状況では無い。


「!?」


 炬白の叫び声によって、世莉樺は一瞬で夢の中から引き戻される。

 反射的に、彼女は布団の上で身を起こす。寝ぼけ眼だったが、彼女は直ぐに部屋の様子に違和感を感じた。


(部屋の電気……? 何で点いて……)


 就寝する前に、部屋の電気は間違いなく消したはず。

 消したはずの電気が何故、点いているのか。

 しかし目の前に居る少女を視認した瞬間、世莉樺の疑問はかき消される。残留していた眠気も、一緒に。


「ひっ!?」


 世莉樺の意思と関わりなく、彼女の喉から声が漏れる。

 その原因は、彼女の目の前に居る黄色いパーカーに、横にボリュームを持ったショートヘアを持つ少女――瑠唯だ。

 小学校での出来事が、世莉樺の頭に蘇る。


「や、やだ……! やだっ!」


 どうして、瑠唯が自分の部屋に居るのか。まさか、自分を殺す為に追って来たのか。

 錯乱するような精神状態に陥りつつ、世莉樺は布団を蹴散らしながら後ずさった。しかし、直ぐに部屋の壁に背中が当たってしまう。

 部屋の入り口が瑠唯の後方にある以上。逃げる手段は無かった。


「はあっ、はあっ……!」


 心臓が鼓動を速めるのを、世莉樺は感じる。

 まるで過換気症候群のように呼吸を乱しつつ、世莉樺は瑠唯を見る。


 ――殺されるの? 私、ここで……。


 殺されるという考えが、世莉樺の頭の中を巡る。

 彼女の心は、恐怖に染め上げられていた。


「……!?」


 しかし、瑠唯は世莉樺に襲い掛かる様子は無かった。

 彼女は世莉樺の顔を見下ろしたまま、その場に立っているだけである。


(何だか、何か違う……?)


 気が付けば、小学校で遭遇した時とは瑠唯の様子が違う。

 彼女の体は黒霧に包まれておらず、悍ましく禍々しい雰囲気は無い。今の瑠唯は、どこにでも居そうな普通の女の子に見えたのだ。


《……》


 何も発しない瑠唯――しかし、世莉樺にはどこか、彼女が悲しげな面持ちを浮かべているように見えた。

 理由は分からないが、瑠唯が襲ってくる様子は無い。


「……瑠唯ちゃん?」


 荒いだ呼吸を整え、世莉樺は発した。今自分の前に居る少女の名前だ。


《……!》


 瑠唯は、くりりとした大きな瞳をまばたきさせた。

 そして彼女は――ぽつりと発する。


《お姉さん……ごめんなさい》


 普通の声では無かった。

 耳が聞くのとは違い、直接頭の中に響くような声だ。


(!? どういう事……?)


 世莉樺は困惑する。

 炬白が、腰に掛けた鎖から手を離すのが見えた。

 今目の前に居るのは、間違いなく由浅木瑠唯だ。けれど明らかに、小学校で遭遇した時とは様子が違う。襲い掛かってくる様子も無ければ、邪悪さも感じない。


《止めようとしたの。だけど、もう私にはどうにも出来なくて……》


 世莉樺には状況が理解出来ない。

 由浅木瑠唯は間違いなく鬼と成り、人を殺める狂気の存在と化した。

 ならば今、ここに居る瑠唯は何者なのか? 少なくとも、人間ではない事だけは確かだ。


「……そっか。姉ちゃん、この子……本来の瑠唯の人格だよ」


「え……?」


 世莉樺の疑問を感じ取ったのだろう、炬白が先だって世莉樺に説明する。


「残留思念、みたいな物かな。この子が死んだ時、鬼はこの子の負の部分を吸収したんだ。それで、残された正の部分が……」


「……精霊に成ったって事?」


 世莉樺は炬白に問い返す。

 瑠唯は下に視線を向け、悲しげに俯いていた。


「ううん、残留思念だから精霊とは違う。けど、意思の疎通なら……」


 炬白が瑠唯に視線を向け、世莉樺もそれを追う。

 気付いて見れば、瑠唯の体が透けていて後ろのドアが見えていた。

 一時の沈黙の後、瑠唯は発した。


《お姉さんを傷つける気なんて無かった……でも、あの鬼は私には止められなくて……》


「精霊と違って……残留思念には本来、何の力も無いから」


 補足するようにして、炬白は付け加える。

 世莉樺は応じた。


「瑠唯ちゃんなの? 本当に……」


《……》


 瑠唯は、世莉樺と視線を合わせつつ頷いた。

 小学校での事を除けば、世莉樺と瑠唯が顔を合わせるのは数年振り。それも、本来は二度と顔を合わせる事は無かった筈だ。

 瑠唯はもう、この世に居ないのだから。


「……私こそごめんね。あの約束、守ってあげられなかった……」


 瑠唯が存命だった頃、世莉樺は瑠唯と一つの約束を交わした。明日もまた公園で会おう、という約束だ。

 黄色いパジャマの胸元で拳を握りつつ、世莉樺は悲壮に駆られるように発する。


「本当に、行こうと思ってたの……! だけど、約束をしたその日の夜に……」


「姉ちゃん!」


 世莉樺の言葉を遮るように、炬白が発する。

 これまでの炬白と違い、冷静を欠いたような――叫ぶような声で。


「今は……そんな話をする場合じゃないと思うよ」


「え……?」


 炬白は、瑠唯の足元を指差した。彼女の足元は、より強く透けている。


「魂の殆どの部分を鬼に持っていかれて……この子、存在自体が弱まってる。直ぐに消えちゃうと思う。聞きたい事があるなら、今だよ」


 炬白の宣告に、世莉樺は驚く。しかし、当の瑠唯は冷静だった。自分が死んでいるという事実も、自身の運命も、何もかも受け入れているかのようだ。


《心配しないで、私はもう死んでるから。もう、この世から切り離された存在だから……》


「そんな……!」


 悲哀を感じる世莉樺、瑠唯は真に迫る様子で、彼女に懇願する。


《お姉さんお願い。鬼を、私を止めて……! お姉さんにしか頼めないの……》


 鬼と成った瑠唯が行っていた、残忍極まりない虐殺――それは、瑠唯の本意では無かったのだ。

 彼女の言葉から、世莉樺はそれを察する。

 世莉樺は瑠唯と視線を合わせ、頷いた。


「そのつもりだった、心配しないで瑠唯ちゃん、絶対に止めるから!」


 確固たる意思と共に、世莉樺は瑠唯に返す。

 同時に、彼女は思い出した。今自身が直面している、ある問題の事だ。


「ねえ瑠唯ちゃん、誰か瑠唯ちゃんの事を知っていて、私が今でも会える人って、居ない!?」


《え……?》


 世莉樺が何故、そんな事を訊いて来るのか、恐らく瑠唯には分からなかっただろう。

 しかし、世莉樺には時間が無かった。

 ここでだれか、瑠唯の事を知る人を掴まなければ、瑠唯の事を知る機会は恐らく永遠に訪れる事は無く、天照を従わせる事が出来なくなる。


「お願い! 鬼を止める為にも、真由を助けるためにも……私、瑠唯ちゃんの事を知らなければならないの!」


 透けていく瑠唯の体――もう、本来の瑠唯は出て来られないのかも知れない。

 だからこそ、世莉樺はこの機会を逃す訳にはいかなかったのだ。


「誰でも良いんだ、誰か居ない?」


 炬白も、世莉樺に続いた。


《……》


 瑠唯は沈黙した。

 彼女の心中は、世莉樺には計り知れる。いきなり自分の事を知らなければならない、と言われても戸惑うだけだだろう。

 一体何の為なのか、どんな理由があって、自分の事を探ろうとしているのか。恐らく瑠唯は、そう思っているに違いなかった。

 沈黙する間にも、瑠唯の体は下半身の部位から徐々に透けていく。完全に消えてしまうまで、もう一刻の猶予も感じられなかった。


「お願い、私……瑠唯ちゃんの事も助けてあげたいの。だから……!」


 世莉樺は諦めない。


《……さん》


 瑠唯が、呟くような声で何かを発した。


「え……?」


 聞き取れなかった世莉樺は、一文字で返した。すると、瑠唯は鮮明な声で応じた。


《お母さん》


 ――『お母さん』。

 瑠唯は確かに、そう言った。次第に消えゆきながら、彼女は悲しげな面持ちで続けた。


《私のお母さんなら、きっと……》


 その言葉とほぼ同時に――瑠唯は消えた。鬼と化した少女の、本来の人格は消え去ってしまったのだ。

 世莉樺の部屋の中には、世莉樺と炬白の二人だけが残されている。


(瑠唯ちゃん……)


 世莉樺は物憂い気持ちになる。本来の瑠唯の人格を見る事が出来た事に、一応の安堵は感じた。

 けれどもそれは、すぐに消えてしまった。

 もう、心優しかった瑠唯は居ないのか。世莉樺が知る瑠唯は消滅し、居るのは鬼と化した瑠唯だけなのだろうか。


「あの子、『お母さん』って言ったね。……姉ちゃん?」


「!」


 自身の背中に向けて発せられた炬白の声に、世莉樺は我に戻る。

 垣間見えた、本来の瑠唯の言葉の意味を世莉樺は考える。


「……そっか、瑠唯ちゃんのお母さんなら……!」


 世莉樺は確かに光を見出す。限られた僅かな時間の中でも、確かに希望を掴み取る事が出来た気がした。

 鬼を止める為、そして真由を救う為の、希望が。






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