其ノ拾七 ~姉ト弟~
夜、九時頃――世莉樺は弟の悠太を寝かしつけていた。
いつもなら真由の役割なのだが、彼女が昏睡している今、悠太を寝かしつける者は世莉樺しかいない。
部屋中に容赦なく響く雨音、時に轟く雷鳴。幼い悠太には、恐怖の対象でしかなかったのだ。
雪臺家の長女として、母が不在の今、この家での最年長者として――大きな物を背負っている今でも、世莉樺は弟の事を蔑ろにはしない。
「悠太、最近幼稚園はどう?」
両足の間に尻を落とした座り方――所謂『女性座り』で、世莉樺は布団に入る悠太の脇に腰かけていた。
黄色いパジャマに茶髪のロングヘアを泳がせつつ、彼女は布団に身を潜らせる悠太に問う。
すると、布団の中から「別に……何も無い」という声。悠太は、完全に布団の中に立て籠もっている。世莉樺は思わず、笑みを漏らした。
「雨音、そんなに怖いの?」
「こ、怖くない! 怖くなんかない!」
悠太は布団の中から、顔だけを出す。まるで、カメのようだ。
その瞬間だった。
外で雷が落ち、雷鳴と共に部屋の中が照らされる。
「ひわあああああああっ!?」
再び、悠太は顔を布団の中に引っ込ませた。誰がどう見ても、怖がっている。
対して世莉樺は、雷に怯える悠太の姿に思わず、笑ってしまった。
「あははははっ! 完全に怖がってるじゃん……」
「ち、違う! びっくりしただけ! 怖がってるんじゃない!」
世莉樺には、悠太の顔は見えない。
けれども、彼は布団の中で顔を真っ赤にしているに違いなかった。
「真由にもからかわれちゃうよ? 雷なんかで、そんな女の子みたいな悲鳴上げてたら」
きっと悠太は、むきになって言い返してくるのだろう――世莉樺はそう思っていた。
しかし、布団の中の彼は返事をしない。
沈黙が流れる。
――もう、寝ちゃったのかな? 世莉樺がそう思った時。
「世莉樺姉ちゃん……真由姉ちゃん、大丈夫だよね?」
悠太はまだ、寝ていなかった。布団越しの彼の言葉に、世莉樺は一時、言葉を探す。
すると悠太は、言葉を重ねてきた。
「ちゃんと元気になって、帰って来るよね……?」
「……!」
世莉樺は思わず、悠太と自身を遮る布団の存在に感謝した。
もしも布団が無ければ、不安の色を浮かべる自身の表情を、悠太に見られていただろうから。
しかし、悠太への言葉を紡ぐ時には、世莉樺の表情には優しげな笑みが湛えられている。十五歳という年齢の割には大人びた――たおやかな、包み込むような微笑みが。
「真由とケンカしてる事もあるけど……なんだかんだで悠太、真由の事好きなんでしょ?」
世莉樺の茶色いロングヘアが、蛍光灯の明かりに煌めいていた。
「……うん。真由姉ちゃんだけじゃないよ、お母さんも、お父さんも、それに世莉樺姉ちゃんの事だって……」
「!」
悠太から返された言葉に、世莉樺は心が温まるような感覚を覚える。
「……悠斗の事も?」
世莉樺は思わず、その名前を出していた。もう、この世に居ない――世莉樺の弟で、悠太の兄にあたる少年の名前を。
「……もちろん」
少しの間を空けて、悠太からの返事が返って来る。
「世莉樺姉ちゃん。今まで僕、悠斗兄ちゃんの事は話に出さないようにしてたんだ」
「どうして?」
「だって悠斗兄ちゃんの名前聞くと、世莉樺姉ちゃんも真由姉ちゃんも、お母さんも……皆悲しい顔するから」
「……!」
世莉樺は少なくとも、これまで悠太に悲しい顔を見せたつもりは無かった。
けれど、悠太にはそう見えていたのか。押し留めていた気持ちは、悠太には見透かされていたのか。
「世莉樺姉ちゃん。もしも良かったら……悠斗兄ちゃんの事教えてくれない?」
「……そっか。悠太、悠斗の事何も分からないもんね」
悠斗が亡くなったのは、悠太がまだ赤子の頃である。故に悠太は、写真以外では悠斗の顔すら見た事も無いのだ。
世莉樺は紡ぐ。亡き弟、雪臺悠斗の事を。
「悠斗ね、お母さんが悠太を身ごもった時、すごく喜んだの。弟か妹が増えるんだって。真由の時もそうだった」
「……そうなんだ」
世莉樺は続ける。
「何年も前、悠斗の誕生日パーティーで、ケーキの蝋燭吹き消す時……私、『自分もやりたい』ってごねたらしいんだ。正直、覚えてないけどね」
自然と、世莉樺から笑みが漏れる。
悠太も同じだったのだろう。布団の中から、世莉樺に悠太の笑い声が聞こえて来た。
「そしたら悠斗、私にもやらせてくれたらしいの。年に一回だけしかない、自分の誕生日なのに……」
そこで世莉樺の言葉は止まる。止まってしまう。
視線を下に向け、彼女は両目を閉じた。生前の悠斗の姿が、彼女の脳裏に過っていた。
世莉樺の弟の悠斗。
甘いお菓子が好きだった悠斗。
算数が苦手だった悠斗。
優しかった悠斗。
そして――。
“姉ちゃん助けて! 痛い……! 世莉樺姉ちゃん!”
世莉樺にとって、忘れられる筈が無い記憶。まるで地獄のような最中――必死に、世莉樺に向かって助けを求めた悠斗。世莉樺が生前の悠斗を見るのが最後となった、最期の悠斗の姿。
「……! 世莉樺姉ちゃん、もしかしたら僕のプリン食べたの、悠斗兄ちゃんなのかもね! お腹空いてて、つまみ食いしちゃったのかも……」
世莉樺の言葉が途切れた事に、悠太は姉が悲痛な気持ちに駆られている事に気付いたのだろう。
彼の言葉は不器用で、繋ぎとめるように即席な物だった。
「……そうかもね。悠斗、甘いお菓子好きだったし」
本当は誰が悠太のプリンを食べたのか、世莉樺は知っていた。今世莉樺の部屋に居るであろう、炬白である。
世莉樺は、悠太が潜り込んでいる布団の側に身を横たえた。
そして――後ろから、布団越しに悠太の体に腕を回す。
まだ幼稚園児である弟の小さな体を、世莉樺は優しく抱きしめた。彼女の茶髪が、布団の上に広がっている。
「悠太は優しいね。末っ子で一番小さいのに、誰よりも私達の事考えてくれてるんだもんね」
「……」
返事は無い。
けれど、世莉樺は無性に悠太の事が愛おしかった。ただ背伸びをしているだけでは無い、悠太の心は世莉樺が思っていた以上に、大人びていた。
「気に掛けてくれてありがとね。ずっと優しい悠太でいてね……」
弟の体を抱いたまま、囁きかけるように小さな声で、世莉樺は紡ぐ。
すると、布団越しに悠太の呼吸音が聞こえてくる。弟はもう、眠ってしまったらしい。
世莉樺は身を起こし、蛍光灯の紐を引く。
真っ暗になった部屋を、出来うる限り物音を立てないよう注意を払いつつ、世莉樺は出て行こうとする。
(……悠斗)
出て行く間際――世莉樺は亡き弟、悠斗の事が気に掛かる。
世莉樺の心を悠斗と繋ぎとめているのは、ただ一つの物。姉として弟を思いやる心で無ければ、亡き弟への哀悼の念とも違う。
悠斗への、『罪悪感』だ。
「……っ」
世莉樺は、廊下へ続くドアのノブを握る。
彼女の悲痛な面持ちを見る者は、そこには誰一人として居なかった。
◎ ◎ ◎
「寝たの? 悠太」
自室に戻った世莉樺を、黒着物の少年が迎えた。彼は天照を床に置き、その鞘を指でなぞっている。
「うん。で、それの事……何か分かった?」
世莉樺は目線で天照を指しつつ、炬白に問いかける。炬白は頷き、天照を持ちつつ応じた。
「この霊刀、このままだと使えないみたいなんだ」
「え……どういう事!?」
鬼と相対するには、霊具が無くてはならない。
天照が使えなくては、瑠唯と相対する事は出来ないだろう。炬白は天照を世莉樺へ差し出しつつ、
「姉ちゃん、ちょっと抜いてみて」
「え……」
戸惑いつつも、世莉樺は天照を受け取る。
(! ……重たい)
生まれて初めて持つ本物の刀は、世莉樺が思っていた以上に重く、冷たかった。
改めて世莉樺は、天照が剣道で使う竹刀や木刀とは違う事を実感する。これは正真正銘、本物の刀なのだ。
世莉樺は柄を握り、刃を鞘から抜こうとする。
「んっ! ……あれ?」
しかし、刀は抜けなかった。もう一度世莉樺は天照を抜こうとする――しかし、結果は同様。まるで鞘と刃が固定されているように、天照は抜けない。
鞘に隠された刃が現れる事は、無かった。
「きっと、姉ちゃんが通っている学校では『錆びついてて抜けない』とでも思われてたんだよ。そうでなければ、生徒が出入りする部屋に本物の刀なんて保管しないでしょ?」
「そっか、確かに……!」
世莉樺が思い出せば、確かに教師は『資料室に危険物は保管していない』と言っていた。
しかし、本物の刀は明らかに危険物ではないのか。生徒が安易に持ち出せば、死傷者が出る騒ぎにもなりかねない筈だ。
にもかかわらず学校が天照を資料室に保管していたのは、常人には『抜けない』からだ。古い刀であるが故、学校は『錆びついている為に抜けない』と考えていたらしいが、実際の理由は違った。
炬白は説明する。
「この刀……抜くには二つ条件があるんだ」
炬白は世莉樺に向かって、指を二本立てる。
「一つ目、使う人が通霊力である事……これは姉ちゃん、問題ないね」
世莉樺は頷き、応じる。
炬白は二つ目の条件を、世莉樺に説明した。
「そして二つ目は……天照を扱う動機。この刀を認めさせる『想い』が必要なんだよ」
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